いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

羽生結弦さんの離婚発表と「推しの幸せを素直に願う」ことの理想と現実

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 昨日(2023年11月17日)の夜、Yahooニュースのトップでこのことを知って、深夜にもかかわらず、「は?」と声が出てしまいました。
 離婚……って、ついこのあいだ結婚したばかりなのでは……羽生善治さんの間違い?いや、将棋の羽生さんなら、個人的にはより一層せつないのだが……

 いやほんと、マスコミもファンも、私生活は悪いことでもしていなければ放っておいてあげればいいのに、とオリンピックでは羽生さんを応援する、という程度の僕は思ったのですが、羽生結弦さんのファンの熱さはさまざまなところで見てきたので、こういうこともありえるよな、とは感じました。
 誹謗中傷したり、つきまとったりする側は「自分は大勢の同じような人間のひとり」でしかないのだけれど、被害を受ける側からすれば、ひとりの人間に「お前を恨む」「命を奪う」なんて言われるだけで、もう不安で仕方がなくなってしまう。

 そして、「熱狂的なファン」というのは、ちょっとしたきっかけで、「先鋭的なアンチ」になることが多いのです。
 僕は医療従事者として、あるいはネットで発信する人間として、何度もそういう「ファンからアンチへの転向」に困惑させられ、ときには身の危険を感じてきました。
 その「熱狂者」たちは、「私が思う『あなたらしい行動・発言』とは違う」という理由で、「大好き」という感情は、180度回転し、「大嫌い」「そんなのはあなたらしくない」という方に向かってしまう。
 羽生さんの結婚相手の場合は「なんであなたみたいな人が羽生さんと!」みたいな誹謗中傷や恫喝もあったのではないでしょうか。

 それを報道したマスコミが悪い、というのは、確かにそうなのだと思います。
 こういうリスクは予想していたからこその結婚相手の非公開だったのでしょうし。

 ただ、それを「知りたい」という人が多くて、「知る権利」みたいなものを振りかざされたとき、結婚というのは「おめでたいこと」だとされているだけに、「結婚相手を報じただけですから」と言われたら、それが罪になるのかどうか。
 「結婚」という行為そのものが、本質的には「自分のパートナーを公的に認知させること」を目的とするものではありますし。

 本当の「推し」なら、結婚による相手の幸せを願うべきだ、というのは、まぎれもなく「正論」なのだと思います。
 しかしながら、人間というのは、そう簡単にはできていない。
 僕は芸能界にはそこまで思い入れがある人はいないのですが、先日、長年応援しているプロ野球チームの選手のFA宣言には、一日中鬱々としていました。
 せっかく今年は、チーム浮上の兆しがようやく見えてきて、新井監督のもと、いい雰囲気になり、ドラフトもうまくいったのに……

 それが「選手の権利」だということは頭では理解しているし、同じ仕事をするのであれば、給料が良いほうがいいし、地元に帰りたいとか、環境を変えてみたい、というタイプの人がいることもわかります。
 わかるんだけど、なんだかなあ、なんですよ。わかることと、受け入れることは、同じではない。


fujipon.hatenablog.com
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 以前、カープの選手のFAに関して、こんなエントリを書きました。読み返すと、恥ずかしいし、申し訳なく感じるのと同時に、当時の絶望感が蘇ってきます。
 今回は僕も大人になったので、そういうエントリは書きませんでしたが、と言いたいところでしたが、加齢のせいなのか、もう書くのも面倒になったのと、どうせプロ野球選手も、自分の人生が一番なんだから、と諦めてしまってもいたのです。
 書くなよ、書くなよ、と自分に言い聞かせ続けていました。

 負の感情は、一日ごとに薄れていき、今はもうどうでもいい。でも、内心、そんなにあっちで大活躍しないでほしいな、くらいの呪いは心に抱いています。こういうことも書かないほうがいいんですけどね。

 
 某人気ウェザーニュースキャスターの動画も、プロテニス選手との「熱愛発覚!」以来、アンチになったわけじゃないんだけれど、別に見なくてもいいや、って気分になっています。オタサーの姫なんてそんなもの、だし、そもそも50過ぎていろいろ枯れ果てた人間ですら、その程度の未練というか失望みたいなものがあるのだから、もっと熱烈に「推し活」をしてきた、まだ自分にもワンチャンスあると信じたい人は、「推しの幸せを素直に願う」っていう正しさは、けっこうハードルが高いのではないか、とも思うんですよ。

 僕自身に鑑みると、「何かを強烈に応援したり、それに失望したりするのは、自分の人生がうまくいっていないこと、あるいは閉塞感にさいなまれているときの代償行為」でもありました。
 

 羽生結弦さんがこれまでスケート選手として、あるいは人間として、あの東日本大震災の後遺症や停滞する日本をある意味背負って活躍してこられたことを多くの人が知っています。僕のようなオリンピックしかフィギュアスケートを見ない人間でも、羽生さんの演技には魅了されつづけてきました。

 ただ、いまの世の中では、羽生さんという大スターは、巨額の富を生み出す金のガチョウであるのも事実なのです。
 CM、アイスショー、映像作品、雑誌、出場する試合の放映権……そのほか、多くの人が、羽生結弦さん関連で多額のお金や時間を使っています。
 「推し活」は昔に比べたらずっと「普通の行為」として認められてはいますが、ソーシャルゲームやギャンブルと似たような「重課金者に支えられたビジネス」が美化されているだけのようにも半世紀生きている僕には思えるのです。

 ほとんどの人は、身の丈にあった、節度ある「推し」で人生を豊かにしていると信じていますが、ソーシャルゲームや競馬もたぶんそうなんだよね。

 何も好きになれない人生よりは、「推せる」ものがある人生のほうがずっとマシ、ではあるのかもしれませんが、その偏愛の先が失われたりブレたりすれば、「これまでずっと応援してきたのは、いったい何だったんだ?」と我に返ってしまうこともあるでしょう。

 どんどん私を応援してください、バンバンお金を使ってください!あなたの、ファンのために尽くしますから!
 そんなふうにさんざん煽っておいて、集金が一区切りついたら、「私には私の『幸せになる権利』がある」と梯子を外してしまう。

 もちろん、ほとんどの人はそこで「ちくしょう!」と思いつつも、しばらくすれば立ち直って、「ああ資本主義」なんてことを思いながら次の推しを見つけるか、やさぐれつつだらだらと生きることになるのですが、まあ、みんながみんなそうできるとは限らない。

 羽生選手の場合は、本人が望んでいる以上に「神格化」がなされてしまって、本当に大変だなあ、と思います。
 「課金しまくるのはファンの勝手」と開き直れるような人柄じゃないでしょうし、本人が積極的に課金ビジネスを進めているわけでもない。
 それでも、羽生さんはあまりにも存在が大きくなってしまって、多くの関係者の生活を支えているのです。

 なんだったら、スケートやめて、海外の小国に移住します!もう放っておいて!ぐらいのことをやれば、さすがにメディアもファンも追っては来ないはずですが、羽生さんを覆っているしがらみは、そんなことは許さなかったのだろうか。

 人はみんな、幸せになりたいし、それを求める権利がある。
 しかしながら、恋愛やスポーツの所属チームのように、選んだ者に罪はないが、選ばれなかった者にはつらいこともある。
 
 僕は自分自身の経験も踏まえて、「相手の幸せを祈れればいいけれど、それが無理なときには家で紙に書いて呪詛するか、不貞寝して時間が経つのを待つしかない」としか言えません。インターネットの困ったところは(今回の件では実際にストーキング行為もあったようですが)、そういう「やり場のない、自分でも理不尽だとわかっているけれど、とめどなく溢れてくる怒り妬み嫉み」を相手に直接ぶつけたり、世界に発信したりすることが可能になったことなんですよ。

 酔っ払いが勢いで言ったひどい言葉を、素面の相手は忘れない。
 あれは酒のせいだ、と考えようとしても、記憶は消せない。
 思うのは罪じゃない。でも、書いたら、行動したらダメだ。自分自身のためにも。
 難しいときには、薬物療法もひとつの手段(恥ずかしいことじゃないから、専門家に相談してくださいね)。
(ただ、そういう「理性」を越えてしまう人が、結局「やってしまう」のだろうな、とも思う)

 「そんなのは本物のファンじゃない」のだけれど、加害者が本物のファンじゃなくても、ひどい言葉には傷つくし、刺されれば死ぬ。
 そして、現代の「推し活」では、「生きづらさを全力で『推し』にぶつけてしまう人」を引き寄せてしまうのを回避できないし、それを見越した集金システムとなっている面もある。

 ほんと、何も応援したり、感動したり、悲しんだり、憤ったりすることなく、ただ淡々とお金を稼ぐマシーンになれたらいいな、と思うこともあるよ。そう思いながら、もう半世紀も生きてしまった。

 そうね 世界中が 他人事なら 傷つかずに 過ごせるけど

 失楽園のDoorから、ひとり。


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