いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

2019年の個人ブログと「自分にも他人にも期待しないインターネット」の時代


 あけましておめでとうございます。
 皆様にとって、2019年が良い年になりますよう願っております。


 さて、このブログでは、毎年、新年最初のエントリは、「現在のブログ情勢と今年の展望」みたいなことを書いているのです。


fujipon.hatenablog.com
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 1月2日、3日と、Eテレで、『平成ネット史』という、面白い番組が放送されていました。

www6.nhk.or.jp


 ちなみに、再放送も決まっているそうです(2019年1月12日予定)。この番組の話は、また別に詳しく書くつもりです。


 あらためて思い返してみると、平成というのは、「インターネットの時代」でもありました。
 平成元年には、一部の好事家たちが「パソコン通信」でやりとりしあっていたのが、1990年代後半から、「インターネット」というのが急速に普及し、一般化していきました。
 今となっては、電子メールが来ただけで喜んでいた時代が懐かしい。
 初期のテキストだけのやりとりから、いまや、動画配信が当たり前になっていますよね。


 そして、「現実で生きにくい人たちの隠れ家」のような存在だったネットは、今や「リア充アピールの主戦場」となりました。
 昔は「死にたい、不幸アピールの震源地」であった、ともいえるわけで、どちらが良いとか、そういう話ではないのでしょうけど。
 今でも「ネットのなかの、現実で生きにくい人たちの居場所」は存在しているのでしょうし。以前より目につきにくくなっただけで。

 
fujipon.hatenablog.com


 何か創造的なことをしたいけれど、なんとなく機会がないまま、年を重ねていった人にとって、ネットというのは、「表現」を多くの人に見てもらうためのハードルを劇的に下げる場だったのです。
 もっとも、ハードルが下がることによって競争率も跳ね上がり、今から参入するのはかなり厳しくなりました。
 

 僕は個人サイトを『さるさる日記』から始めて、もう20年近くになります。
 技術的なことは疎いのですが、「隠れ家」「ネットをやっているというだけで、相手に親しみを感じる」という時代から、「知らない人に接触するときには、『フォロー外から失礼します』と言うのがマナーになった時代」「フェイクニュースまみれのタイムライン」まで、ずっと発信・受信の両方向から、ネットに浸かってきました。


 僕自身は、スタートの時点で「ネットは年齢や国籍や立場を超えた純粋な議論の場となって、人々の相互理解に役立つ場になる」という「インターネットの理想」的なものに感化されており、フェイクニュースや炎上騒動について、「完璧に、は無理でも、ネットリテラシー(読解力や記述力)をもっと磨いていかなくては」と考えていましたし、自分にできる範囲での検証記事なども書いてきました。もちろん不充分であり、僕自身もフェイクニュースに踊らされたり、反発する気持ちから、逆方向に偏ってしまったこともありますが。


fujipon.hatenablog.com



 この記事などは、いろいろ煮詰まってしまった結果として出てきたわけで。
「それはツールが悪いわけではなくて、使い方の問題なのだから、ツールを廃止しろ、というのは馬鹿げている」という意見もたくさんいただきました。
 繰り返しになってしまうのですが、これを書いた時点での僕の考えとしては、「こういうツールをうまく使えず、人を傷つけるために利用する人が少なからずいて、長年みてきても改善されているとは思えないから、もう、ツールそのものを廃止するべきだ」というものでした。
 それが後ろ向きな解決法であることは理解していますが、人間の行動を時間の経過による経験の蓄積や啓蒙活動で変えることが難しいのであれば、その「場」や「環境」を変えるしかない、と考えたのです。
 あらためて考えると、『はてなブックマーク』というのも、昔に比べたら、ずっと「薄まっている」というか、攻撃性は減ってきているんですけどね。
 ブックマークで指摘されることによって知られる「事実」もありますし、大部分の人にとっては「現状ではノイズも多いが、総じて、メリットのほうが大きい」ということなのでしょう。
 

 「ブックマークコメント」や「リツイート」という行為を、軽く見過ぎていたことも反省しています。


 長年、テキストサイトとかブログで発信側だった人間としては、ブックマークコメントとかリツイートっていうのは「他人の尻馬に乗っているだけじゃないか」って思ってしまっていたのです(ブログであれこれ書くことも、「尻馬に乗る」行為ではあるのに)。
 当事者にとっては、「自分がこのエントリをブックマークして、コメントしたこと」や「これをリツイートしたこと」も、ひとつの「表現」である、というのが、今の時代の作法なのですね。
 フェイスブックの「いいね!」とかもそうですよね。
 僕は、たかが『いいね!』をつけただけのことで叩かれるのは過剰なのではないか、とずっと思っていたけれど、それはもう、明らかに古い考え方になってしまいました。


 昨年末に、この記事を読んで、ずっと考えていたのです。
inujin.hatenablog.com


 内心の絶望とか幻滅、憤り、みたいなものをこれだけマイルドに書いておられるのは立派だなあ、と、炎上系の僕は感心しつつ、日頃温厚なこの方でさえ、このエントリを書かずにはいられなかったのだなあ、とも思ったのです。


inujin.hatenablog.com
b.hatena.ne.jp


 元になったエントリは、僕はid:inujinさんと世代が近そうなので、すごくよくわかる内容だったのです。
 「男なんだから、ちゃんと仕事をして稼ぐのが当たり前」という価値観で育てられてきたのに、大人になってみたら、「家事・育児は夫婦が同じようにやるもの」だというのが「常識」になっていた。しかしながら、現場では、若い男性医師が育休をとったときに、看護師さんたち(ほとんど女性)が、「男の医者なのに、この忙しいのに、育休、なんてねえ」と話している。そんななかで、自分を変えていこう、価値観を変えて、家族との時間をより楽しんでいこう、という気持ちになるのは、そんなに簡単なことではないと思う。
 インターネットは、60点の人が努力をして80点に到達しても、「お前は100点じゃないからダメだ」と罵声を浴びせられることがよくある世界です。
 じゃあお前は100点なのかよ!と、その罵声の主に反論しようとすると、そこにはもう、誰もいなくなっている。
 叩けるエントリには人が集まるけれど、それに対して、説明をしたり、誤解を解こうとしたりしても、誰も足を止めてくれない。
 みんなが求めているのは「正しさ」や「世の中が良くなること」ではなくて、「自分が正しさを振りかざして、優越感を得られるターゲット」であり、「叩きやすいもの」ではないのだろうか。
 「非国民」と他者を安全な場所から叩いているつもりが、いつのまにか自分が戦場に送られてしまった時代も、こんな感じだったのかもしれない。
 ……とか書くと、また「主語が大きい」「たとえが不適切」とか叩かれるのがまた、今のインターネットなんですけどね。
 そういう「叩かれること」に対して、よく言えば覚悟を決める、悪く言えば炎上商法として利用するというのが、いまのネットで生き残るというか、お金を生むためのスタンスなのだとも思います。
 稼ごうとしないのであれば、その態度を鮮明にしたほうがいい。
 顔を知っている人たちとの密接な連絡手段のひとつと割り切って狭い範囲で使えば、あまり問題にはならないはず。

 その中間である、「少し自分の交遊関係を広げて、少しくらいお金になれば嬉しい」というスタンスは、以前よりもさらに成立しにくくなっています。
 

 炎上なくして、浮上なし。


『ユーチューバーが消滅する未来』という本のなかで、岡田斗司夫さんが、こう仰っています。

 グーグルなんかの人たちは「みなさん自身が情報を集めて判断してください」と言うけれど、そんなことができるのは一部の人であり、情報消費者ではないでしょう。消費者側の能力を高めて、フェイクニュースによる被害を防ごうというのは原理的に無理じゃないでしょうか。
 それどころか、「ウソよりも真実を信じろ!」と相手に強制するのは、近未来社会では「マナー違反」になってしまうかもしれません。「宗教より科学を信じろ!」と言うのと同じで、傲慢とまでは言わないけど、みんなに要求するのは無理がある。
 極論すれば、もうすでに「ニュースが真実かどうか判断する」ことはたいていの人にとって重要ではなくなっている。フェイクニュースを受け入れることが「文化」になりつつあるんです。
 僕は、「文化」は常に「真実」の上位に位置すると考えています。


 岡田さんの発言だけに、「なんかうまく言いくるめられて、愛人にされちゃうんじゃないか」とか思ってしまうところはありますが、これからの世の中では、情報収集のプロや専門機関でもないかぎり、「ウソをウソと見抜く」のは難しいし、それを他者には要求できない、と僕も感じています。
 だから諦めてしまうのか、ほとんど影響がないとわかっていても「真実」を探る努力を続けるのか、いっそ、自ら「面白いウソ」を発信して、世界を利用するのか。
 もっとも「面白いウソをつく」のは、極めて難しいことでもありますよね。
 そして、中途半端なウソをつくことほど、その人の評価を貶めるものはない。


 みんなが信じてしまえば、ウソが本当になる時代を、どう生きるのか。
 お金にもならない、ゆきずりの人たちに叩かれてうんざりすることが多い「真実」を、それでも発信しつづけるのか。
 
 正直、これからのもっとも無難なネットリテラシーは、通販サイトとYahooニュースしか利用しない、SNSは知り合いとの業務連絡のLINEだけ、だと思うのです。
 それでも、「何か言わずにはいられない」のも人間の性なんですよね。


 今年、2019年は、これまでよりも、少し「攻めてみる」というか、あまり他者からの反応を意識せずに書きたいこと、書けることを書いてみようと思っています。そんなに急に内容が変わることはないかもしれませんが。
 「フェイク上等で踊り続ける」か「なるべく狭い世界で無難に過ごす」かの二極化がすすんでいくなかでは、むしろ、「その中間、自分が知っていることを、そのまま発信するというのが、いちばん空いている場所」であるような気がします。


 自分にも他人にも期待しない、ただ、言葉を発する快感を得るためのインターネットへ。
 
 なにはともあれ、2019年も、よろしくお願いいたします。


fujipon.hatenadiary.com
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ネット炎上の研究

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