いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

漫画家・芦原妃名子さんの訃報に感じる「やるせなさ」


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 このニュースをみて、夜中に思わず「えっ?」という声が出てしまいました。
 こんな形で終わってしまっては、誰も救われないし、『セクシー田中さん』の原作漫画もこれで未完になってしまった。これまでの芦原妃名子さんの作品も、「ああ、あの事件の……」という先入観から逃れられない。でも、人がこういう選択をするというのは、正しいとか間違っているとかじゃなくて、精神的に追い詰められて、「そうするしかなくなってしまった」からなのだろう、としか言いようがありません。

 僕はこの件に関しては、「こういうのはよくあることだしなあ。原作者の作品への愛着は理解できるし、テレビ番組の制作側には『どうすれば視聴者にウケるかは、自分たちの方がわかっているという矜持もあるのだろうな」と思ってい他のです。芦原さんも、ドラマのラスト2話の脚本を自分で書いたけれど、不慣れな仕事でもあり、満足するものにはできなかった、と書いておられました。

 漫画とドラマというのは、読者・視聴者の受信の仕方が同じではないし、テレビドラマであれば、「より広い範囲向け、一般ウケするものにしなければならない」とテレビ局側は考えるはずです。
 原作者には原作者の思いがあるし、制作陣には制作側の意図やプライドがある。
 内容を改変しても、視聴者に高く評価されたり、高視聴率が取れたりしていれば、お互いに我慢できたかもしれません。


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 あらためて考えてみると、元々のドラマ化での軋轢に関しては、「原作に忠実にやります」と言って権利を取っておきながら、原作者の意に反した内容にしてしまった制作側の責任が大きいのは間違いない。
 とはいえ、脚本家も「テレビのプロ」として、「こうしたほうが視聴者にウケる」と考えていたのでしょう。100%原作通りにするのは「漫画のキャラクターを人間の役者が演じる」時点で不可能だし、読者が自分のペースで読み進められる漫画と間のとりかたも制作側が決める映像作品とでは、演出にも違いが出るのは仕方がない。今回は、そういう細かい演出以前の設定やストーリーの問題、だと原作者は判断していたようだけれど。


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 僕が「えっ?」と思ったのは、亡くなられたのが芦原さんだったから、ではあるのです。
 経緯とネットでの反応を考えると、制作側、脚本家のほうが、大きなダメージを受けているようにみえていたから。
 (もちろん、脚本家が傷つけられるべき、なんて微塵も思っていない。相性が悪かった、あるいは、この作品に向いた脚本家だったらよかったのに、とは思うけれど。
 有名な脚本家だって、傑作ばかり書いているわけではないし、高視聴率を常に取れているわけでもありません。
 この脚本家は『ビブリア堂古書堂』は「うーむ」としか言いようのないものだったが、『ミステリと言う勿れ』のドラマ化は(原作ファンには言いたいこともあるだろうけれど)商業的には「成功」しているのです。


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 この『M-1はじめました。』という本のなかに、著者がM-1の企画を某テレビ局に持ち込んだときの話が出てきます。
 その局のドキュメンタリー枠での放送を検討してみるということで、売れっ子のドキュメンタリー番組の構成作家を紹介されたそうです。

 ぼくは3人にM-1グランプリの企画を話した。これは若手漫才師の漫才のガチンコ勝負の大会であること、ガチで予選を勝ち抜いてきた漫才師10組が決勝で戦う番組だと説明した。
 聴き終えた構成作家が不思議なことを言った。
「決勝に出てくる10組の中に病気の親がいるコンビはいませんか」
「決勝に誰が残るかは最後までわかりません。ましてや病気の親がいるかどうかなんてわかりません。ガチンコが売りの大会ですから」
「いや、そういう何か衝撃的なことがないと視聴率は取れませんよ。例えば、決勝に残ったコンビのひとりの母親が重い心臓の病気にかかっていて、決勝の当日、大手術をすることになる。その漫才師はM-1グランプリの会場に行くか、それとも母親の病院に行くか、悩み抜くんです。そして、悩んだ揚げ句に病院に向かう、あるいは、M-1の会場に向かうんです」
「そんな母親を持つ漫才師がいるかどうかわからないし、よしんばいたとしても、その漫才師が決勝に残れるかどうかはわかりませんよ」
「そういう漫才師を探して、決勝に残すんですよ」
 そんな当たり前のこともわからないのか、と言われているような気がした。
 この男は何を言っているのだ。皆目わからない。途中でばかばかしくなってきた。
 ガチンコの漫才の大会だと説明しているではないか。それがM-1のキモなのだ。
 病気の親を持つ漫才師を、やらせで決勝に残せというのか。そんなことをしたら漫才を復興するという目的とは全く違うものになる。


 M-1の第1回は2001年と23年も前ですし、ドキュメンタリーとテレビドラマの違いもあるでしょう。
 でも、テレビ側にとっては、「キレイゴトよりも、視聴率や話題性」であることは、変わっていないような気がします。
 あからさまなヤラセやいじめ、差別的な企画はたしかに減ってきたとは思うけれど、視聴率を取ることが正義だし、「いくら良質な番組でも、誰も視てくれないものに存在意義はない」というのは、一面の真実ではあります。

「自分が本当にやりたいことで稼げればいいけれど、それが噛み合わないときに、どうすればいいのか?」

 漫画や小説でも、創造物で食べていこうとしている人たちにとっては、同じことが言えるはず。
 
 たぶん、これまでのテレビドラマやアニメの歴史においても、原作者たちは「こんなのじゃないのに……」と嘆いてきたのではないかと思います。
 今回の『セクシー田中さん』に関しては、少なくとも、制作側が、原作者の意向を取り入れようと努力していたのはうかがわれるのです。
 それはそれで、脚本家にとっては「私の領域を侵されている」というストレスにはなっていたのでしょう。

 この話について考えれば考えるほど、SNSに自分の不満や苛立ち、悲しみをぶちまけるのは怖いな、と感じるのです。
 「このやろう!」と思っているとき、お酒を飲んで気が大きくなったり、気分が沈んでいたりするとき、誰かに「いいね」って言ってほしくなる。
 でも、誰もいないはずの川に投げた小石が、誰かに当たることだってある。
 大きな波紋になって、そんなはずじゃなかった日がいや騒動を生み出すこともある。

 傍からみると、芦原さんはむしろ、降りかかった火の粉を自らのSNSで払っただけです。
 理想をいえば、今回のドラマは「損切り」し、『セクシー田中さん』の漫画をキッチリ完結させて、あらためて、信頼できるスタッフを選んで映像化を試みることができればよかった。
 でも、大騒動になって、相手が大勢に責められていると、「自分があんなことを呟いたからこんなことになったのでは」という自責の念にとらわれてしまう人は、けっして少なくはないのです。僕も他者と争っていて長引くと「もしかして自分のほうが悪かったのでは……」との気持ちが大きくなっていきます。
 なかには、「そういう(自責の念を感じやすい)相手」を見極めて、譲らずに責め続けてくる人もいるのです。

 そして、SNSに書き込んだ時点で、本人にとっては「王様の耳はロバの耳」と洞穴に叫んだだけのつもりでも、それを拡散する人もいる。中には、もともと嫌いだった「テレビ局という権力」を叩くために利用する人もいる。

 全ての映像化作品が『逃げ恥』や『フリーレン』みたいに原作と映像化作品の幸福な関係を築ければ良いのだけれど、実際は「がっかり映像化」が多いし、成功例として挙げた2作品も、全員が満点をつけているわけではありません。

 僕はSNSそのものが悪である、とは思いません。作品の中には、SNSのおかげで良い作品が人気になったり、ファン同士が感想を言い合ったり、応援の声が原作者や製作陣を勇気づけたりするものもたくさんあります。
 面白くないものを「つまらない」と書く人がいるのも、書けない世界よりは健全だと思います。
 芦原さんがSNSに書いてしまったのも、自分に降りかかった火の粉を払うとともに、「世論」みたいなものにアピールしたい気持ちもあったはず。
 芦原さんは悪くない。こんなことになる必要性なんて、何もなかった。脚本家だって、自分に求められた(と考えていた)仕事をしただけでしょう。その一方で、脚本家側としても自分のこれからの仕事を思うと、作品への批判に反論しておきたかったのも理解はできます。自分が書いたわけではない脚本を「自分のせい」にはされたくないよね。

 作品としての結果はどうあれ、良い作品にしたくない人は、誰もいなかった。

 周りのネットの人たちが煽って、ことを大きくした、とは言えるけれど、彼らのエネルギーは、普段は平和利用されていたのです。
 原作者としての立場を守るために「状況説明」しただけのつもりが、大火事になってしまって、いろんな人が責められて、芦原さんは苦しかったと思う。

 正直、「こんなことで死んでしまうなんて、もったいないよ……」と思う。その一方で、そんな繊細さが、芦原さんのクリエイターとしての能力を支えていたのかもしれない、とも感じます。傷つきやすい人だからこそ、それを表現することができた。
 
 「炎上上等!」の人じゃないと生きづらいネット社会、というのは、なんだかとてもせつない。
 世の中には、こういう、理不尽で、いたたまれないけれど、どうしようもないこと、がある。誰も悪くないのに「私が悪いんじゃないか」と思ってしまう人が起こす悲劇が、結構ある。そんなふうにしか言えない。

 ただ、芦原さんのこの「結末」を、自分の都合がいいように利用する人たちには、注意した方が良さそうです。

 芦原妃名子さんのご冥福と、作品が今後も読まれ続けることを願っています。


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