いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

新学期が始まる前に、いまの「学校」を知るための7冊


夏休みも終わりですね。
しみじみと夏の思い出に浸っていたり、豪雨にため息をついていたり、宿題に追われていたりと、さまざまな晩夏を過ごされていると思います。
いやしかし、子ども時代には「もう終わりか……」と思っていた「子どもの夏休み」が、大人からみれば、こんなに長いものだとは。

長期休暇明けというのは、学校生活でトラブルが起こりやすい時期だと言われます。
そこで、新学期が始まる前に、いまの学校生活について知っておくために役立つ本を紹介してみます。



(1)いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識
fujipon.hatenadiary.com


 いま、2学期が始まる直前だからこそ、とりあえずこの本の話だけでも読んでみていただきたいのです。


 著者は、まず最初に「いじめは増えているのか」について考察しています。これを読んでいて思うのは、統計的なデータの取り扱いは難しい、ということなのです。
 同じデータでも、解釈のしかたや見せかたによって、読者に与える印象は全く違ったものになるのです。
 ちなみに、さまざまなデータから、いじめやいじめによる自殺は昔からあって、最近になって急に増えたわけではない、と著者は考えているようです。

 増減について確定したことは言いにくい。ですが、これだけは言えます。現代は、「いじめが増加した社会」なのではなく、「いじめが問題視されるようになった社会」なのです。これ自体はとてもいいことです。


 この本を読んでいて感じるのは、データに基づいた対策というのは、まずは「当たり前だと思っていることを、それが事実かどうか、ちゃんと確認する」ところからはじまるのだ、ということなんですよ。


 いじめの被害者は「親や先生が介入すると、いじめがひどくなるのではないか? これは、子どもたちの問題ではないか?」と悩んでしまいがちですよね。
 それについても、著者はこんなデータを紹介しているのです。

 残念ながら、現実には、放置されてしまっているいじめが多く存在します。そもそも、いじめがあった時に先生が対応してくれた、という人の割合は、1990年のデータ(森田洋司ほか『日本のいじめ』金子書房、1999)だと、4割ちょっと、となっています。つまり6割近くの教師は、相談を受けても対応してくれない、いじめの存在に気がついていないということです。
 一方で、教師に相談した場合に、「いじめは少なくなった」「いじめはなくなった」という割合は、大体6割強になっています。そして、「変わらなかった」が28%、「ひどくなった」は6%ということになっています。このデータを見ると、教師が介入することによって、いじめはマシになる可能性が高い、ということが言えます。「教師に言うと悪化する」というイメージも強くありますが、相談を促すことには一定の合理性があるわけです。


 データに基づいてこう言われれば、「相談したほうが良さそうだ」と思いますよね。
 大人の側が「いじめをいじめと認識してくれない」という問題はあるとしても。
 新学期が始まる前に、ぜひ読んでみていただきたい。



(2)友だち幻想 ──人と人との<つながり>を考える
fujipon.hatenadiary.com


 著者は、いまの時代の人と人の距離感をあらためて見つめなおし、気の合わない人とでも一緒にいる作法をきちんと考えたほうがよいと思う、と述べています。
 「仲良くする」ではなく「一緒にいる作法」というのが、ポイントなんですよ。

 学校というのは、とにかく「みんな仲良く」で、「いつも心が触れ合って、みんなで一つだ」という、まさにここで私は「幻想」という言葉を使ってみたいのですが、「一年生になったら」という歌に象徴されるような「友だち幻想」というものが強調される場所のような気がします。けれど私たちはそろそろ、そうした発想から解放されなければならないと思っているのです。
 私が言いたいことは、「子どもたちが誰でも友だちになれて、誰でも仲良くなれる」ということを前提としたクラス運営・学校経営は、やはり考え直したほうがいいのではないでしょうかということです。
 私は教育大学に勤めていますので、仕事柄、小中学校の校長先生や先生方とお話しをする機会も多いのですが、非常に人格がすぐれていたり、リーダーシップもある先生、教育現場で力を発揮していると定評のある先生ですら、というよりもだからこそかもしれませんが、やはり「子どもたちというのはみんな良い子たちだから、教師がサポートさえすれば、みんな一緒に仲良くできるはず」という前提で頑張っているようなのです。
 どの学校でも、やはり「いじめゼロ」を目指しています。そのためのプランを伺うと、「それにはみんなで一つになって」とか、「人格教育に力を入れて、心豊かな子どもたちを育てたい」「みんなで心を通い合わせるような、そんな豊かなクラスを作っていきたいと思っているんです」と熱く語られます。でも、私はちょっとひねくれた人間ですから、「それは理想だろうし、努力目標として高く掲げるのはまあいいのかもしれないけれども、そういうスローガンだけでは、逆に子供たちを追い詰めることにならないかな」と、どうしても思ってしまうのです。


 「みんな仲良く、協力して」が理想ではあるのだけれど、「棲み分け」のほうが現実的ではありますよね。



(3)学校ハラスメント 暴力・セクハラ・部活動ーなぜ教育は「行き過ぎる」か
fujipon.hatenadiary.com


著者は、生徒から教師への暴力だけではなく、教師間でのいじめも採りあげています。

 学校の先生方との意見交換の場に参加するなかで、私が出会った、もっとも忌まわしい記憶の一つを紹介しよう。

 とある教員研修の場において、10名程度からなるグループで、「部活動のあり方」について議論が交わされた。一人の若手教員が、か細い声でこう嘆いた――「私は、〇〇科の教員です。教員採用試験を勉強して、〇〇を教えるために教員になりました。でも毎日、そして土日も部活で時間がつぶれます。自分はやったこともない競技を指導しなきゃいけないし、本当にしんどいです」。
 それを受けて、別の教員が手をあげてこう言い返した――「それは一部ですよ! 全部の部活がそんなふうに思われては困ります。僕自身は、たしかに部活がしんどいときもありますが、楽しんでやっています」。さらには、それにつづいて何人かの教員が部活動のすばらしさを語り、援護射撃をつづけた。
 私にとっては、本当に衝撃的な場面であった。


 学校の先生というのは、外部に対してはきれいごとを発信しているけれど、内部ではお互いに「これきついよね」「やってられないよね」と愚痴をこぼし合っているのだろうな、と僕は想像していたのですが、若手がようやく絞り出した「悲鳴」が、こんなふうに押しつぶされていくのか……
 僕自身が運動音痴というのもあって、部活の顧問とかは、スポーツが得意じゃない教師にとってはきついだろうし、そもそも、ただでさえ仕事が多いなかで、時間外や休日のサービス残業化しているのは酷いと思うのです。でも、やりたくない人はやらなくていい、というシステムにできるほど、人が余っていたり、希望者が多いわけでもない。
 そもそも、教師がこんな状況下で働いていて、生徒に「いじめをなくそう」「人の話をきちんと聴こう」などという資格があるのだろうか。



(4)教育激変-2020年、大学入試と学習指導要領大改革のゆくえ
fujipon.hatenadiary.com


 池上彰さんと佐藤優さんによる「教育」についての対談。
 僕が大人になって、自分の子どもの学校にかかわるようになり、あらためて感じたのは、学校とか教育の内容って、自分が子どもの頃とは、大きく変わってきているのだなあ、ということでした。
 
 自分も同じように小学校に行っていたから、という理由だけで、30年も昔の自分の記憶を基準に、いまの教育を語ってしまう人が、なんと多いことか。
 もちろん、僕も保護者として「現場」に関わるまで、そうだったのですけど。


 上野千鶴子さんの東大入学式での祝辞が話題になりましたが、同じような環境の子どもたちが有名大学に集まり、社会のエリート層を形成していく、という傾向がどんどん強まっているのです。
 とはいえ、親の立場からすれば、「世の中にいろんな人がいること」を経験させるために、あえて、有名大学への合格率が下がるような選択をする勇気があるか、と言われると、考え込んでしまうのも事実なんですよね。
 そもそも、有名大学に行くことが幸せなのか、という問いはあるけれど、人生の選択肢を広げることにはなるのだろうし。

佐藤:格差の話を続けると、私は前原誠司氏(国民民主党衆議院議員)と話をしていて、とても興味深く感じたことがあるんですよ。民進党時代に、代表選で「All for All」というスローガンを掲げたでしょう。


池上:格差是正の枠を超えて、あらゆる生活者の不安を解消することを目指す政策理念」と説明されています。


佐藤:どちらかというと竹中平蔵氏に近いような自己責任論者だったはずの彼が、どうしてそんなことを言い始めたのか? 話を聞いてみると、前原氏の政策づくりにも関わった慶應義塾大学経済学部の井手英策教授などと語り合っているうちに、はたと気付いたと言うんですね。
 彼は、中学二年生の時に父親が借金を抱えて自殺して、母子家庭の境遇になったわけです。とにかく努力して京都大学法学部に入るのだけれども、学費や生活費を稼がなくてはいけないから、塾の講師から魚市場のバイトからいろんな仕事を掛け持ちして、その結果大学の授業では寝てしまい、ドイツ語の単位を落として四年では卒業できなかった。卒業時は外交官になりたいとも思ったのだけれども、受験勉強できるような経済環境ではなかった。勉強を続けていけるのが、松下政経塾だったんです、と。


池上:かつては結構いた、典型的な苦学生ですね。


佐藤:ただ、自分はそうやって人一倍頑張って、母子家庭の境遇の中から這い上がれたのだけれども、考えてみれば、あれは経済が右肩上がりの構造があるから可能だったのだ、と言うのです。もし今、自分と同じような境遇、能力の中学二年生が京都にいたとして、自分と同じように大学を出られるかといえば、絶対に無理だという結論にしかならない。だから「All for All」の方向に転換しないといけない、と思ったのだそう。


池上:昔は、貧しいとはいえ頑張れば、ギリギリなんとかなる可能性はあった。曲がりなりにも、社会の支援体制もあったわけですね。今、経済的な「負け組」になった家庭から子どもを大学に通わせるのは、国立であっても絶望的に困難です。授業料は上がり、奨学金も「教育ローン」みたいなものだし。


佐藤:そうした家庭は、生活を維持するので、精一杯でしょう。彼は、自分は苦労したけれども、それも蓄積になった。経済格差で取り残される今の子どもたちには、そういう苦労をする可能性さえ残されていないではないか、と言うわけです。


池上:一方で、経済的に恵まれた家庭の子どもたちは、偏差値の高い学校に入るテクニックを身につけて、社会に出ればより多くの収入の得られる仕事に就いていく。教育が、格差を助長し固定化する仕組みとして機能しているかのようです。


 能力がある人たちが「階層の壁」を超えるための手段だったはずの「教育」が、「格差を助長し固定化する仕組みとして機能している」のが現状なのです。
 経済的に右肩上がりで、「それでも、努力すれば報われる」時代を生きてきた人たちが、いまの社会を動かしていて、「生きていくので精一杯」の若者たちを「君たちは努力が足りない」と責めている。



(5)ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる⼦どもたち
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 読んでいてあらためて感じたのは、親というのは、子どもにとってはかけがえのないものであり、それだからこそ、親は子どもから見えている世界の狭さに配慮しなければならない、ということなんですよ。


 子どもシェルター「カリヨン子どもセンター」の創設者のひとりである坪井弁護士の話より。

 カリヨンを始めたばかりのころ、実際にそういうこと(ある子どもが、複数のスタッフそれぞれに別のスタッフの悪口を言い、スタッフの人間関係にひびを入れて、大人をコントロールしようとしたこと)があった。最初はどうしていいかわからず、スタッフは翻弄され続けた。そこで坪井さんはその子に直談判した。「もうやめて。このままではスタッフみんながダメになってしまう。カリヨンを存続できなくなる。そんなことをしなくても、みんなあなたのことを見ているから大丈夫だよ。誰もあなたを見捨てないから」と伝えた。
 するとその子は「なんで出て行けって言わないの?」と坪井さんに突っかかってきた。
 坪井さんは目を見開いて言い返した。「あなたさ、どっこも行くところがなくなって、カリヨンにたどり着いたんだよね。そのあなたに『出て行け』って言ったら、それは『死ね』って言ってるってことじゃない。私たちはね、子どもの命が守りたくてこのシェルターをつくったんだよ。口が裂けても『出て行け』とは言わないからね!」。
 子どもは、「うわー!」と大声をあげて泣き出した。そして「『出て行け』って言われなかったの、初めてだよ」と言った。
 小さなころから「言うことを聞かないのなら出て行きなさい!」と言われて育ってきた。子どもが家を追い出されたら、それはすなわち死を意味する。つまりその子それまでずっと「言うことを聞かないのなら死になさい!」というメッセージを受けとり、脅されながら育ったのだ。
「私はずっと、『死ね!』『死ね!』と言われて育ったの。『出て行け!』って言われなかったのは初めてだよ」とその子は語った。それから彼女は本当の意味でカリヨンのスタッフに心を開くようになった。
「その子がどれだけ辛い人生を歩んできたことか。子どもに『出て行きなさい』は絶対に言ってはいけないのです。そう思うのなら親が家から出ていくべきです。親は家を出ても死にませんから。でもこれは氷山の一角だと思います。世の中には同じくらい辛い思い、もしかしたらもっとつらい思いをしている子どもがたくさんいます。その現実をみなさんに知ってほしい。だから私はこうやって話します。それが知ってしまったひとの使命だと思っています」

 子どもに「出て行け」と言うのは、「死ね」と言うのと同じ。出て行けないことを知っていながら、いや、知っているからこそ、親は苛立ったときに、そういう言葉を発してしまうのです。
 その「重さ」を顧みることなく。
 これを読んで、自分が子どもだったときのことと、親としての至らなさを同時に思い出して、僕はしばらくうなだれていました。



(6)ケーキの切れない非行少年たち
fujipon.hatenadiary.com

ケーキの切れない非行少年たち(新潮新書)

ケーキの切れない非行少年たち(新潮新書)


子どもにとって、学校で勉強がわからない、というのはものすごいストレスなのだな、と思ったのです。
 僕は運動音痴で、体育の時間が憂鬱で仕方がなかったのですが、勉強が全然わからないというのは、僕にとっての体育の時間の絶望感が、学校にいるほとんどの時間、続くってことなんですよね。
 さらに、人付き合いが苦手で友達がいない、作れないともなると、それはもう、キツイはず。

 医療少年院では、新しく入ってきた全ての少年に対して、毎回2時間ほどかけて面接を行っていました。通常、非行少年の面接となると、なぜ非行をやったのか、被害者に対してどう思っているかといったことをメインに聞くことが多いのですが、実はそういったことを聞いても更生にはあまり役に立たないことが分かってきました。少年院在院少年たちの幼少期からの調書を読んでみると、彼らは少年院に入るまでに、これでもか、これでもかというくらい非行を繰り返しています。少年院に赴任したての頃は、凶暴な連中ばかりでいきなり殴られるのではないか、といつも身構えていました。しかし、実際は人懐っこくて、どうしてこんな子が? と思える子もいました。
 しかし一番ショックだったのが、


・簡単な足し算や引き算ができない
・漢字が読めない
・簡単な図形を写せない
・短い文章すら復唱できない


 といった少年が大勢いたことでした。見る力、聞く力、見えないものを想像する力がとても弱く、そのせいで勉強が苦手というだけでなく、話を聞き間違えたり、周りの状況が読めなくて対人関係で失敗したり、イジメに遭ったりしていたのです。そして、それが非行の原因にもなっていることを知ったのです。
 その他、高校生なのに九九を知らない。不器用で力加減ができない、日本地図を出して「自分の住んでいるところはどこ?」と聞いても分からない、といったこともありました。北海道は大体みんな知っているのですが、九州を指さして「これは何?」と聞くと、「外国です。中国です」と答えた少年もいます。ひどくなると日本地図を見せても、「これは何の図形ですか? 見たことないです」という少年もいます。


 勉強していないからわからない、というよりも、「勉強して、何かを理解していく、という機能が失われている」という感じなんですよ。
「丸いケーキを3等分できない中学生・高校生の非行少年」なんて、いくらなんでも……と思ったのですが、この本のなかには、彼らがそれを試みた図も収録されています。
 なぜこんなこともわからないのか……というのは「わかる側」の視点なのです。
 だから少年院に入れられるようなことをやってもいい、ってわけじゃないけれど、彼らが、そんな事件を起こす前に、「見る力」「聞く力」をの異常を感知することによって、できることがあるのではないか、というのが著者の考えなのです。



(7)名門校「武蔵」で教える 東大合格より大事なこと
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この新書、面白そうなんだけど、僕も息子たちも、こんな名門校には縁がなさそうだし、読んでもあんまり意味なさそうだよな……
 そう思っていたのですけど、読み始めてみると、面白くて、一気読みしてしまいました。
 日本には、こんな学校があるのか!
 僕ももし生まれ変わって、もうちょっとマシな頭があれば、ここに通ってみたかった。

 武蔵にはやぎがいる。ペットとしてうさぎを飼うのとは全然違う。「飼育している」というのもちょっと違う。身近なところに家畜として置いて、よく見るためにいるのだ。やぎを育てることが目的ではない。生徒を育てるためにやぎがいる。
 武蔵には約30人の「やぎのひとたち」がいる。雨の日も、雪の日も、休みの日にもやぎにエサをやり糞の掃除をする生徒たちだ。2011年に高1の選択必修授業「総合講座」のテーマの一つとしてに二頭のやぎを迎え入れ「やぎの研究」が始まった。いまでは学年にかかわらず関心のある生徒が参加している。
「やぎのひとたち」を束ねているのが、田中洋一教諭である。当然理科の教員だと思うだろう。残念。数学の教員だ。
「ところがどうしてもね、やぎはかわいい。かわいいもんだから、ついペットを飼っているような気分になってしまう。でもそうすると、やぎそのものがクローズアップされていって、雨の日も雪の日も、蚊がぶんぶん飛んでいる中でもやぎの世話をする生徒に対するねぎらいの視点がまったくなくなっちゃうんですよ。もちろん私に対するねぎらいも(笑)。不思議なんですよ」


生徒のこんな話もありました。

「僕は小学校のころから城が好きで、小学校のころは結構変人扱いされていたんですよね(笑)。でも武蔵に来たらもっといくらでもディープな趣味の人がいて、僕は普通の人になることができました(笑)。おかげで自分のいい面を伸ばせたと思います」

 エリート校というのは、他の学校を下に見ているようなイメージがあったのだけれど、実際に通っている生徒たちのなかには「普通の学校では、異端として扱われ、生きづらかった」というケースが少なくないのです。
 「天才」が、個性を伸ばすためには、こういう学校が必要になるのかもしれません。



 自分の子どもの小学校に、保護者として行くようになって痛感したのは、僕自身が「いまの学校」とか「いまの教育」だと思い込んでいるものは、「自分が学校に行っていた時代の記憶」でしかなかった、ということなのです。
 学校って、誰もが通ったことがあるからこそ、「経験論に陥りやすい」ところがあるのです。
 35年ぶりくらいに行く小学校は、もちろん、昔と同じところもあるのですが、時代に合わせて、先生たちの教え方、考え方や子供たちとの接し方も、けっこう変わっていて驚きました。
 「いまの教育」に批判的な人は少なくないし、もちろん、「いまの教育」は、完璧ではありません。
 だからこそ、誰かの尻馬に乗って批判する前に、「いまの学校は、どうなっているのか」を知ることが大事だと僕は思います。
 『ファクトフルネス』じゃないですが、日本の教育は、「どんどん悪くなっている」わけではないから。


fujipon.hatenablog.com

FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

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