いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

リアル書店や個人ブログの「撤退戦」のゆくえ


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書店がさらに減ってきています。
上記3つの3番目の記事には、こう書かれているのです。

2022年の日本の総書店数は1万1495店舗で、2003年時点では2万880店だった。約20年間でほぼ半減した形だ。


20年前か……思い返してみると、僕がまだ学生だった30年前には、夜に時間を持て余したら郊外のビデオレンタル店や書店、ゲームショップに入り浸っていた記憶があります。
あの頃行っていた店のほとんどは、今はもう存在していないので「書店が半減している!」と言われても、むしろ、「半減くらいで済んでいるのか、都会では案外閉店していないのかな」とも感じるくらいです。

そういえば、当時(30年前くらい)はレンタルビデオ店併設の郊外型書店がたくさんできて、商店街の古くからの家族経営の書店がどんどん潰れていたんですよね。
村上春樹さんの『ノルウェイの森』のミドリの実家はそんな書店のひとつで、経営難で大変だった、というエピソードがあったなあ。
あの本も僕が高校時代に読んだ時には「父親世代のノスタルジー」的な印象だったのですが、僕の子供世代になると、「そんな時代もあったんだ」になってしまう。
トレンディドラマを久しぶりに観ると、「この時代、携帯電話もスマートフォンもなかったからなあ」ということばかり考えてしまいます。
いや、最近は昔のドラマを見返す、なんてこともないのだけれど。動画配信サービスのアニメも、1シーズン完走できるのは1つか2つくらいだし。


書店がどんどん減っていて、行こうと思っても、車で移動するのが大部分の地方都市レベルだと、TSUTAYAイオンモールの中に入っている大きな書店しかない。ショッピングセンター内の書店は行くのが大変だし駐車場に停めて、店内の書店に行って、また戻ってくるだけでもめんどくさい。
あれほど他の歴史ある書店を殲滅し、「Tカードはお持ちですか」で嫌われまくったTSUTAYAが、いまや、もっとも近所で行きやすくて品揃えが良いリアル書店になってしまっている、というのは皮肉な話です。
TポイントはVポイントになり、DVDレンタルは瞬く間に動画配信サービスに圧倒され、現在の郊外のTSUTAYAは「かつて彼らが滅ぼしていった古の書店のように」なってきました。本、CD、DVD、BD、文房具。レジの無人化が進んでいる以外は、昔に戻ったような気分になります。


「書店が減っている」「本が読まれなくなってきている」ということを問題視する人が多いし、僕も自分の子供たちが書店で本を選んでいるのをみると嬉しくなってしまうので(その一方で、親みたいにはなるなよ、と内心危惧してもいるわけですが)、リアル書店にはなんとか生き残ってほしいのです。

でも、利益率の低さや、万引きとの不毛な戦い、ネット書店との品揃えの差などを考えると、「頑張って営業を続けて!」とも言えません。
先日、よく利用しているTSUTAYAの入口でたこ焼きが売られていて、なんだか入りづらくてそのまま帰ってしまったことがありました。
たこ焼きは好きだし、本も、もちろん好きではあるんだけれど。

ジュンク堂のオンライン英会話のサイネージ広告の話を読んで、30年前、博多の紀伊國屋へ行くと、エスカレーター前で英会話の勧誘があって、それがすごく苦手だったのも思い出したのです。

僕は昔から「断る」というのが苦手な人間で、イオンの店頭で子供たちが献血とか募金のお願いをしている前を通り過ぎるのも気が重かったんですよね。
多分向こうは「スルーしていく人のひとり」としか見ていないのは頭ではわかっていても。

わざわざ寄っていって、百円玉とかを募金箱に入れるのも、なんだか気恥ずかしい。
たぶん、こういう感情って、誰かが心理学的な名称をつけているのではないか、とも思いますが、とにかく、「本来の目的の前で、別のものに待ち伏せ(?)されている」というのはすごく苦手なシチュエーションでした。


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以前、空港での「物販」に関する、こんな話を読んだことがあります。

 ポルトガルリスボン空港を経営する「ヴァンシ・エアポート」というフランスの空港オペレーターがあります。最近、関西空港伊丹空港の経営権を日本のオリックスと組んで購入した会社なので、お聞きになったことがあるかもしれません。


 そのヴァンシリスボン空港を買った時、最初にしたことは、ターミナルの導線を変える改装工事でした。改装の内容は単純で、以前はエレベーターを上がるとまっすぐ搭乗ゲートへ向かうようになっていた直線の動線を、わざと迂回させ、店舗エリアを通らなければ搭乗ゲートへ行けないようにしたのです。たったそれだけのことですが、店舗の売上は目に見えて伸びたのです。
 第1章で紹介した新石垣空港動線——両側にショップが並ぶ狭い通路を通らせて購買意欲をかき立てる——は、これと同じ発想ですね。到着口にカフェを配置し、待つ人にコーヒー1杯でも飲んでもらうというのも、海外空港では当たり前の光景になっています。


僕はこれを読んで、駐車場から目的の施設にたどり着く前に、土産物屋の中を通っていかないといけない観光地を思い出しました。
あれはあれで、人々の「生きる、稼ぐ知恵」なのだろうけれど、利用者の利便性は損なわれるし、「断るのが苦手」「スルースキルが低い」僕にとっては、大きなストレスです。
おそらく、同じような人が少なからずいるので、ああいう仕組みは有効なのでしょうけど、それはそれで「つけこまれている」という不快感はあります。
「稼げた」ことは定量化されやすいけれど、「目の前のお金を稼ぐために、失ってしまった信頼感や利便性」は、どこへ行ってしまうのだろう。

結局のところ、僕は大人コミュニケーションが苦手で、ネット予約やネットショッピングがある時代に生まれたことに感謝しているのです。
もうちょっと若いうちにこんな時代になっていれば、もっと良かったのに。

ただ、書店に関してだけは、「本がたくさんあって、それなりに人間の気配を感じられて、本を売る側と探す側の駆け引きが味わえる空間」として、無くなってほしくない、とは思っています。
まあ、身勝手ではありますよね。そんなに儲からない、万引きを摘発しなければならない、けっこうな力仕事を他者に「やってほしい」と望むのは。

「個々の書店の営業努力」とか「個性を打ち出して、魅力的な売り場を作ればいい」という人もいるのですが、その産業の「地盤」みたいなものがどんどん縮小していくなかで「努力不足」とか言われても、どうしようもないのではなかろうか。

たとえば、この「個人ブログ」というカテゴリー(あるいは産業)も、この10年くらいで、すっかり廃れてきました。
今になって思うと、20年前のブログブームのときには、ずっと書き続けて、少し宣伝を頑張るくらいで、読んでくれる人の数は右肩上がりに増えていったのです。それが「あたりまえ」の時代だった。

現在では、同じような人が同じようなことを書いていても、ピーク時の5分の1、あるいは10分の1くらいしか読まれない。そもそも、これを書いている僕自身も、他の人のブログをほとんど読まなくなりました。
何か特別な理由があるわけではないけれど、年齢のせいもあるのか、「何か他にもっとやるべきことがあるのではないか」と、ずっと追われているような気がします。
SNSにしてもブログにしても、ネット上には、人々の耳目を集めるための、心をざわつかせる揉め事か、手垢がつきまくった何周目かの「いい話」が氾濫していて、さらに書かれていることを信じると騙されるか買わされるか仲間にさせられます。
SNSで信じられるのは誰かの訃報(それも大手メディア3社以上から)のみ。
トレンドに誰かの固有名詞が挙がっていると「亡くなった?」と思ってしまう。


広告のサイネージばかりになったジュンク堂を想像すると悲しいけれど、これも、本が売れない時代に、リアル店舗をどうやって維持していくか、という試行錯誤のひとつ、ではあるのでしょう。
ネットも、どんどん広告だらけになっています。
このブログもそのひとつです。たいして稼げるわけでもないのに、広告だらけですみません。昔、調子に乗って広告を入れているうちに、もう自分でもどこをどうやったらスッキリするのかわからなくなり、ヘタにいじれなくなっているのです。

稼げる金額を考えたら、もう広告なしでもいいかな、とも思うのですが、もうやめようかな、閉じちゃおうかな、というときに、月に何千円レベルでも収入になると思うと、更新しなくても場所代くらいにはなるから放置しておくか、という気分にはなります。
綺麗事を言おうとしても、お金なんて要らないとは言えない。もちろん、あったほうがいいし、稼げたほうがありがたい。


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現実は厳しくて、アメリカでは「出版された本の50%は12冊未満しか売れていない」そうです。
個人ブログも、ほとんどは「書いた本人とその近しい人にしか読まれていない」のではなかろうか。
それを考えると、このブログなどは、曹操が言うところの「鶏肋」みたいなものではあります。


matsumototamago.com


本当は、みんながもっとリアル書店で本を買い、ネットでもコンテンツに直接対価を支払う世界になっていれば、こんな「広告だらけの世の中」にはならなかったのに。
ネットニュースを見るのに、懸命に「×」を探して、周りの広告に触れないようにピンポイントで押す、という不毛な努力をしなくて済んだのに。
まあでもそれは「そこまでして、ネットニュースとか個人ブログとか、読まなくてもいいや」っていうのが「正解」なのだろうな。
YouTubeだって、ちょっとお金を出せば、広告を見なくていいのです。あの10秒とか15秒は、積み重ねていくと、人生全体では、結構長い時間になるはず。
それでも、なかなか「お金を払う」には至らない。使わないサブスクは、けっこう惰性で続けていても。

旅先でもすぐに読みたい本を買って読める、という電子書籍は、革命的な存在だったのです。
人は、便利なほう、楽しいほうに流れていく。

こうしてブログが過疎化してきて、「人々が日常を書き残していく文化」が廃れるのは、とても寂しいことではあるのだけれど、そう買いている本人がほとんど読まなくなっているのだから、それはもう時代の必然でしかないのかもしれません。

結局、書店も個人ブログも「全滅」することはなく、淘汰されていけば、生き残りには希少価値が出て、細々とでも続いていきそうではあります。

何百年後かに、インターネット黎明期のネット文化が歴史的に研究されることになったら、「あの時代の人たちは、こんなにものを売ることばかり考えていたのか」と驚かれるのではなかろうか。それとも「モノと情報への渇望」は、ずっと変わらないのかな。


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