いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

新型コロナ禍の時代の『銀河英雄伝説』


いま、NHKEテレで、『銀河英雄伝説』の新しいアニメ版が放映されています。
高校時代に出会って以来、大好きで、ときにちょっと嫌いになったこともあった『銀英伝』。


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fujipon.hatenablog.com


現在は、2周くらいして、やっぱり好きだなあ、と思っているのです。
新作アニメに関しては、『銀河声優伝説』とも呼ばれた前のシリーズが素晴らしいデキだったので、「ヤン提督の声は富山敬さん以外にはありえないだろう」と認めがたい気持ちではあったのだけれど、新シリーズも観はじめるとやっぱり面白い。この先がどうなるかわかっているものを見るというのは、若い頃は時間のムダのような気がしていたのだけれど、今は安心して見られてラクでもあります。


しかし、このコロナ禍の時代に『銀河英雄伝説』を観ると、高校時代に観たときとはまた違った印象もあるのです。
『銀英伝』には、「最良の専制政治と腐敗した民主主義は、どちらが良いのか?」という問いが根底に流れています。
ゴールデンバウム王朝を打倒したラインハルト・フォン・ローエングラムは、善政を敷き、有能な人物を登用して、帝国の人心を刷新していきます。
その一方で、自由惑星同盟の首長であるヨブ・トリューニヒトは、人気取りの政策と「国家のための市民の自己犠牲」を求める「空気」をつくりあげてしまう。「帝国を打倒するための崇高な戦争」を批判するものたちは、憂国騎士団に私刑を加えられ、政府はそれを黙認している。


基本的には「最悪の専制政治よりは、最悪の民主主義のほうがマシ」なのだろうとは思うけれど、有能な統治者が「最良の専制政治」を行った場合には、少なくともその強制力や手続きの簡単さ、即時性において、「最良の民主主義」よりも優れているのではないか、という気はするのです。


今回の新型コロナウイルスの蔓延に関しては、本当にさまざまな言説があるのだけれど、最近みたもののなかで印象的だったものを2つ挙げておきます。



www.dailyshincho.jp
blog.tatsuru.com



僕が今回の日本の「コロナ対策」での日本政府について一番感じていること。
それは、「安倍総理が独裁政治をやっている」と言う人もネットではけっこう見かけるけど、日本は良くも悪くも「手続きを重視する民主主義の国」なんだな、ということなのです。
もっと早く緊急事態宣言を出していれば、ロックダウンをしておけば……という意見はあるし、「オリンピックをやりたかったがために対応が遅れた」ような印象は受けるのですが、少なくとも、日本ではトップダウンでいきなり都市封鎖をしたり、1週間で病院をつくったりはしなかった(できなかった)。休校はかなり突然ではありましたが。
「緊急事態宣言」にしても、国民の行動の自由に制約を加えるということへの躊躇があった、とされています。
「人の命を守るためなんだから、仕方がないだろ!これは戦争なんだ、非常事態なんだ!と言う人もいるけれど、じゃあ逆に「戦争だったら、個人の自由を強制的に制限しても良い」ということなのだろうか。
いまの日本の政権は決断力がなかった、と言うべきなのか、「日頃のイメージよりもずっと、民主主義や憲法を尊重していた」と考えるべきなのか。
むしろ、メディアやネット上の「普通の人たち」のほうが、ずっと「コロナに対する『自粛』を守らない愚か者ども」を見つけ出して吊るし上げているようにすら思われます。
そういう「同調圧力」が日本のコロナ対策には有利に働いていることもまた事実ではありますし、感染が拡がることは、自分自身の危険にもつながる、という意識もあるのだろうけれど。


あくまでも個人的な見解ですが、感染者数は漸増してきているものの、日本では新型コロナウイルスによる死者は諸外国に比べると少なく、感染拡大のスピードも緩めです。もちろん、完全に予防したり終息させられるのがベストなのですが、重症者の割合を少なくする、時間を稼いで治療法の開発や自然収束を待つ、というのは、次善の策ではあるのです。


太平洋戦争の開戦時も、政府高官たちは日米の経済力の差を認識していて、開戦反対派が多かったと言われています。
そんななかで、国民やマスコミ、一部の軍人が、「開戦」に突き進んでいった。
そういう人たちが、戦時中は、爆弾を抱えて敵陣に突撃していった人たちを「軍神」と称え、戦争が終わったとたんに「お前らのせいで戦争をさせられ、負けたんだ」と、その実家に石を投げてきたのです。


fujipon.hatenadiary.com
(この本の中にも、そういう話が出てきます)


コロナは特別、なのかもしれないけれど、「特別」なときに簡単に揺らいではいけないからこそ「憲法」が存在している、のではなかろうか。
『銀英伝』でも、ヤン提督は「人類はいつも「命よりも大切なものがある」と言って戦争をはじめ、「命がいちばん大切だ」という理由で戦争をやめてきた」と言っています。
僕は、太平洋戦争のときの同調圧力って、こんなふうに、いつのまにか世の中に蔓延していったのかな、と、考えてしまうのです。
幸いにも、今回の相手はウイルスですし、取り越し苦労であってほしいのですが。


いまの日本では、明らかに費用対効果に乏しい布マスクの政府からの配布なんてのもありましたが、給付金が国民の声で一律10万円になったように直接的・間接的に声が政治に届くシステムになってもいるんですよね。不十分だし時間もかかりますが、日本は、まだ、けっこう民主主義の国ではある。選挙で落選したくない、という思惑であっても、国民の声を無視はできない。


ヤン提督は、「それでも、民主主義は、その失敗に、市民が自ら責任を負う(為政者のせいにできない)という点において、専制政治よりマシ」だと言い続けていました。


僕には、その「責任を負う」覚悟があるのだろうか。
結局、「政治が悪い、あの政治家が悪い」だけでは、専制国家の国民と同じなのかもしれませんね。


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