あけましておめでとうございます。
本年もよろしくおねがいいたします。
昨年、2020年は、新型コロナウイルスの感染拡大と、それに伴う「新しい生活様式」に戸惑う1年になりました。昨年末から年明け、新型コロナウイルスの感染者数は収束するどころか、さらに増えてきており、多くの人たちは「コロナ疲れ」というか、「コロナ慣れ」してしまっているかのようにも感じます。正直、ここまで増えてくると、感染経路を特定するのも困難だし、ワクチンが実用化されて普及するか(とはいえ、こんな短い期間で開発されたワクチンはちょっと怖いな、とも思うのですが)、ほとんどの人が既感染者になってしまうしかないのかな、とも考えてしまいます。ただ、あまりにも急速に感染拡大すると、医療機関で対応しきれなくなってしまうため、なんとか感染者数の爆発的な拡大を抑制したいところではありますが……
このブログでは、毎年、新年最初のエントリは、「現在のブログ情勢と今年の展望」みたいなことを書いているのです。
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2020年は、世の中にとっては「大変な年」「苦しい1年」ではあったのですが、インターネットのコンテンツには、大きな転換期になったと思うのです。
これまでは、「現実で人と人とを結びつけるためのツール」であったインターネットが、その役割と同時に、「ネット上で完結するコミュニケーション」を重視するようになってきたのではないかと。
新型コロナ禍のなかで、多くの人がYouTubeチャンンルを開設して、そこから情報を発信するようになりましたし。
2020年の年越しのテレビ番組をみていて、僕は「とりあえず2020年を生きて越せたのは僥倖だったな」と思うのと同時に、テレビ画面から繰り返し発せられる「人と人とのつながりを取り戻せる日常がはやく戻ってきますように」「がんばれ人類!」というようなメッセージに、一抹の居心地の悪さを感じてもいたのです。もともとインドア志向だった僕は、「人と人との接触を避ける社会」には、居心地の良さも感じるんですよ、正直言うと。
「人と人とが触れ合う喜び」を否定するつもりはないけれど、今の「感染予防社会」では、半ば義務として参加が求められる職場の飲み会や、業務時間外に資料を誰がが読むのを聞いているだけの会議や、仕事中に追いかけて宣伝してくる薬のメーカーのMRさんもいない。
「ふれあい」を重んじる世の中というのは、「煩わしさに耐える力と愛想の良さ」が求められる社会でもあります。
「あの日常に戻りたい」と思うほど、「あの日常」は素晴らしいものだったのか?
もちろん、新型コロナウイルス感染による生命の危険というのは受け入れがたい。ただ、新型コロナの感染が収束したとしても、めんどくさかった面もひっくるめて、「以前の日常」に戻ることができるのだろうか?それを望むだろうか?
山歩きをして、「やっぱり自然はいいなあ!」と思っても、山歩きというのは、そこで蛇に出くわしたり(僕は蛇が本当に苦手なんです)、山のトイレの凄まじい状況に辟易したりするリスクと切り離すことはできないのと同じです。「それでもアウトドアが好き」かどうかは、人それぞれ。
マジでクソみたいな年だったなと思いながら夕飯食べてたら6歳の娘が楽しい年だったねぇ〜☺️と言うのでうわぁぁんそうだよねいつもお父さんいなかったけど家族みんな揃っていっぱいご飯食べたしお弁当持って公園行ったりたくさん遊んだよねUNOもできるようになったし楽しいこといっぱいあったよねぇ😭🥺
— Mummy Pig (@Mummy_Piggg) 2020年12月29日
この本のなかで、ブレイディみかこさんは、こんな話をされています。
ロックダウンで休校になってから、息子の中学の先生たちから毎週のように電話がかかる。それぞれの教科の教員たちが定期的に保護者に連絡し、生徒たちのオンライン学習は順調か、何か問題はないかと確認しているのだ。
「先生たちこそ、オンライン授業は大変でしょう」
と言うと、ある数学の教員はこんなことを言った。
「興味深いこともあるんです。ふだんは質問なんかしてこなかった子たちがメールを送ってくる。成績も振るわず、授業に関心もなさそうだった子に限って『ここがわからない』と言って……」
「それは面白いですね」と答えると彼女は言った。
「ひょっとして、私はそういう子が質問できない雰囲気の授業をしていたのではと半生しました。今の状況はこれまで気づかなかったことを学ぶ機会になっています」
オンライン授業の準備、教員たちとのZoom会議、保護者たちへの定期的な電話など、休校でかえって仕事は増えたに違いないと思うが、教員たちはみな熱心だ。
新型コロナウイルスが、人類にとって「災厄」であることは間違いないでしょう。
しかしながら、そのなかで、今まで見えていなかったことに気づかされた、という人は、けっこう多いのかもしれません。
この先生は「自分の授業の雰囲気」を反省されていますが、同級生の目を気にしなくて良いので、「オンライン授業のほうが、先生に積極的に質問しやすい」と感じる生徒って、案外多いのではないか、と僕は思うのです。インターネット・ネイティブの世代には、オンライン授業向きの子どもが少なからずいそうな気がします。大人にも「テレワーク向きの人」もいるはずです。
新型コロナウイルスの蔓延がなければ、仕事や学校での「習慣」を劇的に変えるのは、かなり難しい、あるいは、すごく時間がかかりますよね。
長い目でみれば、人間が、この状況から学べることはたくさんあるのかもしれないし、最初は「緊急事態だったので、やむをえず始めたこと」が、「新しい普通」になっていくのではないでしょうか。
その一方で、テレワークというのは、「成果だけが目に見えやすい」という面もあるし、「人とのコミュニケーションのなかで、アイデアを形にしていく」とか「他者との競争で、モチベーションを上げる」という人にとっては、デメリットもありますよね、きっと。
僕が2020年のネット界隈で印象に残ったのは『note』への毀誉褒貶でした。
fujipon.hatenablog.com
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『note』『cakes』は、新しい書き手をたくさん世の中に送り出していて、それも、「けっこう長い文章で自分語りをする人」が多かったのです。
2000年代前半のブログブーム(「眞鍋かをりのココだけの話」の開設が2004年)から、15年くらい経って、あまりに「商業化」しすぎた個人ブログが下火になり、ツイッターやインスタグラムなどのSNS全盛になったのが今の時代、だと思っていたのですが、新型コロナという「非日常の世界」に直面することになった影響もあってか、長くて濃厚な個人ブログ(あるいは自分語り」が再評価されるようになってきたのです。
もともと、2000年くらいのインターネットの『さるさる日記』『エンピツ』のような個人日記サイトの文化のなかでは、「珍しい職業に就いている人が、匿名で仕事の裏話をする」とか「結婚相談所で紹介された人を評価する婚活日記」とか「不倫日記」のような「下世話ではあるけれど興味深いコンテンツ」が人気だったのです。
「困った人」「めんどくさい人」「ぶっ壊れていくのを見たいけれど、直接お友達になるのは遠慮したい人」をノーリスクで観察できる、というのが、インターネットというアングラワールドの面白さだったんですよ(そういう役割は、いまのYouTubeに受け継がれてもいます)。
『note』というのは、課金システムなど「ファンを囲い込みやすいシステム」を確立したのですが、それは同時に「少数のファンに祭り上げられた無名の人が、どんどん増長して暴走していく『神輿システム』の誕生でもありました。
これまでの「拝金ブロガー」は、アフィリエイトで出会い系やFXや仮想通貨に人を送り込んだり、お金関係のセミナーに勧誘したり、という他人がつくったものを売る「ネットビジネス」で稼ぐしかなかったのだけれど、『note』は、「自分の人生そのものを売り物にして稼ぐ」という仕組みをつくりあげたのです。
新型コロナで、みんなが自分の生き方とかをあらためて考えたり、パソコンの前に座る時間が長くなったりしたことも大きかったのではないでしょうか。
しかしながら、そうやって、ノーガードなコンテンツで人々の「下世話な興味」を刺激することによって伸長してきた『note』に、「社会問題への意識や弱者への配慮がなさすぎる」という批判が集まるようになってきました。
それはもう、その通りなんですよ本当に。ただ、noteに関しては、昔のネット日記やブログのような「ノーガードの内緒話」的なところがストロングポイントだったとは思うのです。うわっ、こんなのネットに載せちゃっていいのかよ、みたいな。昔のネット日記は「ネットだから匿名で書ける」というものだったのですが、今は雑誌の記事とかのほうがよっぽど炎上しにくいですからね。炎上させたい人は、お金を払って何かを読むことはまずしないし、書店に出向く(あるいは、Kindle版をダウンロードする)手間さえかけない。酷いのになると、誰かの感想や批判だけを読んで、一次資料にあたらずに口汚く罵っている。
「十分なチェック機構を備えた、より責任あるメディアの方向に体制をシフトした」cakesというのは、「ごく普通のネットメディア、あるいはプラットフォーム」になってしまうような気がします。お上品な『週刊大衆』や女性の権利に配慮した『週刊プレイボーイ』が、読者への希求力を持てるのか?
この東浩紀さんの『ゲンロン戦記』、とても面白い本だったのですが、こんな記述があるのです。
(コンテンツを有料にすることによって、スケールメリットは失われるが、内容重視で固定客を掴んだほうが、結果的には儲かる、という話に続いて)
有料には別のメリットもあります。ゲンロンカフェの7年の経験からいえることですが、たとえ少額でも、配信は有料にするだけで圧倒的に炎上しにくくなります。ゲンロンカフェには、政治家を含めてかなりの数の著名人が登壇しています。危うい発言もなされています。けれども、ほとんど炎上しません。
その理由は、そもそも発言の揚げ足とりをするようなネットユーザーは一銭も払う気がないので、少額でも十分排除できるということがあります。加えて、有料にすると、公的な場での発言ではなく「私的な空間でのおしゃべり」という印象になるという心理が働いているようです。だから新聞記事などに転用されないのだと思います。ゲンロンカフェが独特の親密な空間をつくることができた理由のひとつは、配信を有料にしたことにあります。
(中略)
だからこそ、ぼくはネットに「スケールを追い求めることなく、地味にお金が回っていく世界」をつくりたいわけです。100万人、1000万人を追い求めなくても、1000人、1万人の「観客」をもつことで生きていける世界。
president.jp
※こちらの吉田豪さんによる東浩紀さんのインタビュー記事もおすすめします。
ネットでは「有料化」すると、どんなに少額でも、敷居はかなり高くなるのです。
課金するためにクレジットカード情報を入力することに不安を感じる人もいるでしょうし、世の中には「みんなが読んでいるものだからこそ読みたい」という人も多い(僕もそうです)。
実際、「スケールメリットよりも、固定客を掴む」というのは、理屈としては納得できるのですが、実際には、「見て(読んで)くれる人が少ない場所に、自分の『渾身の作品』を投入する」というのは、けっこう勇気がいるのです。やっぱり、「多くの人に読まれるところに、自信があるものを出したい」と思いますよね、僕もそうだから。有名人の「有料note」とかも、「そのままでは売り物になりにくいレベルの商品」みたいなのが多くて、それを「ファン向け」に有料で売るから、「有料noteは信者ビジネス」みたいな感じになってしまう。
人気作家であれば、500円×1000人の会員で月に50万円、くらいのことはできそうだけれど、ネットで「有料会員1000人」を維持するのは難しいし、そもそも、「同じくらいの稼ぎなら、より多くの人に読まれたい」という欲もあるはずです。
ゾーニングが機能しないネットの無料コンテンツでは書きにくい、という人たちにとって、「有料化することで、書きやすい環境を手に入れる」という選択肢が、今年は見直されるのではないか、と僕は考えています(僕は原則的に「タダでいいから読んでほしい」ので、やりませんけど。炎上はイヤですが、ゾーニングを要するような話も(たぶん)しないですし)。
新年早々、けっこう長々と書いてしまいましたが、今年は「誰にも言えない話をネットに書く文化」の復活と、有料コンテンツの再評価に僕は注目しております。ひらたく言うと『はてな匿名ダイアリー』に時代が追いついた、のかもしれない。もし、「書き手がわからない状態を維持したままで、PV(ページビュー)数を稼いだ増田さん(「はてな匿名ダイアリー」の書き手)に報酬が支払われる」みたいなシステムができたら、最強かもしれませんね。「便所の落書きと炎上商法が入り乱れたカオス」ができるだけかな。
最後に個人的なことなど。今年はブログ的に新しいことをやろうというのはなくて、書きたいときに書きたいことを書く、そして、プライベートでは健康管理に気を配ることと、料理をやってみたいと思っています。あと、まとまった文章を完成させたい。これは毎年言ってますけど。
それでは、本年もよろしくお願いいたします。
2021年、あと362日もあるのか……
- 作者:デヴィッド グレーバー
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