いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

ぼくたちの好きな「炎上」


anond.hatelabo.jp


 僕は炎上が嫌いだ。
 ネットで書いていると、こちら側にとっては、なんだか訳のわからない理由で否定されたり、憎まれたりすることがけっこうある。嫌なら読むな、と言いたいところだが、嫌なものをつい見てしまってやっぱりムカつく、ということは僕自身にもある。
 安倍元総理の暗殺時の犯人像から、統一教会問題が再認識されたことやテレビドラマの原作改変など、炎上は悲劇を伴いながらも、世の中を変える、あるいは改善するきっかけになっている、とも言える。
 ジャニーズの件だって、BBCの力は大きかったとはいえ、ネットでの個人の意見の集積がなければ、「もう亡くなった人がやった、昔の話だし」ということで逃げ切ろうとしていたかもしれない。松本人志さんが以前の事件のときに「松本、動きます」と発信したときには、多くの人が大喝采したのに、今回の「性上納疑惑」では大バッシングされており、人の心の移ろいやすさ、みたいなものも感じる。

 思うのは、世間というのは、ネットでの風向きというのは、調子に乗っている人を引きずりおろす方に向かいやすく、一度方向性が定まってしまうと、異論を徹底的に排除しがちだ、ということだ。


bunshun.jp
toyokeizai.net


 世論はヒカキンさん寄りではあるし、男女関係のもつれやお互いの認識のズレなんていうのは珍しい話じゃないし、こういうことを記事にしなくてもいいだろう、とは思う。
 でも、イベントに参加してアプローチしてきたファンの一人にDMを送って、みたいな経緯を読むと、「ああ、ヒカキンも、ファンに手を出す程度の普通の人間なんだな」と「聖人イメージ」との違いはあったし、かなり「都合のいい女」みたいな扱いをしていたようにも感じる。まあ、恋愛なんて、そういうのでも、お互いにうまくいっているようなときには「そんな関係でもいい」のかもしれないが。

 好感度が高い人は、多少のことでは叩かれないし、もともとヘイトを集めていれば、ちょっとしたことでも炎上しやすいのは事実だろう。
 とはいえ、今の世の中では、炎上によって注目やPV(ページビュー)を集めることで稼いでいる人もいるし、これだけネットユーザーがいて、炎上も歴史を重ねてくると、やろうと思ってもそう簡単に炎上できるようなものではない。


 「いい話」を拡散しようとすると、このエピソードが「赤ちゃんをそんな危険な目に遭わせるなんて!」とX(Twitter)で批判が集まったような「想定外の大バッシング」が起こることもあるのだが。

www.kts-tv.co.jp

 僕自身の考えとしては、SNSで監視社会!という批判的な感情を以前は持っていたけれど、現在は、スマホSNS社会になったおかげで、「知らない人たちしかいない『公共の場所』でも、悪質な言動をすれば、録画・録音され、拡散されてしまうかもしれない」という抑止力のほうが大きいのではないか、社会を(どちらかといえば)良い方向に導いているのではないか、と考えている。

 なんでもセクハラ、パワハラにされてしまう、という息苦しい感じがある人も少なくないかもしれないが、僕は偉い人のそういう行為を「黙認」しなければならない社会よりも、ずっとマシになったと感じている。
 それと同時に、僕自身も、無意識に、あるいは、無意識なふりをして、今までにそういうことをやってきたということを思い返さずにもいられない。
 
 あの時代に、僕が松本人志さんのような立場だったら、「さあどうぞ」と後輩に言われて、「こんなことは人の道に外れるからやっちゃダメだ」と拒絶できただろうか?
 だからといって、「昔のことだから」と無罪にするわけにもいかない。
 僕はこれまで、あれと似たようなことをしている権力者の噂を何人分も聞いてきた。もちろん、現場を見たわけではないし、松本さんのような「大物」ではないけれど。
 逆にいえば、あれは数十年前には、お笑い界の超大物にだけ行われていた接待ではなく、田舎の、ちょっとした権力者にも同じようなことがされていたのだ。


 話が逸れた(いつもだけど)。

 
 世間の、他人の評価なんて、世の中の風向きが変われば、180度変わるものなのです。


fujipon.hatenadiary.com

 この企画で、広島、長崎、沖縄、ハワイなどを訪ね、綾瀬はるかさんは関係者にインタビューをしていきます。
 真珠湾攻撃で亡くなったパイロットの家に嫁いだ女性は、こんな話をしています。

 真珠湾攻撃から7ヵ月後、1942年(昭和17年)7月8日。飛行兵戦死者のうち49人が、新聞で大々的に報じられました。
 その一人だった飯田房太さんの地元では、記念碑を建てる計画が持ち上がり、伝記も編纂されました。群馬県に住んでいた喜久代さんは、新聞で感銘を受け、伝記を手に入れ、手紙をしたためました。


飯田「女学生みなそうですよ、小学校、女学校、中学生もね、みな感激してね。そういう手紙を書く人が多かったですよ。英雄ですよ、そりゃ。軍神扱いでね」


 あこがれの飯田家に嫁ぎましたが、8月15日の終戦で状況は一転します。


飯田「それまでは家の前通ってね、みんな小学生も最敬礼してね、それから学校に行ったんですよ。それが8月15日になったらクルッとひっくり返って、もう誰も来なくなったの。真珠湾攻撃なんかに行ったから負けたんだということでね。あんなこと始めたからアメリカに負けたんだと……」


 飯田房太さんの母親は、戦後、真珠湾について何も語らなかったといいます。

 少なくとも、今から80年前くらいから、世間というのは、状況にあっさり流されて豹変し、自分のこれまでの言動に責任を取る気がない人たちによって作られてきたのです。
 もちろん、それが「庶民の生きる知恵」である、という考え方もあるのでしょうけど。


fujipon.hatenablog.com

『あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン』(住吉雅美著/講談社現代新書)という本で、こんな事例が紹介されてい増した。

 1970年代半ばのことである。ある新興住宅地に、家族ぐるみで仲のよい二家族があった。A夫妻とその子をA児、B夫妻とその子をB児としておこう。
 A児とB児も仲がよく、ある日、A児は大掃除中のB家でB児と遊んでいた。そこにA母が訪れ、A児を買い物に連れていこうとしたが、A児は遊んでいたいから行かないと答え、B父も我々が見ているからと、A児の預かりを快く引き受けた。両家ではすでに何度かお互いの子を預けあっていたこともあり、A母も気軽に子を預けて出かけた。

 二人の子供はB家で遊んでいたが、大掃除の合間に様子を見ていたB母に子供たちは「裏の空き地に行きたい」と求めた。B母は一瞬迷ったが、これまでも子供たちだけで遊ばせて問題がなかったため、二人を送り出した。
 しばらくするとB児がひとりで戻り、空き地の溜池にA児が入ったきり戻ってこない旨を親に告げた。B父は慌てて近隣の人たちと溜池に入り探索したところ、A児は池底に沈んでおり、救急車で運ばれたがすでに亡くなっていた。

 買い物から戻ってきたA夫妻は、B家に預けていた間に我が子が事故死したことを知り嘆き悲しみ、B夫妻を激しく責めた。しかし、B夫妻は謝罪しなかった。そこでA夫妻は、仲のよかったB夫妻を相手取って訴訟を起こした。正確には危険な溜池を放置していたことについての行政指導及び砂利採集業者の責任と並んで、B夫妻の準委任契約不履行と不法行為の責任を問う訴訟を起こしたのである。一審判決は1983年に出たが、それはB夫妻の不法行為責任のみを認めるものであった。

 この判決が実名で報道された後、勝訴したA夫妻を、想像もつかなかった酷い仕打ちが襲った。事件と裁判を知った日本中の人々からA夫妻に対する激しい攻撃が行われたのである。ひっきりなしにかかってくる匿名電話や送り込まれる多数の手紙、それらは「好意で子を預かってくれた隣人相手に訴訟を起こすとは、あなたはそれでも人間か!」とか、損害賠償請求が認められたことについて「死んだ子を金もうけの手段にするのか」などといった理不尽で無茶苦茶な個人攻撃、人格否定的な内容のものばかりであった。
 A夫妻はこれらの激しく執拗な嫌がらせに苦しめられたあげく、訴えを取り下げ、しかも日本中に知られた住所にいられなくなり引っ越し、さらには失職する羽目にまで陥ったのである。

 しかし悲劇はここで終わりではない。A夫妻が攻撃を受けていた間、世間の多くはB夫妻に同情していたのが、A夫妻が訴えを取り下げると、今度は一転してB夫妻叩きが始まったのである。このあたりの流れは昨今のSNSでのいわゆる「炎上」に近いものがあるが、いずれにせよこの事故と訴訟をきっかけに、それまで仲良く助け合っていた二家族の関係がズタズタに引き裂かれ、かつそれぞれの当事者たちの人生までもが狂わされてしまったことはたしかである。

 この事件は通称「隣人訴訟事件」と呼ばれているそうです。

 
 人は、間違っているから批判する、とは限らない。
 何か自分自身が満たされなかったり、衝動的な怒りが生じたりしたときに、目に入った「叩けるもの、みんなが悪く言っているもの」を燃やす、燃やし尽くす。
 こういう人間の「本性」みたいなものは、少なくとも80年前、太平洋戦争後くらいから、大きな変わりはないのです。
 ネットやSNSの存在が「炎上」をもたらした、というよりは、より少ない労力で、より自責の念が乏しいやり方で、誰かを「炎上」させやすくなった、というだけのことです。

 「やりかたが簡単になった」というのは、炎上させる側にとっても「自分も油断していたら燃やされるかもしれない」という危機意識を喚起させられることになりました。

 でもなあ、「テラ豚丼」とか「床に落ちた食材の再使用」なんて、僕は内心「きっとけっこうやっている人はいるんだろうな」と覚悟はしています。学生時代、飲食店でアルバイトをしている知人から、その手の「不埒な行為」は噂として聞いていましたし。頼むから、知ると食べたくなくなるから、表には出さないでくれ、とは思いますが。
 実際のところ、あれらの「炎上案件」で、外食産業の衛生観念は、かなり改善されたのではないか、という気もするのです。
 僕も以前は「他人が手で直接握ったおにぎりなんて食べられない」という人の話を「潔癖症だな」と聞いていたのですが、僕自身も、今はちょっと抵抗を感じるようになってきました。

 同じように、社会はどんどんクリーンになっていくけれど、人々が求める「清浄さ」もどんどんレベルアップしていき、完璧じゃないと責められる、ようになっていく。


 自分たちが、常に「炎上させる側」だと信じることができるならば、今の社会は、けっして悪くはない、というか、弱者や個人の声は、まだ拾われる可能性が高くなっている。
 その一方で、「口がうまいやつ、言葉が巧みなやつが、より有利になった。
 あるいは、失うものがない「無敵の人」が強くなった、とも言えます。

 狙って炎上する人たちにもみんな飽きてきていて、炎上することも簡単ではない時代、なんですけどね。
 たぶん、SNSをやらず、ネットもAmazonとメールくらいしか使わなければ、ほとんどの人生は炎上とは無縁です。
 でも、「他者からの無関心」は、こんな時代にはとてもつらい。

 芦原妃名子さんがSNSに書かれた文章のなかに「ブログでは読んでもらえないから」という一節があったそうです。
 ブログでは読まれない。SNSでは読まれすぎる。
 自分が伝えたいことを、伝えたい人だけに伝えるのは、本当に難しい。
 それは、ネット社会に限った話ではないけれど。


fujipon.hatenadiary.com

アクセスカウンター