cakes炎上の結果、私の連載は消滅してしまいました。どうすればこの結果を回避できたのか、出版に関わる全ての人に、ご意見をうかがいたいです。
— 浅野真澄@あさのますみ (@masumi_asano) 2020年12月9日
cakes炎上と、消滅した連載|あさのますみ @masumi_asano #note https://t.co/dEt8Mz5gNq
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ひどい話だ、と思いつつも、正直、これは僕があさのさんの側からこの話をみているからであって、「自死」を扱うというのは、家族に了解を得ている(あるいは、家族の側も語られることを臨んでいる)とはいえ、リスクが高いのも事実だよなあ、とも感じたのです。
藤村操の華厳の滝での自殺や、人気女性アイドルの飛び降り自殺は、多くの後追い自殺者を生んでしまいました。彼らは別に、自分の真似を他の人にしてほしいなんて思ってはいなかったはずなのですが、人間は、他者の死に共鳴してしまうことがあるのでしょう。彼らの自死がなくても、後を追った人たちは、結局、いつか同じ選択をしたのかもしれない。
僕自身は、まだとりあえず生きてはいますが、他者の自死というものが、なんだかとても綺麗なもののように感じたことがありました。いや、今でも感じることはあります。もっとも、人間なんて、死んでしまえば単なる有機物の塊にしかすぎない。生きていてもそうなんだけどさ。
ここまで書いたあと、あさのさんが『cakes』のクリエイターコンテストで入賞した文章を読んだのです。
うん……僕もあさのさんの連載を読んでみたくなりました。誰かについて書くことは、その人の人生の軌跡を刻むことでもある。
炎上を恐れて、センシティブな内容の文章をなんでもかんでも排除してしまえばいい、と考えるような編集者が「クリエイターをサポート」できるわけがない。
そもそも、こんな感動的な文章が、炎上するわけがない!
……ってこともないよなあ。
「死」というのは、きちんと、丁寧に書かれているからこそ、人を引き寄せてしまうこともあるのです。
逆に、その文章を読んだことで、「生きるきっかけ」みたいなものを貰えるかもしれない。
それが差し引きでプラスであれば存在意義があるのか、それとも、ひとりでも死の魅力にとりつかれてしまうような文章は、「存在しないほうがいい」のか?
担当編集から連絡が来たのは、数日経ってからでした。そこに書かれていた内容に、驚きました。
cakesが炎上したことで、あさのさんの原稿を改めて見直した。法的にはなんの問題もないが、自死を扱うことで、辛い記憶がフラッシュバックする人もいる。モラルが問われることもある。だから、刺激が強い部分はマイルドに書き直してほしい――要約すると、そう書かれていました。
これは、その原稿を僕は読んでいないので、正直、なんとも言えません。でも、どういうのが「マイルド」なんだろう?とは思いました。
その後に出てくる、連載中止に対する編集長の言い訳にも驚きました。
要約すると、メールは次のような内容でした。
あさのさんはどうやら勘違いしてますが、掲載できないのは炎上のせいではありません。内容に問題があったのです。昨今のメディアが置かれる状況をご存じないようですが、自殺というのはとてもセンシティブに扱われています。この連載を掲載して生じるリスクについて、あさのさんはどうお考えですか。繰り返し強調しますが、炎上のせいではありませんので――。
これ、何度も「炎上のせいではありません」と最近炎上を繰り返している『cakes』の編集長が言い訳していなければ、そんなに違和感はない内容なのです。
「死」とりわけ「自死」について語ることには、他の「死に引き寄せられている人たち」のトリガーを引いてしまう可能性があります。
どんなにそれが、善良で純粋な動機から書かれたものであったとしても。
僕自身は「だから自死についてはみんな口をつぐむべきだ」とは思いませんし、極論すれば、自ら死を選ぶリスクが高い人というのは、「死ぬしかない」という強迫観念に駆られていることが多くて、誰かの経験談やアドバイスよりも、抗うつ薬や閉鎖病棟のほうが有用ではないか、と考えています。
僕は「cakesの、あさのさんへのひどい対応」には憤りを感じています。
しかしながら、多くの人がブックマークコメントでcakesの「メディアとしての覚悟の無さ」を批判していることへは、どうも素直に受け入れがたいものがあるのです。
あさのさんに対して「noteの執行役員という人」は、こう述べていたそうです。
「cakesは未熟で、センシティブな内容を取り扱えるほど成熟しておりません」
炎上を繰り返しているうちに、cakes(note)は大勢のアンチを生んでしまったようにみえます。
彼らは、cakesに掲載されている文章に、何かツッコミどころがないか、可燃性が高い案件がないか、と注視しつづけているのです。
僕は『cakes』って、「わかりやすい感動」と「他人とは違う人たちのライフハック」と「馴れ合い」がコンテンツの三本柱だとみています。
ぶっちゃけ、親や家族をうまく愛することができない、というコンプレックスを抱いている人間には、つらいよね、cakes。書いている本人には悪気はないし、「良い事」が書いてあるだけに、どんどん自分のダメさ、人間としての不備が浮き彫りにされていくのがつらいんだ。あ、岸田奈美さんのことです、すみません、岸田さんをこんな話のダシにして。
「何かを表現すること」というのは、誰かのやり場のない悲しみや憤りをぶつけられる、要するに「八つ当たりされる」リスクと常に隣り合わせです。だからといって、八つ当たりを正当化してはいけないのは理屈ではわかっているのだけれど、心の中で起こる嵐には、どうしようもないところもあるのです。
cakesには、ドロドロした内面を吐露している記事も多いんだよね。当たり前なんだけど、いろんな人が、いろんなことを書いている。だから、cakesのなかで、炎上しやすい、問題のあるところだけをピックアップして「またアイツらか!」みたいに槍玉に挙げるべきではないのだろうな、とも思うのです。
今回のcakesの編集部の対応は酷すぎる。
ただ、cakesがこんなに「クリエイターが伝えたいものを載せるために、一定のリスクを受け入れる」ことに及び腰になってしまったのには、最近の「cakes=悪、という先入観にもとづいて、cakesのコンテンツを炎上させることを是とするネットの一部の人々」の影響があると思います。
明らかに「これはひどい、という案件」もあるのだけれど、先日のホームレスの記事などは、媒体が違えば、ここまで批判されなかったのではないか、という気がするのです。
ある意味、cakesは、ネット上で悪目立ちしてしまっている、というか……
僕は、cakesって、そういうのを狙ってやっていると思っていたんですよ。「炎上上等、それで話題になって、PV(ページビュー)を稼げればOK」みたいな。
ところが、編集部には、そういう覚悟がなかったということにちょっと驚きました。えっ、「公正中立なマスメディア」みたいな立場を目指していたの?って。
むしろ、「ちゃんとしようとしている」からこそ、こういう迷走が起こってしまっているわけで、「いかがでしたかブログ」みたいに開き直って、「PV至上主義」になってしまったもの勝ち、というのが、今のインターネットという「市場」なのです。
真面目にやろう、ちゃんとしようとすればするほど、「燃やそうとする人々」に向き合わなければならなくなって、疲弊し、退場していく。
そういうコストやリスクが、ネットの情報をひたすら劣化させているのです。
結果的に、Googleの検索結果の上位は「いかがでしたか?」で占められ、メディアの人気記事は芸能人がテレビでこんなことを言った、という話ばかりになっている。
「成熟」していれば、月刊の『文藝春秋』みたいに、立派な看板+分厚さで武装して、内容は高齢者が喜ぶような若者批判とスキャンダル、というような戦略もあったのかもしれませんが、『cakes』は、編集長がこんなになるまで追い詰められていたのか、と僕は感じたのです。
もしかしたら、「編集長がもとからこんなだったから、炎上しまくっていた」のだろうか。
『cakes』に問題があるのは事実でしょう。
しかしながら、この、あさのさんの記事への「『cakes』の編集者には、メディアとしての覚悟と炎上するかどうかを見極める能力がない」と『cakes』を批判するブックマークコメント群をみていると、「でも、実際にあさのさんの連載がそのまま始まっていたら、大勢が『自死というデリケートな問題を(遺族の同意があるとはいえ)コンテンツにするcakesは許せない!』と叩いていたのでは?」と、僕はつい考えてしまいます。
彼らは、つねに、自分たちが「批判する側」にいるのを当然だと思っているのです。
ネットでの表現の幅を狭め、過剰なまでの「自主規制」を生んだのは誰か?
それは、メディア側だけの責任なのか?
勇気を持って発信すれば「センシティブな問題に無頓着」と批判し、自主規制すれば「覚悟がない。炎上するかどうかの判断もできない」と叩かれる世界に、まともなメディアが存在しうるのか?
そのバランスを見極めるのがプロ、とは言うけれど、最初から「cakesを燃やしたくてウズウズしている人たち」に、言葉は通じるのだろうか。
もちろん、そんな極端な「アンチcakes」は、ごくごく一握りであることは百も承知です。
cakesには問題が山積みである、ということも。
それでも、今回は「本当にcakesだけが悪いのか?」と、僕は考えずにはいられませんでした。もちろん、あさのさんは悪くない。悪くはないけれど、あさのさんだって「他人の死をコンテンツにすることへの批判」を覚悟していたはず。
あさのさんが、cakesからこんな仕打ちを受ける土壌をつくったのは、「叩きたいものを安易に叩くだけのネットユーザーたち」でもあると僕は思います。
ネットユーザーが変わらなければ、ネットのコンテンツは変わらない。変わるわけがない。
もちろん、こんなエントリを書いている僕自身も、そのネットユーザーのひとりです。そう書くことで、言い訳をしているのが明白で、自分でも情けないのですが、それでも書かずにはいられない。
あさのますみさんの原稿が、なるべく良い形で公開されることを願っております。
社会正義のためでも、自死について多くの人に考えてほしいからでもなく、ただ、僕自身が、それを読んでみたいから。
- 作者:ますみ, あさの
- 発売日: 2020/02/20
- メディア: 単行本