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たしかに、「イエスマンばかりで周囲をかためた社長」とか「秘密警察にすぐ通報される国」みたいなのはイヤだなあ、と思うんですよ。
ネットに閲覧制限もかけずにアップロードしたものは、世界中から見られる可能性があるので、いろんな人がみて、いろんな立場からの意見や批判が出てくることがあるのは、やむをえないし、むしろ健全なことなのだ、というのも同意します。
最近、誹謗中傷と批判を区別できずに「オレを批判するな!」といった意見をよく見かける。
しかし「これは素晴らしい」「いいね」ばかりのコミュニケーションが果たして健全なのか。
ただ、僕自身、長年ネットをやってきているにもかかわらず(というか、長年ネットに関われば関わるほど)、「誹謗中傷と批判って、そんなに簡単に区別できるんだろうか?」という疑問は解消されないままなんですよ。
それは、「批判や誹謗中傷(とされるもの)で叩かれている側にだけ問題がある」のではなくて。
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この対談本のなかで、百田尚樹さんと田原総一郎さんの、こんなやりとりがあるのです。
田原:これは小説家・百田さんの、放送作家またはテレビ制作者的なところだろうと思うけど、『永遠の0』は場面が次から次へと展開し、見せ場や山をつくって飽きさせない。とても用意周到につくり込んでいる印象を受けました。ちょっとつくり過ぎでは、と思った部分もあったくらいなんだ。
百田:わかります。私は、小説は基本的にエンターテインメントだと考えている小説家です。言論人やジャーナリストならば、主張したいところを論文で書けばいい。でも、小説家は、読者のアタマに訴えるよりも、心に訴えることのほうが大事だ、と思うんです。もちろんアタマに訴えることも必要ですけれども。
評論家なんかはよく「この小説にはテーマがない」と、いったりします。たとえば「戦争は絶対にダメである」というテーマが重要だ、とかね。そんな意見を聞くと私は、だったら原稿用紙を500枚も600枚も埋めていく必要なんかない。「戦争はダメだ」と1行書けば済むじゃないか、思います。
田原:うん、そりゃそうだ。
百田:小説が論文と違うのは、そこです。「戦争はダメだ」「愛が大切だ」「生きるとは、どれほどすばらしいか」なんて1行で書けば済むことを、なぜ500枚、600枚かけて書くのか。それは心に訴えるために書くんです。「戦争はダメ」なんて誰だってわかる。死者300万人と聞けばアタマでわかるし、悲惨な写真1枚見たってわかる。けれども、それはアタマや身体のほんとに深いところには入らない。そんな思いがあって、『永遠の0』という小説を書いたんです。
百田尚樹さんが嫌い、という人は少なからずいるようですが、この百田さんの言葉には「創作」とか「他人に伝えること」の避けがたいめんどくささ、みたいなものが込められていると思うのです。
id:paradisecircus69さんは、こう仰っています。
“批判”とは論旨が伴う。
○○だから××なのだ。
だから△△は違う。
意見や事象に対し読み考えた上で論理的に異なる判断を行い、それを主張する。
根拠があり、感情ではなく論理的判断が伴う。
批判という行為自体を全否定されてしまうと「批評」ができなくなる。
誹謗や中傷は、感情が伴う。
善意であれ悪意であれその根本に感情があるならそれは個人の関係性や思い込みでどうとでもなる。
「○○はオレが好きだ。だから間違ってない。それを批判する連中はすべて間違いだ」
これは、仰る通りだと僕も思います。
「誰かの表現を、(あるていどは合理的な)理由を明示して批評する」ことまで、「口封じ」されてはたまらない。
そもそも、このエントリも、そういう「批評」に属しています。
でも、実際にネットという場で、他者のブログのエントリにブックマークコメントをつけたり、自分のブログで論評している人のなかには、
○○だから××なのだ。
だから△△は違う。
では、気が済まない人がいるのです。
僕はこのエントリ、一部修正される前にも読みましたが、「痛快だ!」と思ったんですよ。すごく面白かった。なんのかんの言っても、自虐ネタ成分が多いし。
この元になったエントリにも、あまり好感は抱けませんでした。
「食べていくために、ダブルワークでヘトヘトになっているシングルマザー」のことを思い浮かべたりもしました(いわゆる「マイノリティ憑依的」ではありますが)。
でもまあ、率直に言うと、「この人も、いつか社会とか人生とかいうものに、強烈に『思い知らされる』可能性が高いだろうから、放っておくか」と。
ただ、「足の疲れを癒すための機械を買うために、足が痛くなるような仕事をするというような本末転倒な状況は、自分にもあるかもしれないな」とも感じました。
ちょっと時間をおいて読み直してみると、このエントリのなかで、id:kyoumoeさんが使っている
何がマゾゲーだよお前コミケに行って「うわっオタク多っくっさキショッオタクってなんで生きてんの?」とか言ってるような人種か、まっくら森ガールか。
「ひかりの中で見えないものがやみの中にうかんで見える」って完全にお前の心の闇じゃん、良かったなまっくら森ガール。
ただの甘ちゃんじゃねえか。じぇじぇじぇ~。うわっきもっ死ねっ。
とかいうのは、「中傷」ですよねやっぱり。
僕は「罵倒芸」の存在そのものを否定するわけではないし、世の中には「イジられ芸人」というのも存在するわけです。
でも、「罵倒」は「罵倒」だし、「中傷」は「中傷」。
相手との同意のうえで行われているのでなければ、少なくとも、褒められたものではないでしょう。
「罵倒」を「自分は罵倒をする人間だ」と引き受けたうえで、あえてぶつけていくという「芸風」の人もいるとは思う。
ただし、その場合は、相手からの「抗議」も引き受けなければならないし、度を過ぎれば「謝罪」や「撤回」「訂正」もしなければならない。
「誹謗中傷でも、面白いからセーフ」っていうのは「いじめる側の発想」です。
むしろ、「面白い」からこそ、それが理由で許容したり、賞賛したりする人がいるから怖いんだ。
いくらその「趣旨」が「批判」なのだとしても、それを「表現」する際に、「誹謗中傷的な表現」が使われていれば、それを「批判だという理由で正当化する」のはおかしいと思うのです。
「批判」だけしたいのであれば、「うわっきもっ死ねっ」などという言葉を含むこんな長文を書く必要はなく、「人はさまざまな事情で仕事をしているのですから、長時間労働でがんばっている人を嘲笑するような言い方はやめてください」と、「一文」で済む話なんですよ、本来は。
でもね、それじゃ「伝わらない」し、「誰の心にも引っかからない」という面もあるのだよね。
「戦争反対」では伝わらないという実感が、『永遠の0』という小説になった。
ただ、そこで「具体例」みたいなものを使うと「腑に落ちる」人が増える一方で、「戦争を美化しているんじゃないか」「主人公以外の日本人を悪く描きすぎているんじゃないか」と感じる人も出てくる。
僕は「これは批判だから」という大義名分のもとに、誹謗中傷的な「肉付け」をして、快哉を叫んでいる人が少なくない、と感じており、それが「ネットでの正義の暴走」への違和感につながっているのです。
いやそもそも、「誰かの悪口を言って憂さ晴らししたい」という欲望がまずあって、そのターゲットに「『批判』できる属性を持っている」相手を見つけている、ような人もいる。
あえて、誹謗中傷的な表現を使っておきながら、それを責められると「いやこれは『批評』だから」と主張する人もいる。
こういうのを、あまり厳密に適用すると、ネットがどんどん息苦しくなっていくのかもしれません。
でもね、食材が「批判」でありさえすれば、どんなひどい調味料をふりかけても良い、というのは、間違っている。
「批判と誹謗中傷の区別がつかない」のは、必ずしも「叩かれている側の読解力不足」だけが原因ではない、と僕は考えているのです。
「批判」が伝わらないからといって、「誹謗中傷」の力を借りようとするのは、自らダークサイドに堕ちていくことでしかない。
まあでも、あんまり喧嘩しないに越したことはないですよ。
嫌なヤツをデスノートに書いて消していくには、ネットの世界はあまりにも広すぎるから。
むしろ、「自分の考えに共感してくれる人が、この広い世界にほんの少しでもいてくれたらラッキー」くらいが、精神衛生上よろしいかと。