いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

責められた側の「心の耐性」によって量刑が決まる危うさについて


mainichi.jp


 なんと言っていいのか、なにも言うべきではないのか。
 僕の地元に近い老舗旅館ということもあって、このニュースには半ば驚き、半ば呆れていたのだが、こんな結果になってしまった。
 おそらく、新型コロナ禍でお客さんは激減していて、経営も厳しかったのだろうと思う。
 だが、レジオネラ菌に対してあまりにも無知だし(レジオネラというのは、感染して重症化すると命にかかわることも十分にあるのだ。もう受けたのは27年くらい前になるけれど、医師国家試験の問題に何度か出ていた記憶がある)、経営の都合ばかり考えて、客の身体を無視していたというのは、あまりにもひどすぎる。そりゃ責められるよ、いくら「無知」であったがゆえでも。
 自分の家の風呂の湯が年2回しか入れ替えられないとしたら、入らないだろそんなの。
 SNSなどで見た情報でしかないのだけれど、他の旅館の関係者の「うちはちゃんと清掃もお湯の入れ替えもきちんとしているのに、旅館のお風呂全体の信頼度が下がって迷惑している」という声が多かった。

 僕は以前に書いたように、『はてなブックマーク』で顔の見えない他者を罵倒するような書き込みは大嫌いだ。
 でも、僕自身自分の感情のコントロール、うまく折り合いをつけられない激情というか、突発的な怒りみたいなものと付き合うのは本当に難しいし、それは、年齢を重ねるとともに、さらに難易度が上がってきている。
 何度も書いているけれど、若い頃は「年をとれば心も穏やかになっていくはず」だと思っていたのだが、順調に好々爺になっていく人はごく一部だし、加齢とともに、認知症が入り混じったような、よくわからない頑固さや感情の揺れを示す人が多い。逆に、
 若い頃は「ここで我慢しないと将来のマイナスになる」というセルフコントロールができていたような気がする。老いらくの恋、というのはこういうものなのか。現状では恋には縁がないが。
 ニュースで他者のひどい行いに憤って、あるいは、他のこと、自分自身のプライベートでイライラしているときに、こういう不届な人間の行為が「はけ口」のようになって、強く責めるような書き込みや電話での抗議などにつながってしまうこともあるのだろう。


anond.hatelabo.jp


 ああ、僕が大谷翔平選手や藤井王将なら、こんなニュースに心が動いても、自分のことに集中して、わざわざ書き込みなんてしないだろうに。
(でもまあ、それも「わからない」のだよね。しないと思うけど、彼らには彼らの鬱屈もあるのだろう。僕とはレベルが違うとしても)

 
 僕自身だって、ブックマークコメントに書くことがなくても、心の中で憤っていたり(それはまあ、許される範疇だとは思う)、ブログのネタにしてしまうことがある。

fujipon.hatenablog.com


 もしこれで、批判した人が自ら命を絶つようなことがあれば、平常心ではいられない。

 ……というのはウソだ、たぶん。
 もちろん、死んで詫びろ、などとは思ってはいないし、苦い気分にはなるが、そういう結果になったとしても、「うーむ」と数秒考え込んで、読書を再開するか、YouTubeの動画でも観るか、といったところだろう。


fujipon.hatenablog.com


 ネットリンチ的なもので、加害者が責められるのは、だいたい、被害者が決定的な行動(自ら命を絶つなど)を起こすことがきっかけになる。
 
 責められた側の「心の耐性」によって責めた側の量刑が決まる、なんていうのは、ものすごく危うい感じがするのだ。
 そう言いはじめれば、「傷害と傷害致死、殺人だって、『結果』の違い」だと言えなくもないのだけれど。

 名前を挙げて申し訳ないが、イケダハヤトさんやはあちゅうさんは「バッシングに耐えている(あるいは、現時点では注目されることのトレードオフとして割り切れている)」から、強い言葉で責めている人たちは「罪人」にならずに済んでいるわけだ(僕も彼らを散々ネタにしています)。


fujipon.hatenadiary.com


 ふだん接している身近な人であれば、ある程度は「これ以上は責めたら危ないかな」というのもわかりそうなものだが(実際はよくわからないことも多い)、ネットでは、相手が「本当はそんなにメンタルが強くない」とか、「かなり精神的に追い詰められている」なんていうのは判断が難しいのだ。叩かれている人の「HP(ヒットポイント)」など表示されないし、その人が望んで「叩かれる役」を演じているのか、そうでないのかはそう簡単に見分けがつくものではない。そんなことが視聴者にすぐわかってしまうようでは、リアリティショーなんて成り立たない(成り立つ必要なんてない、という意見もあるだろう)。

 冒頭の事件については、正直なところ、「そりゃ責められても仕方ないだろう」と僕は思っているし、お客さんがレジオネラで命を落とすようなことがなかったのは幸運だった。「自ら命を絶つほどのことではない」と建前としては言いたいけれど、あれだけ批判されて精神的にも追い詰められていたら、こういう選択をすることは十分考えられた。「そこまでする必要はない」としても、「じゃあ、どこまで、どんな形で『謝罪』すれば許されるのか?」という答えを出すのは難しい。大体は、時間が経てば直接の被害者以外は、みんな忘れてしまうのだが。

 相手が、批判や非難の声に、どのくらいの耐性があるかなんて外部からはわからないし、その結末によって「許される批判の範疇」だったかどうかが決まる。
 相手の感情や行動はこちらから完全にコントロールすることは不可能なのだから、自分を守るためには、他人と極力関わらないのが最良なのだとは思うけれど、前述したように、批判する側だって、精神的に追い詰められていたり、何かで自分の存在意義を世界にアピールしたかったりするのだ。
 だからといって、「年に2回しか風呂の水を入れ替えない旅館の責任者を穏やかに諭す」なんていうのは、どれだけ優しい世界なんだろう。それで全てがうまくいくとも思えないのだ。

 正直、インターネットで、というか、インターネット限定ではなく、人と関わることが嫌になってきている。
 いや、昔から苦手だったのが、さらに辛くなってきている。
 ネットって、何かを責めたり、愚痴を言ったりしないと、書けることが減ってしまうし、PV(ページビュー)だって稼ぎにくいんだよ。
 何をやっても読まれない、という手詰まりな感じと、それでも読まれたい、という往生際の悪さと。
 もう、ネットとリアルの「境界」なんて、極めて曖昧というか、「無い」と考えておいたほうがいい世界だ。
 
 期待するのも、されるのも、責めるのも、責められるのも、めんどくさくなっている。
 ただひたすら給料日を待って、子どもたちの学費を稼ぎ、レトロゲームを買い集めて積むくらいしか、やることがない。
 でも、ただそれだけ時間が過ぎていくのも怖い。

 ネットでは、他者を簡単に批判できてしまう。
 そして、批判する側も、される側も、お互いのステータス画面を見ることはできない。

 僕には、もうどうすればいいのか、よくわからない。
 
 こんな文章を書かなければいいことだけは、確かだな。


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