いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

『M-1グランプリ2021』を観て、「素直に笑えなくなった自分」に気づいた。

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 もうすぐ50歳を迎えて、「ああ、終活とかも考えなくちゃいけないのかな、仕事ではもう『下支えモード』だしなあ……」なんて思っている僕にとっては、錦鯉の優勝に思わずもらい泣き笑いしてしまいました。
 錦鯉といえば、ボケの長谷川雅紀さんの強烈なキャラクターの印象が強いのですが、僕はなんだか、相方の渡辺さんのことが気になってしょうがないのです。あまりにも普通で、真面目なおじさんに見えるこの人は、心の内で何を考えているのだろう、と。
 「変なおじさん」は、世の中に数多存在するけれど、「変なおじさん」をうまく「キャラクター」として面白くできる人はそんなにいないはずです。渡辺さんって、すごい人なんだと思う。

 渡辺さんは43歳だそうですが、50歳の長谷川さんにしても、今の時代の50歳って、けっこう若々しい人も多いじゃないですか。
 今田耕司さんが「僕は紙芝居屋さんとか知らないですよ」と仰っていましたが、僕もテレビの前で「だよね!」と同意してしまいました。
 まあ、錦鯉のネタは、そんなことは百も承知で(長谷川さんだって、空き地で紙芝居に水飴、って年齢じゃないし)、やっているのだとは思うんですけどね。

 同世代として「錦鯉やった!」と嬉しくなる一方で、「たしかにいちばん『笑えた』のは錦鯉で、オズワルドの決勝のネタは技術的な凄さは伝わってきたけれれど、それゆえに「すごいな!」が先に立って、理解が追いつかないところもありました。漫才としての技術面に関しては、決勝の3組、インディアンス、錦鯉、オズワルドのなかで、錦鯉が「優勝」だったかどうか、なんてことも考えたんですよ。
 もちろん、技術コンテストじゃないし、他のコンビの審査でも「うますぎる」「技術的にはいちばん」みたいなコメントが出ていたけれど、それが点数につながらないこともありました。

 正直、錦鯉に関しては、「長谷川さんのキャラクターと年齢、そして垢抜けなさ」みたいなものが、「甲乙つけがたい3組のなかで優勝者を選ぶ」ときに有利に働いたような気もしています。どんなに面白いネタ、すごい技術も、「人柄」「キャラクター」には勝てないことがある、まあ、けっこう長い間生きていると、そういうのを痛感するときってありますよね。「正論」よりも「好感度が高い人」のほうが支持されることは多い。
 日本ハムの「ビッグボス」新庄監督をみていても、そう思うものなあ。実際に監督に就任するまでは「新庄監督なんて、『もしもボックス』の中の話だろう、監督なんて柄じゃなさそうだし」だったのが、なってみたら注目の的で、選手たちも今は支持しているようです。
 就任したばかりの新しい上司にいきなりケンカを売るような人はいないだろう、と言われればそれまでですが。

 そういう「好感度」とか「ドラマ性」みたいなものがコンテストの順位に反映されるのはどうなのか、と思うところもあるのです。
 ただ、「芸能」の世界っていうのは、良くも悪くも「何をやるか」だけで評価されるものではないのでしょう。
 同じことをやっても、やる人によって反応は異なるし、同じことを同じ人がやってもタイミングや時代で評価は変わってしまう。ずっとやり続けていれば「飽きた」と通り越して「定番」として「待ってました!」になることもある。
 個人的には、南海キャンディーズやオードリーみたいに、錦鯉も「インパクトがある準優勝」のほうが、今後はやりやすいのではないか、という気もするのですが。
 「優勝者」となると、これからは「芸」についてのハードルが上がるでしょうし。

 なんかとりとめのないことを書いていますが、「錦鯉よかったね!」なんですけどね、僕の気持ちとしては。
 でも、年齢とかドラマ性で差別化されたら、オズワルドやインディアンスはキツイよね。


 さて、今回のM-1、久しぶりにリアルタイムで全部観たのですが、最初のモグライダーの『さそり座の女』の「♪いいえ、わたしはさそり座の女」の「なぜ、『いいえ』からはじまるのか?」に着目したネタは、「ああ、うまいなあ、こういう発想ができるとブログのネタに困らないよなあ」と感心してしまいました。こういう「ちょっと引っかかるけれど、深く考えずに聞き流してしまうところ」を深掘りするというのは、簡単なようで難しい。

 ただ、どうも僕はどんどん「お笑い」に素直になれなくなっているようだ、というのも、今回のM-1を観ていて実感しました。
 ゆにばーすの「男女の友情は成立するのか?」には「こういう男女関係ネタは、ちょっと古いよなあ」と思ったし、ももの「お前は〇〇顔だろ!」というネタには、「見た目で執拗にその人を決めつけるというのは(否定的なツッコミがたくさん入っているとしても)、チー牛(いかにもチーズ牛丼を食べていそうなオタクっぽい人)人生を送ってきた僕にとっては、笑えないというか、もうこういうのやめようよ、という感じだったのです。
 お笑いって、基本的に「変な人や変な行為で笑わせる」というものが多くて、「だから政治風刺ネタが至高」だとは全く思わないのだけど(そもそも僕はそういうので笑えない)、面白いつまらない以前に「これで笑っても良いのだろうか?」みたいな考えにとりつかれてしまうことが増えました。
 錦鯉だって、長谷川さんという「変なおじさん」のキャラクターがいちばんの肝じゃないですか。
 正直、「ネタ」と「いじめ」「いじり」の境界って、「本人たちが周囲を笑わせてやる、という自覚をもってやっているか」だけなのではないか、という気もします。

 「いや~俺達ただ仲良くじゃれあっているだけですから、なあ、そうだろお前!」

 みたいな昔の不快な思い出がふとよみがえってくることもあるんですよね。
 まあでも、そんな「誰かの不幸な記憶を刺激するかもしれない」なんてことを言い始めたら、誰も外に向けて発信なんてできないよね。
 
 ただ、僕自身が、どんどん「ポリコレセンサーがいちいち発動する脳」になっていることを自覚させられるM-1ではありました。実際、芸人さんたちにとっても、「舞台の上でやったファン向けのネタがネットで拡散され、想定外のところから批判される」という可能性を考えなくてはならない時代ですよね。

 今回、いちばん印象に残ったのは、真空ジェシカだったんですよ。
ミッキーマウスって、ディズニーランドのなかにたくさんいるけど、『ミッキーは世界にひとり』っていう設定になっているから、同時に姿を見せないようにしているんだよな」
 うわー!それテレビで言っちゃいけないやつなのでは……学校のプールに描かれたディズニーキャラクターも抗議されたっていう都市伝説(?)があるし……この人たち、いや、M-1という番組にとってマズイのでは……と観ている側がヒヤヒヤしていたら、相方が「いや、そんなことはありませんっ!ミッキーマウスは世界にひとりだけ!」というフォローをしていました。
 僕は「安心」して笑ってしまいました。

 ああ、こういうのって、いかにも現代的だなあ、と感じたのです。
 政治的なものも含めて、「タブーに踏み込むネタ」みたいなのは、もはや古い、あるいは芸人側の自己主張ばかりが目立って、ウケなくなってしまった。
 「タブーに対して、その存在の境界から、『タブーに踏み込めない人やメディア』を指さして冷笑する」のが「2021年」なのでしょう。そして、その指先は、「それを大きな力に消されないようにネタにする自分自身」にも向けられている。
 
 「ポリコレ過敏症」に罹患している僕には、もうお笑いは楽しめないのではないか、と思う一方で、芸人さんたちも、確実に「その先」を見据えているのです。
 いや、こんなことを書きながらも、笑ったんですけどね、ゆにばーすも、もも、も。で、「これで笑っていて大丈夫なのか僕は」なんて思ったことを記録しておこうと、こんな散らかった話を書きとめておきました。


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