いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

舞台『宝飾時計』感想(2023年2月11日・鳥栖市民文化会館)と、「自分のために生きる」ことに疲れてきた話


建国記念日に、舞台『宝飾時計』を観てきました。
キャストは、高畑充希さん、成田凌さん、小池栄子さん、伊藤万理華さん、池津祥子さん、後藤剛範さん、小日向星一さん、八十田勇一さんの8名。
大掛かりな場面転換やCGを使った演出などもなく(楽器の生演奏は印象的でしたが)、8人の役者さんの息遣いで魅せる、そんな舞台だったと思います。
作・演出の根本宗子さんは舞台では有名な方なのですが、僕は根本さんの舞台を観るのははじめてでした。

コロナ禍で3年間くらい、舞台やコンサートは中止、延期、入場制限などが続いていますし、僕も仕事上、わざわざ人混みのなかに出かけていって、感染してしまった、というのは申し訳ないな、というのもあったのです。
それでも、昨年の後半くらいから、なんだかもう無性に「何かを観たい、ナマのアートに触れたい!」という気持ちになってしまって、演劇や落語などのチケットをネットで取りまくってしまいました。この『宝飾時計』、正直なところ、「すごくこれを観たい!」という感じではなかったんですよね。行きやすい会場で、高畑充希さんや小池栄子さんなどの有名どころが出演しているし、日程的にも祝日の昼公演なら行けそうだから、というくらいの動機でした。高畑さんの大ファンというわけでもなく、ああ、堺雅人さんと妖怪が出てくる映画に出ているのをみて、なんかあんまり華がないな(あの作品に問題があったような気もしますが)、と思った記憶があるくらいです。

ああ、だいぶ先だと思っていたら、もう公演日になったんだ……なんかめんどくさいな、家で『ファイアーエムブレム』の続きでもやろうかな、でもチケット取っちゃったしな……


horipro-stage.jp

あらすじ
主人公のゆりか(高畑充希)は子役から女優として活躍しているが、驚くほど業界に染まれていない。30歳を迎え、同級生たちが次々と結婚し子供を産んでいく中、「私は何のためにこんなことをやっているのだろう」と自分の存在の意味を見つけられずにいた。そんな彼女の心を日々支えているのはマネージャーの大小路(成田凌)。ある日ゆりかのもとに「21年前にやったミュージカルの記念公演のカーテンコールで、テーマ曲を歌ってくれないか?」という依頼が飛び込んでくる。それは彼女の原点となった舞台だった。仕事を引き受けたゆりかは現場で、当時一緒にトリプルキャストとして主演を務めていた真理恵(小池栄子)と杏香(伊藤万理華)と再会する。自分の人生を肯定したい3人は、他者を否定することでなんとか自分を保っていた。その会話は21年前も今も変わらない。
過去と現在を行き来しながらゆりかは自分の人生を振り返り、孤独に押しつぶされそうになる。日々増える無力感の中、ゆりかは自分の人生の肯定の仕方を考え始め・・・。


 休憩時間込みで2時間半くらいの舞台だったのですが、「ああ、舞台らしい舞台だな」というのが率直な感想でした。
 役者さんたちはみんな熱量が伝わる演技をみせてくれたのですが、物語としては、なんだか狐につままれたよう、というか、結局、何が言いたいかよくわからない、というか、どこまでは事実で、どこからが妄想なのかわからなかったのです。
 謎解きがはじまったかと思うと、さらになんだかよくわからなくなる、という展開で、やたらとモヤモヤしてしまったのを、高畑充希さんのすごい歌唱力と存在感で全部ふっとばして、「なんかいいもの観たなあ」という気分にさせてくれた、という感じです。

 小説や映画と比べて、「目の前で人が演技をしていて、こちらの反応が相手にも伝わっているという感覚」は、舞台独特ですよね。
 これ、同じ内容を映画で観たら、「投げっぱなしにされて、スッキリしない話だなあ……」で終わっていたかもしれません。
 生歌とか生演奏の「音圧」みたいなものって、どんなによくできた音楽映画でも伝わってこないのだよなあ。

 僕なりに、「結局、人間っていうのは、どんな人生でも『その人は、そういうふうにしか生きられなかった』ということなのかなあ」なんて考えながら帰ってきたのです。
 30年前に同じものを観たら、「なんでそこでお互いにちゃんと話をして新しい関係を築こうとしなかったんだよ弱虫」みたいな感想になったのかもしれませんが、今の僕には、その「どうしようもなかったこと」を抱えたまま生きていたら、いつのまにか年を重ねてしまった、というのがよくわかる。わからないほうがよかったのかもしれないけどさ。


 立川談志さんのこんな話も思い出しました。

fujipon.hatenadiary.com

 立川談春さんが中学時代に学校行事で同級生たちと寄席に行った際、談志師匠はこんなことを云っていたそうです。

 落語はね、この(赤穂藩の四十七士以外の)逃げちゃった奴等が主人公なんだ。人間は寝ちゃいけない状況でも、眠きゃ寝る。酒を飲んじゃいけないと、わかっていてもついつい飲んじゃう。夏休みの宿題は計画的にやった方があとで楽だとわかっていても、そうはいかない、八月末になって家族中が慌てだす。それを認めてやるのが落語だ。客席にいる周りの大人をよく見てみろ。昼間からこんなところで油を売ってるなんてロクなもんじゃねェヨ。でもな努力して皆偉くなるんなら誰も苦労はしない。努力したけど偉くならないから寄席に来てるんだ。『落語とは人間の業の肯定である』。よく覚えときな。教師なんてほとんど馬鹿なんだから、こんなことは教えねェだろうう。嫌なことがあったら、たまには落語を聴きに来いや。あんまり聴きすぎると無気力な大人になっちまうからそれも気をつけな。

 まさにこの「頭ではわかっていても、『正しいこと』ができない人間の業」を体現しているのが、落語家・立川談志であり、この『宝飾時計』の主人公・ゆりかや杏香だったのではないかな、と。

 小説や映画だったら、それなりにスッキリする結末やドラマチックな展開が求められると思うのです。
 でも、その中途半端さをナマで人が演じていることにより、「人間って、わかっていてもどうしようもないことってあるよなあ、しょうがないのかなあ」という気持ちに僕はなってしまいます。
 「しょうがないよね」という「結論」ではなく、「しょうがないのかなあ」という「自問」。そして、答えはない。

 ただ、中島らもさんが、劇団『リリパット・アーミー』で、「とにかく上演中はお客さんを笑わせて、終わったら、『なんで笑っていたのかまったく思い出せない』ような舞台」をつくりたい、と言っていたのを思い出しもしたのです。演劇は小難しくなりすぎる。


 それにしても、高畑充希さん、歌が上手い、上手すぎてびっくりしました。息をのんで聴き入ってしまった。
 椎名林檎さんがつくった『青春の続き』という曲を歌う場面があるのですが、なぜここでいきなり歌?という感じだったのに(ミュージカルのように、ずっと歌が入る舞台ではないのです)、高畑さんの歌の素晴らしさには脱帽です。なんかストーリーはよくわからないし、納得できないところもあったけれど、高畑さんのこの歌が聴けたから満足!家に帰って、すぐにiTunesでこの曲をダウンロードしたくらいのインパクトがありました。ああ、やっぱりすごいんだな、人気俳優って。終演後にちょっとためらいながらもお客さんが差し出した花束に近づいて受け取っていた姿に、キュンとしました。というか、キュンとしました、なんて僕はこれまでの人生で使ったことなかったかもしれない。

 伊藤万理華さんが元乃木坂46というのはあとで調べて知ったのですが、小池栄子さんが舞台にいることによる安心感もすごかった。
 小池さんは、役でも「3人ローテーションで『宝飾時計』を演じていたなかで『無難』だった」といじられる場面があったのでが、観客として、「小池さんが出ている舞台は、まあ、そんなにひどいことにはならないだろう」という感触があったんですよ。
 
 そんな小池さんが演じていた真理恵が、作中で、こんなことを言うのです。

「年を取ると、自分のために生きるのがつらくなってくるんだよね」って。

 真理恵は、バラエティ番組で重宝されるママタレントとして「辻ちゃんの次くらい」のポジションで芸能界を生き抜いているのです。

 このセリフは、僕にとっては、すごく「刺さる」ものでした。
 僕自身、40代、50代と「自分はこれで良かったのか?結局何もできていないじゃないか」、そして、「今からでも、何かできることはないのか」と考えてしまうことが多かったのです。
 仕事の面では、40代半ばで自分の能力とモチベーションの限界をようやく認めることができて(正直、30代前半くらいには、この世界で僕は給料泥棒以上にはなれそうもない、と気づいてはいたんです)、少しラクにはなりましたが、でも、「一度きりの人生、これで良かったのかなあ。もっと上手くやれたんじゃないかなあ」なんていう感情が、心の底に沈殿していました。いや、いまも積もっています。

 でも、そんななかで、とりあえず子どもたちのために稼ごう、というのは、僕にとっての生きる動力にはなっていたのです。
 
 最近、思うんですよ。
 「いくつになっても、人は何かができる」「他人のためじゃなくて、自分のために生きよう」というのは、ポジティブな発想だと思われているだけに、かえって残酷なところがあるのでは、と。
 「成長」とか「自己実現」、「いつまでも若い身体、心のままでいること」って、良いことではあるのかもしれないけれど、ずっとそれを求めることで、人は幸せになれるのだろうか。

 もう80代後半とか90歳を過ぎているような高齢者が大腿骨を骨折して、入院してこられます。
 家族のなかには「前はあんなに元気だったんだから、リハビリで元のようになるはず」「機能が回復しないのは、(本人やスタッフの)努力が足りないから」と責め立ててくる人もいるのです。
 でも、客観的にみると、本人はもう厳しいリハビリに耐える気力・体力はないし、痛みも出てくる。若い人が事故で一時的に機能を失ったのであれば、リハビリにも劇的な効果が期待できるかもしれないけれど、「老衰」がベースにあると、「元通り」になるのは至難です。
 なるべく痛みが出ないように、リハビリでも負担になりすぎないように、今できることを大事にして苦痛を軽減しながら残りの人生を過ごす、というのが現実的かつ、本人にとってはもっとも幸福に近いのではないか、と僕は考えてしまいます。

 高齢になっても、仕事だ新しい趣味だ恋愛だ、と、条件がどんどん悪化していくなかで足掻くよりも、「孫の成長を見守るのが幸せ」「旧友と思い出話に花を咲かせながら日々を過ごす」という、僕が子どもだった半世紀前の「年寄りなりの幸福観」に従えた時代のほうが、大部分の人にとっては、生きやすかったのではなかろうか。
 いつまでも「自分の幸せを追い求める」よりも、「周りが幸せになれるのをサポートするのが自分の役割であり、生きがい」だと思えるようになれば、そういう生き方があらためて肯定されるべきではないのか。
 僕は最近、「大人」の条件を「自分の役割として、『送りバント』をきちんと決められる人」だと思うようになりました。
 いや、正確には「思うようにしたい」です。

 ふつうの人間が「年を重ねても自分のために生きることが許される時代」というのは、人類の歴史上稀有であり、幸運なことなのはわかるのだけれど。
 そうは言っても、経済的な問題や人間関係などがあって、「孫を温かく見守るだけでは食べていけない」のが今の高齢者の現実ではあるのだけれど。

 なんだかもう、『宝飾時計』の感想からどんどん話が外れていっているのですが、こういうことを考えるきっかけになるのも「答えがない舞台」の醍醐味ではありますね。

 高畑充希さんの『青春の続き』、ぜひ聴いてみてください(1分くらいの無料サンプルもあります)。

fujipon.hatenablog.com

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