声を上げることも、デモをやることも、全然「悪いこと」ではないと思います。
僕自身、ネットで20年以上書いてきて、ほんの少し褒められていい気分になったり、ものすごく叩かれて落ち込んだりしてきました。
結局のところ、なんらかの形で「声を上げる」というのは、誰かの感情を動かすこともあるし、批判されたり、誹謗中傷されたりすることもあるのだろう、と今は半ばあきらめています。
冒頭のエントリで採り上げられている話題に関しては、僕は男性として半世紀を生きてきたので、女性がどんなふうに日常で恐怖を感じているのか、というのは、想像はできても実感するのは難しいのです。
ただ、加害側として考えてみると、たとえば行列に並んで待っているときに、若い女性が割り込んできた場合と、反社会的勢力っぽい男性が割り込んできた場合、それぞれ自分はどうするだろう、と想像してみると、前者に対しては強い態度に出やすいし、後者に対しては「事を荒立てない」可能性が高いと思います。
柚木麻子さんの『本屋さんのダイアナ』という小説があります。
fujipon.hatenadiary.com
「うちもそうだったから、わかるんだ。小学六年生の時に、学校の帰り道に変な男にいやらしいいたずらされたの。一度じゃなくて何度も何度も。誰にも言えなくて、あんときはすごく悩んで、しんどかった。学校にも行けなくなったくらいだよ」
「大人に相談すればよかったのに……」
幼いティアラさんの味わった恐怖や悲しみを思うと、胸が詰まって、なんだか泣いてしまいそうだ。
「そん時は思いつかなかったよ。うちの親や兄姉は、何かあるとすぐ、うちが悪いって押さえつけるような人達だったから。学校の先生や友達にも言いづらいしね。辛くて口惜しくて、ご飯も食べられなかったよ。でも、あたし、バカじゃないからね。自分の頭で考えたんだ。それで、サーファーやってた中坊のダチに手伝ってもらってキンパにしたんだ、そしたら、ぴたっと痴漢に遭わなくなった」
キンパ……、ああ、金髪か、と彩子はややあって理解する。
「職場にもそういう娘けっこういるよ。いじめられたり変な男に目ェつけられやすくて、ギャル始めたって子。あ、痴漢やセクハラ野郎って、派手な女が苦手なんだよ」
僕はこの物語の後半、二人の女性主人公のひとり・彩子に起こった、ある「事件」について、僕はずっと考え込まずにはいられなかったのです。
これは、実際に某大学で起こったある事件をモチーフにしているのですが、なんというか、「男とか先輩とかいう存在のズルさ」みたいなのを目の前に突きつけられる、そんな感じでした。
いや、こういう話って、ある種の「武勇伝」のように語る男っているんですよ。
そして、それに同調して、「女の側にも隙があった。自己責任」と断じる女もいる。
そして、被害に遭った本人も、自分を傷つけないために、記憶を「改変」してしまう。
女性の人生って、ほんのちょっと隙をみせたとか、ほんのちょっと世間知らずだったから、というような理由で、取り返しのつかないくらい、損なわれてしまうことがあるんだ。
そして、同じ女性のはずなのに、男の側について、被害者を増やす人もいる。
僕は、そういうことに無自覚だった自分に、愕然としました。
でも、モテない男として生きてきた僕からすると、「じゃあ、女性に対して、常にきちんと距離をとって、礼節を守って接する」と女性に愛してもらえるのか?という疑問もあるわけです。
世の中とか、愛と呼ばれるものって、そうじゃなくて、ある種の「強引さ」とか「わがままさ」が人と人との距離を縮めることも多いのです。
「女に生まれて損」「男女平等であるべき」と言っていた人が、同じ口で「それは男の仕事」「男らしくない」という言葉を発しているのを何度も、何人もみてきました。
何年生きても、よくわからない。
「なんで、害を与えることもないのに、女性に見向きもしてもらえない自分まで、『男』として責められるのか?」
新聞とかの記事だと、こういうのって、「あちら側の出来事」だと割り切りやすいのだけれど、ネット経由だと、つい、「自分のこと」のように受けとめてしまうのです。
結局、男も女も、生きるというのは難しいしめんどくさい。
そういう、あれこれ考え込んでしまう人ほど、さらにその難しさの底なし沼にハマっていくようなところがある。
ただ、女性というのは、満員電車のなかとか、サークルの飲み会とか、あるいは夜の帰り道とか、そういう「男にとっては、とくに意識しないような場所や状況」で、致命的に傷つけられる可能性が高い、というのは事実なのです(もちろん、男だって、ノーリスク、というわけじゃないですが)。
まあ、本当にめんどくさいですよね。もう恋愛も結婚もしなくていいや、子どももいらない、っていう人が増えていくのもわかる気がする。「家名を残す」とか「結婚しないと一人前にみられない」という周囲からのプレッシャーが少なくなった時代なら、なおさらのこと。
冒頭のエントリには、こう書かれています。
ある出来事についてそれぞれの考えで意見述べることは自由だし、時には過激な表現になることもあると思います。
ただ、個人に対して大人数が連鎖的に批判的な書き込みをすることは、知らず知らずのうちに相手を追い詰めることになっているのではないか、とも感じました。
大量に批判を受ける側の負担感に比べると、書き込む側があまりにも気軽に行っているように思え、その落差がとても大きく感じます。
僕自身も、ネットで良くも悪くも(主に後者)いろいろ言われてきました。
20年もハンドルネームで活動してきていて、僕がこのブログを書いている「中の人」だということは、ネット経由でやりとりがあって会ったことがあるごく一部の人しか知らないし、知っているかもしれない人たちも、あえてそっとしておいてくれています(本当にありがとうございます。こんなに長く続いているのは、そっとしておいてくれている人たちのおかげです)。
それでも、批判や誹謗中傷をされたり、害意を露わにされたりすると、怖かった。
名前や顔を出して活動している人は、なおさらだと思います。
ネットでは、つながりたくない人と、つながってしまうリスクもある。
20年近く前から、「ネットリンチ」に参加している人たちって、「別に誰かと共謀しているわけではなく、個人の意見の集合体でしかない」「批判と誹謗中傷は違う」と言ってきました。たしかに、みんなで相談しあってコメントを書いているわけではないのでしょうし、本人は「正当な批判」のつもりなのでしょう。
受ける側からすれば、「これは批判、これは誹謗中傷」なんてカテゴリー分けを全部できるわけがなくて、「不特定多数の人が、自分のことを嫌っていて、中には害意を持っている人もいる」という怖さしかない。
こういうのって、ネットリンチを受ける側になってみないと、実感するのは難しいと思います。
人間って、10人のうちの1人共感、8人スルー、1人批判、くらいの割合でも、その1割がけっこう効くものなのだな、というのが、僕の経験則です。
だからといって、みんなが、あらゆるデモをやっている人を温かく応援するような社会が実現可能とも思えないのですが。
木村花さんの件について、僕が痛感したのは「ネットリンチの罪の尺度は、そのリンチの酷さではなく、それを受けた人がどうふるまうかによって測られる」ということでした。
木村さんの命が失われてしまったことはとても悲しい。
木村さんはあの番組で自分が与えられた役割を演じていただけなのに。
でも、あれだけ叩かれたというのは、彼女の演技が上手かった、あるいは、上手すぎた、とも言える。
そして、悪役を演じて憎まれても平然としていられるほど、彼女のメンタルは強くなかった。
実際、(名前を挙げて申し訳ないけれど)「はあちゅう」さんとか、長年にわたって、木村さんに負けず劣らずの大バッシングを受けているわけじゃないですか(僕もそれに全く無関係ではありませんが)。それでも、本人が「相変わらずの姿勢」で活躍(?)し、「悪名もまた名なり」とふるまっていれば、批判者の罪はあまり問われない。
打たれ強い人は、叩いてもいいんだ、みたいな世界もなんだかなあ、と思いはするのですが、結局のところ、現在のネットで顕名の発信者として生き残っていくのは「アンチの粘着や炎上で稼いだPV(ページビュー)もファンが観てくれるPVも、同じ1PV」と割り切れる、強メンタルかビジネス脳の人だけなのかな、という気がするのです。
まあしかし、そういう人たちがつくったコンテンツばかりのインターネットって、僕には面白くない。
これは、冒頭のエントリでインタビューを受けている山口真一准教授の著書なのですが、こんなことが書かれています。
ひとたび「極端な人」がネットで暴れ出すと、世界中がその人を攻撃しているように見えてしまう。SNSは誹謗中傷であふれ、攻撃されている側からすると、まるで世界中が敵になったように見えていることだろう。
しかし、私が2014年と2016年に実施した先述の実証研究は、ネット炎上の驚くべき実態を示した。何と、炎上1件当たりに参加している人は、ネットユーザーの0.0015%しかいなかったのである。0.0015%という数字はほとんど見たことがないと思うが、これは大体7万人に1人くらいの割合だ。
この結果は、2014年の2万人調査でも、2016年の4万人調査でもほとんど一致していた。大体そのくらいが炎上1件に対して書き込みをする人の割合なのだろう。日本全国のネットユーザー数を考えると、7万人に1人ということは、およそ1000人が炎上1件について言及しているといえる。
どうやら、「極端な人」の数がイメージより少なそうというのは、間違っていないらしい。実際、自殺という大きな事件にまで発展した木村さんの事件でも、木村さんのアカウントに来たリプライ(返信)は、一日最大でも400件未満であり、誹謗中傷に絞るとさらに少なかった。そして、放映後3日も経たずに、一部の粘着質な人を除き、誹謗中傷的な書き込みは鳴りを潜めていたのだ。
その後追加映像がユーチューブで放映されて再び誹謗中傷の嵐に晒される、等で繰り返し攻撃されたものの、同じ人が何度も攻撃していたことも分かっており、攻撃者は他の炎上と同様、およそ数百~1000人規模だっただろう。1000人と聞くと多そうだが、前述したようにネットユーザ全体からすると非常に小さい割合で、「世界中の人が敵になっている」とは程遠い状態だ。
しかしこれは、「極端な人」が少ないから我慢できる、という話ではない。想像してみて欲しい。自分が普通に生活しているだけなのに、一日数百件の誹謗中傷・攻撃に晒される日常を。あなたはそれを笑って過ごすことが出来るのだろうか。
「ネットリンチ」に参加している人は、そんなに多くはないのです。ネットを使っている人の全体数に比べれば、微々たるもの、ともいえる。
ただし、一人の人間を致命的に傷つけるには、一人の悪意で十分な場合もある、というのも事実です。
こんな比較をするのは不適切かもしれませんが、政府批判をしただけで行方不明になってしまう人がいる社会とかに比べれば、まだ「マシ」ではあるし、その「マシ」な状態をこれ以上悪化させたくはない。
とはいえ、リベラリズムの話じゃないですが、「誰でも自由に書き込みができるネット社会」というのを広く解釈すれば「じゃあ、批判や誹謗中傷(と受け止められるような内容)だって『自由な発信』の範疇だろう」という人も出てきます。
直接的な言葉よりも、「お前の家族がかわいそう」とか言われるほうが、よっぽど不快な気分になることもあるので、特定の「NGワード」を禁止すればいい、というものでもないのかもしれません。
「小女子(こうなご:魚)焼き殺す」みたいな「言葉遊び」をはじめてしまう人もいる。
冒頭のエントリでインタビューに答えていた30代男性の話を読んでいて思ったことがあるのです。
僕のように「大人、30歳前後になってから、いきなりインターネットの洗礼を受けた世代」と、僕の子どもたちのように、「生まれたときからネットが存在するのが当たり前だった世代」は、ネットの使い方とか、ネットでの人との距離の取り方が違うのではないか、と。
マスメディアなどに属する「伝える人」と受け手の間に壁があった時代を生きてきた人たち(僕もこちらに含まれます)は、ネットでその距離が急速に縮まり、自分たちの声や意見がダイレクトに相手に伝わることに驚きや違和感、感動があるような気がします。
そして、実際に会って接するときと、ネット越しに接するときに、良くも悪くも「態度」を変えてしまう。
「伝わるかも!」と期待するから、批判とか誹謗中傷も書いてしまうのです。それを書く自分の側のリスクは意識せずに。
いま10代前半の僕の長男の世代は、リアルでもSNSでもあまり他人との距離感が変わらない、というか、「SNSも現実の一部」「手間を省く便利な道具」でしかない。
だから、ネット経由だからといって、油断もしないし、自制心もはたらきやすい。
「ネットには世の中で表に出せない本当のことが書いてある」なんて、考えたこともない。
もちろん、これは「傾向」でしかないのですけど。
結局のところ、「ネットリンチ」とか「ネット上の誹謗中傷問題」というのは、年月が経って、世代交代が進み、「インターネットネイティブ」が多数派になることによってしか解決されないのかもしれませんね。
ああ、こういう話を書いていると、2016年の日本シリーズでカープが日本ハムに負けた夜に、喜びのツイートをしている日本ハムファンのアカウントをひたすらブロック・ミュートした夜のことを思い出す……
「発信すること」って、自分にとって楽しかったことや良かったこと、好きなことでさえも、誰かを不快にさせたり、苛立たせたりすることってあるんだよなあ。
そんなの理不尽、って思うだろうけど、理不尽なことはわかっていても、どうしようもない夜もあるのです。
そういうときは、とにかくネットから離れるしかない。理解しているつもりでも、つい見てしまって苛立つ。自分がうまくいっていないときは、とくにそうなりがちなのです。
僕はネットに向いてない。
向いてない人間が20年やっていれば、そりゃ疲れるよなあ。