あの村上春樹さんの作品の舞台化ということで、楽しみにしていたのです。
しかも、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』!
僕はこの作品が、村上春樹さんの小説のなかでいちばん好きなんです。読んだタイミングもあるのかもしれませんが。好きすぎて再読するのが怖いくらいに。
なんとかチケットを取って、先週末に北九州で観てきました。
日本を代表する世界的作家・村上春樹が36歳の時に発表され、海外でも人気の高い長編小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が、フィリップ・ドゥクフレ演出・振付、藤原竜也主演で舞台化!
“世界の終り”と“ハードボイルド・ワンダーランド”という異なる二つの世界が並行して描かれるこの作品は、発売から40年を経た今もなお、時代や言語を超えて世界中で愛読され続けています。
“世界の終り”と“ハードボイルド・ワンダーランド”という二つの世界が同時進行で描かれる。
二つの物語が織りなす、思いもよらない結末とは――。<ハードボイルド・ワンダーランド>
“組織”に雇われる計算士である“私”(藤原竜也)は、依頼された情報を暗号化する「シャフリング」という技術を使いこなす。ある日私は謎の博士(池田成志)に呼び出され、博士の孫娘(富田望生)の案内で地下にある彼の秘密の研究所に向かい、「シャフリング」を依頼される。博士に渡された贈り物を開けると、そこには一角獣の頭骨が入っていた。私は頭骨のことを調べに行った図書館で、心魅かれる女性司書(森田望智)と出会う。だが博士は研究のために、私の意識の核に思考回路を埋め込んでいた。
世界が終るまでの残された時間が迫るなか、私は地下世界から脱出し、どこへ向かうのか。
<世界の終り>
周囲が高い壁に囲まれた街に“僕”(駒木根葵汰/島村龍乃介)はやって来た。街の人々は一見平穏な日々を過ごしている。僕は街に入る際に門番(松田慎也)によって影を切り離され、いずれ“影”(宮尾俊太郎)が死ぬと同時に心を失うと知らされる。僕は古い図書館で美しい少女(森田望智)に助けられながら一角獣の頭骨に収められた夢を読む仕事を与えられていたが、“影”から街の地図を作成するよう頼まれる。影は街から脱出する方法を模索していたのだ。僕は地図を完成させるために、図書館の彼女や大佐、発電所の青年(藤田ハル)から話を聞き、街の正体を探るのだった。
藤原竜也さんが<ハードボイルド・ワンダーランド>の主役の「計算士」で、「世界の終り」の僕は島村龍乃介さんの回でした。
森田望智さんが「図書館の女性」役。
原作小説も2つの世界が交互に切り替わり、「計算士」とか「影」とか「壁」とか作中独自の言葉が飛び交う、けっして「わかりやすくはない」作品だったので、これをどうやって2~3時間の舞台にまとめるのだろう?と思っていたんですよね。
「なんかもうユニコーン役の人たちが手足疲れそうだな」というのと、たぶん原作小説や村上春樹を知らない人たちには「何これ?」という感じの「初見殺し」な舞台だろうな、というのが、30年前に原作小説を一度だけ読んだ僕の率直な感想でした。
フィリップ・ドゥクフレさんの演出は、ダンスや映像、音響効果もあいまって、すごく不思議で幻想的な世界をつくりだしていて、「こういう村上春樹さんの小説の『舞台化』もアリなんだな」と感心もしたのです。
「原作に忠実」に、あらすじを追っただけの舞台にするよりは、このくらい「舞台でしか見られない体験」に全振りしてくれたおかげで、「別物」として楽しめたのかな、とも思います。
終演後、観客席のあちこちから「難しかったけど面白かった」と同行者に興奮しながら話しかける声が聞こえてきましたし。
僕は原作小説を(一度は)読んでいたし、強く印象に残っている作品でもあったので、それなりについていけたつもりではあるのだけれど、予備知識が全くない状態で「藤原さんや森田さんが出ているから」と観にきたら面食らってしまうかもしれません。
ちなみに、原作小説が刊行されたのは、1985年6月。僕がまだ中学生の頃でした(僕が読んだのはだいぶ時間が経ってからです)。
当時から「なんか象徴的で幻想的な、わかりにくい雰囲気小説」だったのですが(大ベストセラーになった『ノルウェイの森』は、「村上春樹作品のなかでは異質な『わかりやすい恋愛小説』でした)、当時、僕はこの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のラストが、すごく印象に残りました。
えっ、こんな終わり方をするの? そっち?
僕は、もっと前向きな感じに終わる、と読みながら予想していたんですよ。でも、僕はこの物語の世界に「置いてけぼり」にされてしまった。
でも、「もっとがんばりなさい、問題を克服しなさい、未来はもっと良くなる、現実を見ろ!」という外からの声にさらされているなかで、「ああ、こんなふうに静かに幕を閉じてもいいんだ」と、ちょっと救われた気持ちにもなったのです。
この舞台が、どんな終わりかたをしたのかはここでは書きませんが、いろんな「不親切さ」「よくわからないけれど、わかりそうな感じ」も含めて、村上春樹さんの小説を、フィリップ・ドゥクフレさんは、2026年に、こんなふうに舞台として表現するのだなあ、と。
舞台での発見として、やたらとすぐに女性と寝てしまう村上ワールドは、文章ではさらっと読めるけれど、生身の人間が演じると「こんなこと言うやついねーだろ!」感が強くなるな、とか、2026年に、17歳(という設定)の女の子の口から、唐突に「私と寝てくれる?」とかいうセリフが出てくると、「いやこれは1985年基準だから」「村上春樹だから」と自分に言い聞かせなければならない嫌悪感が湧き上がってくるなあ、とかいうのはありました。
リアルタイムでは新しい感性の小説だった村上春樹さんの過去作は、もはや「ポリコレに適合できない作品で、発表された時代の表現をそのまま用いていますという注意書きが必要」になってしまった。
そういえば、当時は「セカイ系」の時代だったなあ、とか。
この作品の「壁」って、まさにエヴァンゲリオンの「ATフィールド」なんだよな」という思いも僕のなかに去来していたのです。
ちなみに、『新世紀エヴァンゲリオン』の初回放送が1995年10月で、この年には阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件が起こっています。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、「自己」と「外界」の関係性の物語でもあり、荒れ狂う世界のなかで「自分をゆるす」話でもあったのではないか、と舞台をみながら考えていました。
まあ、分かったようなことを言っていて、僕にはよくわからないんですけどね。
でも、「よくわからない、という気持ち、これはどう解釈したらいいんだろう、という余韻を遺してくれる舞台」が、僕はけっこう好きです。
ABテストで「わかりやすくて良い気分で観終えられるハッピー・エンドのコンテンツ」が選ばれやすくなっている世界だからなおさら。
こんなすごい舞台装置をつくって、出演者を豪華にして、1万5000円の入場料をとるのなら、映画とかNetflixで映像や特殊効果にお金をかけてドラマ化すればいいんじゃない?もっと観客の「想像力」を演者が立ち上げるのが舞台の醍醐味なんじゃない?とも思うのです。
でも、舞台には、それでは伝わらないものが、たぶんある。
キャストに関しては、藤原竜也さんは、さすがの舞台俳優なんだけれど、最近、藤原さんの演技がどんどん「古畑任三郎を演じている田村正和さんのモノマネ」みたいに見えてきて困ります。藤原さんは蜷川幸雄さんをはじめとする舞台人の薫陶をうけてきた人なので、「舞台俳優らしい所作やセリフ回し、声の張りかた」を見せてくれるのですが、この作品の主人公のイメージとしては「気合が入りすぎている」ような気がしました。
個人的には、森田望智さんの存在感がすごく心地よくて、ああ、この人好きだなあ、と思いながら観ていました。
これが初舞台で、「舞台俳優としての経験とトレーニング」をさほど積んでいないのが、いまの僕の感覚では「ナチュラル」に感じたのかもしれません。この「図書館の女性」も「感情がない、でも、少し残っているかもしれない」キャラクターなので、どこまでが「演技」だったのかわからないところもありました。
上演時間も長すぎず、説明的すぎることもなく、個人的には「面白い解釈だった」し、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「芯」はとらえている(逆にいえば、いろんなものを端折って『純化』している)舞台でした。
僕としては「ぜひ、小説も読んでみて!」と言いたいところではあります。
ただ、僕自身もいま、50歳を過ぎて読んだら、以前読んだときとはまったく違う気持ちになるかもしれないんですけど。








