いつか電池がきれるまで

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NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』 第1回「大いなる小競り合い」感想

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 『鎌倉殿の13人』 第1回を観ました。

 「首チョンパ」って、本当に久しぶりに聞いたなあ。40年ぶりくらいではなかろうか。
 あの時代にそんな言葉があったのか?みたいなところにこだわりすぎないのが三谷大河の良いところでもあり、気になるところでもあります。ただし、源頼朝の親族として活躍する前の北条家がどんな生活をしていたか、なんていうのは史料も乏しいし、ある程度想像で書かざるをえないのも確かでしょう。
 その一方で、「東国武士の総帥」として、貴族的だった平家とは対照的なイメージを持たれがちな源頼朝は、坂東武者たちにとっては「流罪になる前に都で官位を貰っていた貴人」だったという描き方もされており、三谷幸喜さんという人は、かなり緻密に史料にあたって、活かすところは活かしているんですよね。


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 『真田丸』以来の三谷幸喜さん脚本の大河ドラマということで、けっこう楽しみにしていたんですよね。
 公式サイトには「三谷幸喜が贈る予測不能エンターテインメント」と書かれているのですが、ある意味、ここまで「エンターテインメント」に振り切った大河ドラマというのも珍しい気がします。
 ここ数年の大河ドラマは、世相を反映したものもありましたし、新型コロナが撮影に影響してもいましたし。

 大泉洋さんが演じる源頼朝はどうなるんだ?と思っていたのですが、予想以上に大泉さんの天性の明るさを抑えた演技でしたし、北条時政も政子も宗時もけっこう自由奔放に行動していて、主役であるはずの北条義時は、終始「状況に振り回される『受け』の立場」になっているようにみえます。小栗旬さん、こういう飄々とした感じで、流されているようで、実際には状況が動く「要」になっている人を演じるのが上手いんだよなあ。


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 この映画でも、良い仕事をしていたものなあ……
 と思い返していたら、『罪の声』でのバディは星野源さんだったんですよね。
 新垣結衣さんが義時の憧れの人だったのに、いつのまにか頼朝と子どもまで成していた、というのを聞いて落胆するシーンに、「ガッキー結婚!」にショックを受けた自分を思いだしました。

 このドラマって、第1回だけ観た感想としては、『新選組!』『真田丸』という過去の作品に比べて、これまでのテレビドラマよりも、舞台での三谷幸喜作品寄りの印象を受けました。
 登場人物が、突然違った一面、我儘なところを見せるんですよね。
 三谷さんは、「この人はこういう人!」という定型的なイメージに頼らずに「人間にはいろんな面がある」ということを描くのが本当に上手い。
 幼い息子を殺された頼朝が、義時の前では「これも運命だったのだろう」と悟ったような表情をみせていたのに、その後、憤怒の表情で、仇を殺せ、と命じる場面なんて、「ああ、人間の本当の『怒り』って、こういうものだよなあ」となんだか納得してしまいました。
 「あざなどないわ!」も「ああ、ドラマのなかで、歴史上の人物が一芝居打っている、三谷幸喜ワールド!」って感じでした。
 頼朝の子どもが「始末」されたシーンの描き方なんて、「ナレ死」ではなく、「そのもの」を直接見せない、というのが、なんだかすごく怖かった。

 歴史ドラマというのは、架空ルートを描くものでないかぎり、「あらかじめネタバレしている」ものなんですよね。
 信長が本能寺で死ぬことや関ケ原で家康が勝つことは、日本で生活しているほとんどの人が知っています。
 新選組の運命も真田信繁(幸村)の奮戦の結末も承知のうえで、みんな大河ドラマを見ていたはずです。

 ところが、この『鎌倉殿の13人』は、比較的マイナーな時代を採り上げている、ということで、「予測不能のエンターテインメント」になっている、ともいえるのです。
 僕は正直、「北条義時関連本」をいくつか読んだおかげで、このドラマの設定を比較的スムースに理解できたり、三谷さんが時代考証をしっかりやっていることもわかったり、とメリットを感じている一方で、ドラマとしては、「鎌倉殿の13人」の「その後の運命」を知らないまま、1年間このドラマを観たら、誰がどうなるのかけっこう楽しめたのではないか、と残念でもあるのです。


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 長年朝日新聞に連載されているこのエッセイで、三谷幸喜さんはこう書いておられます。

 最近では完全オリジナルの現代劇を書くと、もはや居心地の悪さを感じるようになった。純度100%の、僕の頭の中で生まれた作品を発表することが、自分のレントゲン写真を世間に公表するのと同じくらい、どうにも照れくさいのである。
 主人公の名前ひとつとっても、オリジナルであるからには、すべて僕が考えたわけで、それがもう恥ずかしい。例えば「田中幸子」という名前の女性を登場させたとする。そこには「田中幸子」でなければならない理由はなく、僕がなんとなくイメージで付けたに過ぎないのだが、「なにゆえ田中幸子」「どこから田中幸子」「どの面下げて田中幸子」という声がどこからか聞こえてきそうでならない。
 実際は、そんな風に考える人はまずいないと思うが、まさに実在の人物の話を書き続けてきた弊害。そんな事情もあって、近作の「不信」では、登場人物には名前を付けなかった。ト書きでは男1、女1、男2、女2となっている。そして「子供の事情」に出てくる小学生たちは、本名ではなく「あだ名」という記号で呼び合った。実在の人物の場合は気が楽だ。前野良沢ナポレオン・ボナパルトも僕が考えた名前ではないから。実在の人物といっても、正確には「実在の人物の名を借りて僕が作った」架空のキャラクターなんだけど。


 そういえば、最近の三谷さんって、大河ドラマか映画か舞台の脚本かバラエティ番組、という感じで、テレビの「連続ドラマ」はしばらく観ていないなあ。「巨匠」になると、連ドラとかやらなくなるのかなあ、なんて思っていたのです。

 優れたドラマを観ると、自分も無性に書きたくなる。大河を除けば、最後に書いたのは「合い言葉は勇気」。17年も前だ(2000年)。ネットの普及で、今はドラマの様相もだいぶ変わって来たが、どんな形であれ、僕は自分を脚本家だと思っている以上、やはり連ドラが書きたい。舞台も映画も大好きだけど、なんといっても、次は一体どうなるんだろうという「わくわく感」を、大勢の人たちと共有出来るのは連続ドラマだけなのだ。


 田村正和さんが亡くなられ、代表作のひとつとして、『古畑任三郎』が再放送されて高い視聴率を記録しているのですが、『振り返れば奴がいる』『古畑任三郎』と、民放の連続ドラマのヒットメーカーとして世に出た三谷さんが、20年も民放の「連ドラ」の脚本を書いていない、というのは意外でした。
 舞台や映画の仕事が忙しくて、時間がない、ということや、三谷さんが書くとなると、スペシャルドラマ枠、みたいな感じになってしまう、ということもあるのでしょうけど、御本人のこういう言葉を読むと、久しぶりに三谷さんの「連ドラ」を観たいなあ、と思うのです。
 大河ドラマも良いけれど、現代劇を観てみたいよなあ。

 『鎌倉殿の13人』は、三谷さん自身も「実在の人物の名を借りて僕が作った架空のキャラクター」による現代風のドラマを指向しているのではないか、と僕は思っています。セリフも「時代劇の言い回し」へのこだわりはほとんどなさそうですし。

 結局、人間の考え方や行動の基本的なところは、800年前も今もそんなに変わっていない、ということなのかなあ。


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