毎年、最初のエントリは、「ブログの話」みたいなのを書いています。
(今年は『ゆく美 くる美』のことを紹介したくて、そちらになってしまいましたが)
fujipon.hatenablog.com
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昨年末、「ネットで書くこと」について、気になるエントリを読みました。
akikomainichi.hatenablog.com
これを読んで、本当にそうだよなあ、って。
より多くの人に読んでもらおうとすると、ある種の「明快さ」みたいなものがあったほうが良いのですよね、たぶん。
最初は「わからないものを、わからないまま」書こうとしていたつもりなのに、読まれることに慣れていくと、読んでもらえないのが怖くなって、どんどん「決めつけること」や「目立っている何かに言及すること」に走ってしまう。
結論が出ないことを、いかにも「こうするべき」みたいに書き、「○○するための3つの方法」みたいな自分でも信じていないノウハウを垂れ流す。
ある意味、WEBにあふれている「幸せになる方法」「賢くなる方法」「お金を稼ぐ方法」って、「税金対策のために、マンション買いませんか」っていうのと似たようなものなのです。
競馬のコーチ屋みたいなもの、とでもいうか。
そんなに絶対にうまくいくのなら、まず売ろうとしているお前がそのマンション買えよ。
こういう場合の返しとして「じゃあ、僕がお金を貸してあげますから、あなたがそのマンションを買ってください」っていうのがあるらしいのですが、そういう人たちって、百戦錬磨ですからね。
うまく言いくるめているつもりが、いつのまにかこっちが洗脳されてしまうことも十分ありえるので、近づかないのがいちばんです。
万人にとって正しい方法なんてありはしないか、ものすごく辛くてめんどくさいかのどちらかです。
例えば、ダイエット。
世の中には腐るほどダイエット本が出ていますが、にもかかわらず、適正体重の人ばかり、ということにはなっていない。
でも、ダイエットには正解があるのです。
「摂取カロリー量をきちんと制限して、バランスの良い食事をし、適度な運動をすること」
結局、わかっているけど、できないから、ラクしてなんとかならないかと思うから、うまくいかない。
世の中って、そんなことばっかりですよね。
あらためて考えてみれば、商業出版の世界では、僕のように「結論が出ないようなことをずっとグダグダ書く」みたいなものはありえないわけで、お金にはならなくても、こういうものを書いて、それなりに読んでくれる人がいるというのは、とてもありがたいことだとも思うのです。
初心に帰ってみると、僕がやりたいことというのは、10年前からあまり変わっていない。
山下達郎:勝ち負けは人が決めること。あとは、自分が顧客(カスタマー)でいて欲しい人たちの観念(イデア)に向けて発信したものを、その人たちがいいと思ってくれること。
まあなんというか、そんなに稼げもしないし、人気ブロガーにもなれませんでしたが、たぶん、「自分が読んでほしいと思う人たちに、読んでもらえている」という点では、幸せ者なのではないかと。
それにしても、ネットで書くというのも、なかなか難しいものではありますね。
たくさんの人に読んでもらおうと狙いにいくと、見透かされたようにスルーされる。
さりとて、中途半端な自分語りをしてみても、やっぱり相手にしてもらえない。
ただ、自分語りも、書いていてプライドの壁みたいなものを一枚ぶち破ったような気がするものは、ものすごく反響があったりもする。
みんな、わかってるんだよね、伝わっているんだ。
そう思いつつも、家入明子さんのこの素晴らしいエントリにブックマークが30もついてなくて、しょうもない炎上狙いみたいなのに何百もブックマークがついて入れ食い状態になっているのをみると、それでいいのか、とか思うところもあるのです。
わかる、わかるよ、真面目なだけのものは、面白くないよね。
人は、面白いものか、役に立つものしか読まない。
読解するのに時間や手間がかかるものより、「なんだこのバカ」って思うようなエントリのほうが、楽しいし読みやすい。
ネットで話題になっているのは『逃げ恥』や『真田丸』だけれど、年間ドラマ視聴率のナンバーワンは『ドクターX』なわけで(録画とかも入れたら、変わるかもしれないけど(というようなことをいちいち断るから、僕の文章は長くて読みにくくなるのですが、おかげで炎上のリスクを軽減できているわけです。つまんないですね)、どちらを観ているほうが正しい、というわけでもなく、ドラマというジャンルそのものが好きで両方観ている人もいれば、どんなに話題になっていてもドラマに興味がない人もいる。
少なくとも、『逃げ恥』や『真田丸』は、僕の視界内での「ネットの多数派」かもしれないけれど、「社会全体の圧倒的多数派」ではない。
ちなみに僕は『ドクターX』は一度も観たことないです。観たらけっこう面白そうではありますが「絶対に失敗しない」なんて言われると、「ちょっと待て」と思ってしまうんです。
自分にとっての快・不快で、世の中を判断してはいけない。
でもさ、そんな「正論」なんて、みんな聞き飽きているような気もする。
ただ、「批判しやすいものを探しだして批判する」ことで、何かが良くなる、とも思えない。
いや、本当は「何かを良くしたい」のではなくて、「憂さを晴らしたい」とか「相対的にでも自分が不幸じゃないことを確認したい」だけなのかもしれない。
うん、僕もネットで稼ぐために書いているわけじゃないんです。
ただ、見てのとおり、ここにはけっこう広告を貼っていますし、紹介している本を買ってくれる人もいる。
『琥珀色の戯言』で感想を書いている本の費用は、それでほとんど賄えています。
これは本当にありがたいことで、おかげで僕は、いろんなしがらみにとらわれることなく、自由に書くことができる。
献本してもらうと、悪口書きにくいじゃないですか。
そもそも、悪口しか書けないような本は、読みたくもないし、読んでも基本的には感想を公開しませんし。
僕のような中途半端な人間に、中途半端なまま書く機会を与えてくださっている皆様には、本当に感謝しております。
このエントリのなかで、これだけは間違いなく本当です。
人は、嘘をつくときほど「嘘じゃないです」って言んだよね、って思われるかもしれないけれど。
岩波新書の『読んじゃいなよ!』っていう、高橋源一郎さんのゼミの様子を収録したものを最近読んだのですが、ゼミ生のひとり、水落利亜さんが、こんなことを書いていました。
実際、日常的な感覚として、読書が立派なものだと思われているのは事実であるはずだ。
それもこれも、世間の「まともな大人ったち」が読書を推奨してくださるせいである。
でも、本を読むのって、ほんとうにそんなに立派なことなのか。
小学生の頃、よく、仮病を使って学校を休み、病院に行くふりをして、日がな一日、近所の本屋で立ち読みをしたものだった。
本屋のおじさんはいい人で、ぼくが二時間くらい立ち読みしていても、なにも文句を言ってこなかった。おじさん自身がなにかの雑誌に夢中だったようだから、他人のことは、どうでもよかったのかもしれない。書店員の鑑である。
『にゃんたん』や『かいけつゾロリ』の物語を読んでいくなかで、ぼくは、未読の物語が減ってゆくさびしさを知った。
本を読むことは、ぼくにとっては「ずるをすること」で、「まともで立派な大人たち」には教えてあげない、自分だけの秘密の遊びのひとつだった。
僕が本好きになったのって、もちろん本そのものへの愛着、というのもあるのですが、「休み時間に友達に話しかけられない自分を隠すために本を開き、昼休みに運動音痴なので運動場で遊ばなくて済むように図書館に籠もっていた」ところも多々あるんですよね。
家でも、本が大好き、とか、勉強したい、っていうよりは、その場にいた僕にとって、いちばんまともにみえそうな逃避行動が、読書だった。
そうしているうちに、なんだか「本が好き」な人間になってしまった。
ブログだって、こうして書いていて、書かないよりは、少しでも、浜の砂粒くらいでも、世の中を良い方法に引っ張ることができれば、と願ってはいるけれど、それよりなにより、「書かずにはいられない」としか言いようがないところがあって。
お金とか、自分の遺書みたいなものだとか、承認欲求とか、まあいろんな言葉で説明しようと思えばできるのですが、言葉にすると嘘になってしまうような、自分でもどうしようもないところがあって、こうして、どうしようもないことを書き連ねているわけです。
つきあわせて、ごめんね。
こうして書いていると、最近、マンネリ化というか、本の感想なんて、自分なりのフォーマットができあがってしまっていて、それにインプットしたものを代入することを繰り返しているうちに、「これをずっと続けていくことに、意味があるのだろうか?」なんて考えてしまうことが増えました。
たぶん、継続することにも、意味はそれなりにはあるのでしょう。そう信じたい。
しかしながら、これを10年とか15年とか続けてきて、これからも同じくらい続けていくのだろうか?
ものすごく不躾な言い草で、SMAPファンの皆様には申し訳ないのですが、もしかしたら、あの国民的アイドルグループが解散を選んだのは、「これから、また10年とか15年とか、同じことを繰り返すのか……」という「先が見えてしまっている怖さ」もあったのではないか、という気がしています。
僕は中居正広さんや木村拓哉さんとほぼ同年代なのですが、40代半ばって、「精神的なものとか体力的なものを考えると、もうこの時期を逃したら、新しいことはできなくなってしまうかもしれない」と、「ラストチャンス」を意識してしまう年齢なのかな、って。
(この40代半ばラストチャンス説は、やはり同じくらいの年齢の坂上忍さんも仰っていました)
なんでそんなに最近ガンガンにロックモードなのか聞いたところ、心底うんざりという口調でこう言った。
「50歳越えて、もうええかなと思ってね。これからは好きなことだけして生きていくよ」
と、らもさん。
小説のほうでも出版社にこれからはエンターテインメントは書かない宣言をしたらしかった。
書きたいものを書く。歌いたいことを歌う。
だって50歳なんだから。
「キミ、何歳なった?」
ワイワイといつもの打ち上げの席でのアホ話の最中、いきなりらもさんに聞かれた。
「38歳になります」
「38か。そこからが長いんや」
遠い目になってボソッと呟くらもさん。
躁鬱病にアル中にヤク中、壮絶な40代を送ってきたらもさんが言う「そこからが長い」発言。説得力が違う。
水落利亜さんは「未読の物語が減ってゆくさびしさを知った」と書いておられました。
僕も若い頃はそうだった。
でも、今は、自分が生きているうちに、あとどのくらい読めるだろうか、と悲しくなることがあるのです。
最近、老眼もけっこう出てきたしなあ。
もちろん、すぐに止めてしまう、というわけではありませんが(そんなことをしたら、僕自身がもたないので)、なんだか今は、そんな漠然とした不安、みたいなものを抱えているのです。
終わりが避けられないのなら、自分でしかるべき時期に幕を引くべきではないか、とも思います。
まだ、そういう判断力が残されているうちに。
ずっと書いてきた人が「自分の意思で、きちんと幕を下ろしていったこと」を昨年の終わりに目の当たりにしました。なんか綺麗だな、って。
d.hatena.ne.jp
まあ、黒田さんと新井さんみたいなもので、「引き際の美学を貫く」か「ボロボロになるまでやる」かというのに、似合う似合わないはあっても、正解なんてありはしないのだけれど。
新年早々、こんなエントリで申し訳ない。
- 作者: 鮫肌文殊
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