いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

平田オリザさんのことは嫌いでも、舞台演劇や役者さんたちのことは、嫌いにならないでほしい。


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 平田オリザさんへの批判が止まらない。
 というか、こうして自ら追加燃料を投下しているのをみると、「雉も鳴かずば撃たれまいに……」と思うのです。

 僕は7年くらい前に、平田さんの「コミュニケーション論」を読んで、ものすごく感銘を受けたのです。
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 この本の第一章で、平田さんは、こう述べています。

 現在、表向き、企業が新入社員に要求するコミュニケーション能力は、「グローバル・コミュニケーション・スキル」=「異文化理解能力」である。OECD経済協力開発機構)もまた、PISA調査などを通じて、この能力を重視している。


(中略)


「異文化理解能力とは、おおよそ以下のようなイメージだろう。
 異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景の違う人の意見も、その背景(コンテクスト)を近いし、時間をかけて説得・納得し、妥協点を見いだすことができる。そして、そのような能力を以て、グローバルな経済環境でも、存分に力を発揮できる。
 まぁ、なんと素晴らしい能力であろうか。これを企業が求めることも当然だろうし、私もまた、大学の教員として、一人でも多く、そのような学生を育てて社会に送り出したいと願う。
 しかし、実は、日本企業は人事採用にあたって、自分たちも気がつかないうちに、もう一つの能力を学生たちに求めている。あるいはそのまったく別の能力は、採用にあたってというよりも、その後の社員教育、もしくは現場での職務の中で、無意識に若者たちに要求されてくる。
 日本企業の中で求められているもう一つの能力とは、「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」「輪を乱さない」といった日本社会における従来型のコミュニケーション能力だ。
 いま就職活動をしている学生たちは、あきらかに、このような矛盾した二つの能力を同時に要求されている。しかも、何より始末に悪いのは、これを要求している側が、その矛盾に気がついていない点だ。ダブルバインドの典型例である。パワハラの典型例とさえ言える。


 ああ、そうだ、こういうことを日々感じていたんだけど、自分では、うまく言葉にできなかったんだ……
 相手を説得して、自分の意見を通そうとするのも「コミュニケーション」で、自分を抑えて、他人の邪魔をしないようにするのも「コミュニケーション」。
 もちろん、状況に応じて、うまくスイッチを切り替えられる人もいるのでしょうけど、あまりに「コミュニケーション」という言葉が便利に、万能になりすぎていますよね。
 巷にあふれている「コミュニケーション」という言葉を耳にするたびに感じる、嘘くささと疲労感の原因は、こんなところにあるのかもしれません。


 この新書の中で、僕がいちばん好きだったのは、この一節でした。

 遠回しの話になってしまったが、言いたいことは簡単なことだ。
「コミュニケーション教育、異文化理解能力が大事だと世間では言うが、それは別に、日本人が西洋人、白人のように喋れるようになれということではない。欧米のコミュニケーションが、とりたてて優れているわけでもない。だが多数派は向こうだ。多数派の理屈を学んでおいて損はない」
 この当たり前のことが、なかなか当たり前に受け入れられない。
 しかし、これを受け入れてもらわないと困るのは、日本人が西洋人(のよう)になるというのには、どうしても限界があるからだ。もしこれを強引に推し進めれば、明治から太平洋戦争に至るまでの過程のように、どこかで「やっぱり大和魂だ!」といった逆ギレが起こるだろう。
 身体に無理はよろしくないのであって、私たちは、素直に、謙虚に、大らかに、少しずつ異文化コミュニケーションを体得していけばよい。ダブルバインドダブルバインドとして受け入れ、そこから出発した方がいい。
 だから異文化理解の教育はやはり、「アメリカでエレベーターに乗ったら、『Hi』とか『How are you?』と言っておけ」と言う程度でいいはずなのだ。
 私たちは、西洋料理を食べるためにナイフとフォークの使い方を学ぶ。しかし、ナイフとフォークがうまく使えるようになったところで人格が高まるわけではない。人格の高潔な人間が、必ずナイフとフォークが上手く使えるわけでもない。マナーと人格は関係ない。丁寧とか、人に気を使えるとか、多少の相関性はあるのだろうが、現実世界では、とても性格は悪いけれどナイフとフォークの使い方だけはうまい奴などざらにいるし、またその逆もあるだろう。
 繰り返し言う。コミュニケーション能力は、人格教育ではない。


 コミュニケーション能力を高めるのに必要なのは「高潔な人格者になること」ではなくて、「コミュニケーションに必要なルールを学び、テクニックを磨くこと」なのです。

 この「いい子を演じる」という問題を、私は10年以上、各所で語り、書き連ねてきた。しかし、その中でもショックだったのは、秋葉原の連続殺傷事件の加藤智大被告の発言だった。報道によれば、犯行前、加藤被告は、携帯サイトの掲示板に、以下のように記していたという。


「小さいころから『いい子』を演じさせられてたし、騙すのには慣れてる」


 私は、「演じる」ということを30年近く考えてきたけれど、一般市民が「演じさせられる」という言葉を使っているのには初めて出会った。なんという「操られ感」、なんという「乖離感」。
「いい子を演じるのに疲れた」という子どもたちに、「もう演じなくていいんだよ、本当の自分を見つけなさい」と囁くのは、大人の欺瞞に過ぎない。
 いい子を演じることに疲れない子どもを作ることが、教育の目的ではなかったか。あるいは、できることなら、いい子を演じるのを楽しむほどのしたたかな子どもを作りたい。
 日本では、「演じる」という言葉には常にマイナスのイメージがつきまとう。演じることは、自分を偽ることであり、相手を騙すことのように思われている。加藤被告もまた、「騙すのには慣れてる」と書いている。彼は、人生を、まっとうに演じきることもできなかったくせに。
 人びとは、父親・母親という役割や、夫・妻という役割を無理して演じているのだろうか。多くの市民は、それもまた自分の人生の一部分として受け入れ、楽しさと苦しさを同居させながら人生を生きている。いや、そのような市民を作ることこそが、教育の目的だろう。演じることが悪いのではない。「演じさせられる」と感じてしまったときに、問題が起こる。ならばまず、主体的に「演じる」子どもたちを作ろう。


 この「コミュニケーション能力は、人格教育ではない」という言葉、昔の僕にも教えてやりたかった……

 僕は子どもの頃、自分の感情というものがよくわからなくて、ずっと、「面白いから笑う、悲しいから泣く」というよりは、「みんなも笑っているし、この状況は、僕も笑っておくべきだな」と、ぎこちない表情をつくりながら生きていた記憶があります。
 自分の感情というものに、ずっと自信が持てなかったのだけれど、これを読んで、なんだか救われたような気がしたんですよ。


 平田さんの著書は、その後も、折に触れて読んできました。

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 平田さんは、今後の日本の「教育改革」においては、ペーパーテストではなく、「受験準備ができない設問」(たとえは、グループディスカッションや、社会問題に対する提言力を問うような問題)が重視されていくはずだと述べています。
 そうなると、有名進学塾に通えない、田舎の子どもにも「平等」になるのではないか?と僕などは考えていたのですが、実際は、そうはならないのです。

 要するに、いまの流行り言葉で言えば「地頭」を問うような試験に変わっていくということだ。これは、短期間の、知識詰め込み型の受験勉強では対応できない。小さな頃から、文科省も掲げるところの思考力、判断力、表現力、主体性、多様性理解、恊働性、そういったものを少しずつ養っていかない限り太刀打ちできない試験になる。こういった能力の総体を、社会学では「文化資本」と呼ぶ。平易な言葉で言い換えれば「人と共に生きるためのセンス」である。

 この身体的文化資本を育てていくには、本物に多く触れさせる以外に方法はないと考えられている。それはそうだろう。子どもに美味しいものと不味いものを交互に食べさせて、「どうだ、こっちが美味しいだろう」と教える躾はない。美味しいものを食べさせ続けることによって、不味いもの、身体に害になるものが口に入ってきたときに、瞬時に吐き出せる能力が育つのだ。
 骨董品の目利きを育てる際も、同じことが言えるようだ。理屈ではなく、いいもの、本物を見続けることによって、偽物を直感的に見分ける能力が育つ。
 しかし、そうだとしたら、現在の日本においては、東京の子どもたちは圧倒的に有利ではないか。東京、首都圏の子どもたちは、本物の(世界水準の)芸術・文化に触れる機会が圧倒的に多い。
 もう一点、この文化資本の格差は、当然、貧困の問題とも密接に結びついている。たとえば、いま全国の小中学校で「朝の読書運動」が広がっている。教員は生徒たちに、「何でもいいから本を持って来なさい。どうしても本が難しければ、はじめは漫画でもいいよ」とやさしく声をかける。しかし現実には、家に一冊も本がないという家が、多く存在するのだ。これなどは端的に分かりやすい文化資本の格差である。

 文化の地域間格差はどうだろう。「地方の子どもは芸術に触れる代わりに、豊かな自然に触れている」というのは、やはり詭弁に過ぎないのではないか。


 平田さんは、子どもの教育のみならず、大人についても、「文化へのアクセス権」が大切であることを強調しています。

 私たちは、そろそろ価値観を転換しなければならないのではないか。雇用保険受給者や生活保護世帯の方たちが平日の昼間に劇場や映画館に来てくれたら、「失業してるのに劇場に来てくれてありがとう」「生活がたいへんなのに映画を観に来てくれてありがとう」「貧困の中でも孤立せず、社会とつながっていてくれてありがとう」と言える社会を作っていくべきではないか。そしてその方が、最終的に社会全体が抱えるコストもリスクも小さくなるのだ。失業からくる閉塞感、社会に必要とされていないと感じてしまう疎外感。中高年の引きこもりは、やがて犯罪や孤立化を呼び、社会全体のリスクやコストを増大させる。


 平田さんによると、西欧の社会保障、生活保障のなかには、きわめて当たり前に「文化へのアクセス権」が含まれており、公立の劇場や美術館には学生割引や障害者割引と同じように「失業者割引」が存在するのだそうです。
 失業しているのに、生活保護を受給しているのに、遊んでるんじゃない!と監視され、責められる社会と、どちらが、生きやすいのか。
 過剰なギャンブルや昼間からの飲酒のような娯楽に関しては思うところもありますが、生活保護を受けていても観劇や映画鑑賞くらいは許される、あるいは、せっかくの時間を有益に使うことが推奨させる社会のほうが、たぶん、また働こう、という気持ちにもなるんじゃないかな。


 ちなみに、平田さんは、こうも仰っています。

 子育て中のお母さんが、昼間に、子どもを保育所に預けて芝居や映画を観に行っても、後ろ指をさされない社会を作ること。
 これは「政治」だけの問題ではなくて、みんなで「考え方を変えていくこと」が必要なのだと思います。


「経済的な停滞」の時代でも、「人生を楽しむ」ことは、不可能じゃない。
というか、そんな時代だからこそ、生きる喜びが必要なのでしょう。


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 この近著でも、平田さんは、「文化資本」の格差が問われるようになりつつある、これからの社会で、子どもたちをどう教育していけばよいのか、という問題提起を行っているのです。
 問題提起だけではなくて、地方自治体で、実際に演劇的な手法を通じての文化資本の積み重ねを試みてもいます。


 正直、今回の「自分のホームグラウンドである演劇界の苦境をアピールするために、製造業の話を持ち出してしまった」のは、悪手中の悪手だと思います。
 平田さんはネットの「民意」みたいなものに疎かったのかもしれないけれど、こんなの、ダシにされ、比べられた側が不快になるのは当然のことでしょう。


 冒頭のブログでは、「アートマネージメント」について、舞台は損益分岐点がかなりシビアで、定員以上を入れることも公演回数を増やすことも難しいことが書かれていて、「業界特有の事情」を知ることができました。


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 歴史に遺っている興行師たちの伝記を読むと、公演で儲けが出ても、それを次の公演の費用にする自転車操業のところが多いのです。
 大当たりすることもあるけれど、大きな興行を打って失敗してしまえば無一文や大借金、という世界なのです。
 もっとちゃんと安定した収益をあげられるようにするべきなのかもしれませんが、宝塚みたいにうまく常設化できているところはごく一握りです。
 今だって、人気の役者さんが大勢出る作品はA席1万円くらいするのが当たり前ですから、これ以上の値上げも難しい。
 そして、劇場の空気感というのは、DVDでは伝わりにくいものなのです。

 平田さんは、「ちゃんと説明しよう」と思って、他業種との比較をしたのかもしれませんが、テレビの視聴者やネットでこのニュースを見る人たちは、アートマネージメントを学ぶ学生ではありません。


「今はみんな苦しんでいます。このままでは優秀なスタッフも役者も演劇を続けていけなくなるので、ずっと続けてきた演劇の灯を消さないためにも、どうか助けてほしい」


 と自分たちの苦境に限定すれば、こんなに批判されることはなかったと思う。
 これまでの著書を読むと、平田さんは、そのくらいのことはわかる人なのではないか、という気がするんですよ。
 でも、こんなことになって、平田さん自身とともに、演劇界全体にも嫌悪感をつのらせてしまったのは、「平田さんの己のコミュニケーション能力への過信」だったのか、それとも、「口だけの人」だったのか。あるいは、「演劇」というコンテンツへの味方が、想定よりもずっと少なかったのか。


 演劇に関しては、前回のエントリで書いた「受益者」の割合が、一部の演劇ファンに限られる、というのも、平田さんが叩かれやすい原因なのだと思います。


fujipon.hatenablog.com


 僕は演劇や舞台作品から「生きていてよかったな」という体験を何度ももらってきた人間なので、こういう体験を生んでくれる人たちを助けたいのです。
 正確には、僕自身にはそれだけの力がないから、政治や多くの人に目を向けてもらって、サポートしてあげてほしい。


fujipon.hatenablog.com


 ゴールデンウィーク中、家でずっと本を読んだりDVDを観たりしていたのですが、昨年公開された『シティーハンター』の映画のDVDを観て、なんだか泣けてきたのです。「ラーメン屋に行ったら、ラーメンが出てきた感じ」と評されたこの作品なのですが、往年の『シティーハンター』ファンにとっては、懐かしいところだらけでした。90分の映画を観終えて、「ああ、この90分の幸せだけでも、とりあえず生きていて得したな」と思ったんですよ。

 人間が生きていくのには、食糧や水、衣類、電気やガス、その他さまざまなインフラが必要です。それらがないと、生きていけない。
 でも、それが「不要不急」であるとしても、エンターテインメントがない生活って、やっぱり寂しい。


 平田オリザさんのことは嫌いでも、舞台演劇や役者さんたちのことは、嫌いにならないでほしい。
 そして、今回の件での平田さんの発言はあまりにも不用意かつ不躾だけれど、平田さんのこれまでの活動が、それで全否定されるものではないと思うのです。
(ただ、こうなってしまうと、やっぱり「コミュニケーションの技術」とかを教える資格があるのか、と言いたくはなりますね……)

 「上から目線」とか「貴族か」みたいな反応もありますが、僕はアートを生業にする人って、「ふつうじゃない」場合が多いのだと思うし、観客としては「ふつうじゃない発想や作品」を求めるのに、「常識人であること」を必要条件にするのは、ちょっと酷じゃなかろうか。
 アートを支えてきた人には、本物の貴族や「野垂れ死にも辞さない人たち」が大勢いたのも歴史的な事実ですし。


 この騒動で、これまで平田さんがずっと続けてきた「コミュニケーション論」が揺らいでしまうのは、僕にとっては、とても悲しいことなのです。
 それこそ、「コミュニケーション能力と人格とは、イコールではない」のかもしれないけれど。


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孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

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