いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「教育格差」「文化資本」という「呪い」について


topisyu.hatenablog.com


 これを読んで、思ったことなど。
 僕は以前、こういう話を書いたのです。

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『下り坂をそろそろと下る』 (平田オリザ著/講談社現代新書)のなかで、平田さんは、今後の日本の「教育改革」においては、ペーパーテストではなく、「受験準備ができない設問」(たとえは、グループディスカッションや、社会問題に対する提言力を問うような問題)が重視されていくはずだと述べています。

そうなると、有名進学塾に通えない、田舎の子どもにも「平等」になるのではないか?と僕などは考えていたのですが、実際は、そうはならないのです。

要するに、いまの流行り言葉で言えば「地頭」を問うような試験に変わっていくということだ。
これは、短期間の、知識詰め込み型の受験勉強では対応できない。小さな頃から、文科省も掲げるところの思考力、判断力、表現力、主体性、多様性理解、恊働性、そういったものを少しずつ養っていかない限り太刀打ちできない試験になる。
こういった能力の総体を、社会学では「文化資本」と呼ぶ。平易な言葉で言い換えれば「人と共に生きるためのセンス」である。


(中略)


この身体的文化資本を育てていくには、本物に多く触れさせる以外に方法はないと考えられている。
それはそうだろう。子どもに美味しいものと不味いものを交互に食べさせて、「どうだ、こっちが美味しいだろう」と教える躾はない。美味しいものを食べさせ続けることによって、不味いもの、身体に害になるものが口に入ってきたときに、瞬時に吐き出せる能力が育つのだ。
骨董品の目利きを育てる際も、同じことが言えるようだ。理屈ではなく、いいもの、本物を見続けることによって、偽物を直感的に見分ける能力が育つ。

しかし、そうだとしたら、現在の日本においては、東京の子どもたちは圧倒的に有利ではないか。東京、首都圏の子どもたちは、本物の(世界水準の)芸術・文化に触れる機会が圧倒的に多い。
もう一点、この文化資本の格差は、当然、貧困の問題とも密接に結びついている。
たとえば、いま全国の小中学校で「朝の読書運動」が広がっている。教員は生徒たちに、「何でもいいから本を持って来なさい。どうしても本が難しければ、はじめは漫画でもいいよ」とやさしく声をかける。
しかし現実には、家に一冊も本がないという家が、多く存在するのだ。これなどは端的に分かりやすい文化資本の格差である。


(中略)


文化の地域間格差はどうだろう。「地方の子どもは芸術に触れる代わりに、豊かな自然に触れている」というのは、やはり詭弁に過ぎないのではないか。


自然に触れて、のびのび育つことができる、とは言うけれど、田舎の子どもたちは、学校の統廃合で通学に時間がかかるためにバス通学になって、自然に触れる時間が増えているわけではないそうです。
いくら自然に触れていても、それを「表現する能力」がないと、いまの社会では評価されないのではないか、と平田さんは仰っています。


平田さんは、近著『22世紀を見る君たちへ これからを生きるための「練習問題」』 (講談社現代新書)でも、こう書いておられます。

 ベネッセ教育総合研究所で行われた「教育格差の発生・解消に関する調査研究報告書(2007年~2008年)」は、学力テストの上位25%のA層と下位層25%のD層に関して、親の日頃の子どもに対する働きかけ、接し方の何が影響しているのかを細かく調査している。

 一番ポイント差の大きかったのは、「家には、本(マンガや雑誌を除く)がたくさんある」という項目で、小6の国語の学力テストの結果A層は72.6%、D層は48.0%と、25ポイント近い差がある。ちなみに算数の数値でも15ポイントほどの差がある。


・子どもが小さいころ、絵本の読み聞かせをした……17.9ポイント差
・子どもが英語や外国の文化に触れるよう意識している……17.5ポイント差


 などがある。興味深いのは、次に大きなポイント差が付いたこの項目だ。


・博物館や美術館に連れて行く……15.9ポイント差


 これは、「毎日子どもに朝食を食べさせている」の10.4%差を大きく上回っている。子どもの成績を上げたければ、朝ご飯を食べさせるより美術館に連れて行ったほうがいいということになる。
 もちろん、「博物館や美術館に連れて行くような親は富裕層だから、子どもを塾に行かせられるだけではないのか?」という疑問もあるだろう。しかし浜野先生に伺った話では、同等の所得層でも、こういった文化施設に連れて行く家庭と連れて行かない家庭では、子どもの成績に有意な差が見て取れるそうなのだ。
 この点、これまで指摘してきた「教育政策と文化政策を連動させて、子ども一人一人の身体的文化資本を高める必要がある」という主張に、強いエビデンスが現れたと私は思っている。
 余談になるが、さらに興味深い指標もある。


・ほとんど毎日、子どもに「勉強しなさい」という……マイナス5.7ポイント差


 これは衝撃的な数字だ。乱暴な言い方をすれば、このD層の親たちは、「子どもに『勉強しろ、勉強しろ』とは言うが、博物館・美術館には連れて行かない」ということだ。あるいは、子どもの成績を上げようと思ったら、「勉強しろ、勉強しろ」などとは言わずに、周りにそっと本を置いておいた方がいいのかもしれない。好奇心をそそれば、子どもは勝手に学んでくれる。


 『孟母三遷』なんていう中国の故事がありますが、「環境」っていうのは本当に大事なのです。
 僕が子どもの頃に通っていた田舎の小学校・中学校では、「勉強ができる」というのは、「あいつは勉強しかできない」「ガリ勉」という侮蔑の対象でもありました。僕の場合は、本当に「勉強しか(しかも程々にしか)できなかった」のだけど。
 いま、子どもが通っている私立の小学校では、子どもたちの間でも「勉強すること、勉強ができることは素晴らしいことだ」という意識が共有されているのです。まあ、それと「自分の子どもが勉強したいかどうか」は別の話ではあるのですが。そりゃ、テレビゲームのほうが面白いだろうし。

 環境が人間のすべてを作る、とは思わないけれど、ある種の環境は、人間の能力やモチベーションを底上げするのは事実だと思います。
 逆に、「やる気を出すことが難しい環境」というのも存在します。


 冒頭のエントリを読んで、僕がこの人の「30歳の田舎での仕事が自分に合っていると感じている夫」だったらどうだろうなあ、と考えてみたのです。
 最初に思ったのは、「30歳」というのは、(もちろん、職種にもよりますが)ようやく仕事にも慣れてきて、「自分の仕事ができる」実感がわいてくる時期だということなんですよ。
 ようやく、自信がついてくる時期でもある。
 子どもの生活環境は大事だろうけれど、「子どものために転職して、都会に住む」という決断ができるほど、「これからは子どものために生きる。あとは子どもに任せた!」という心境には、まだ、なれないのではなかろうか。
 

 育児や生活環境というのはすごく大事なことだけれども、家族であれば、その構成員の誰かが「自分を殺して、誰かのために尽くす」ような状況というのは、けっして全体にとってもプラスにならないと思うのです。
 もちろん、一時的に多少はそういう状況にならざるをえないこともありますし(海外への留学とか転勤なんていうのは、そのうちのひとつですよね)、思い切って都会(田舎)で生活してみたら案外うまくいった、というケースはありうるとしても、まだ親も若くて自分の可能性が十分にあるのに、「すべてを犠牲にして、子どもに捧げる」ような発想は、子どもも幸せにはしないような気がします。

 
 平田さんの話を読んでいて僕が感じたのは、「教育」というのは、「親の子どもへの接し方」だけではなく、「親自身が、人生や世界に対して好奇心を持ち続けること」が大事なのではないか、ということなのです。
 家に本がたくさんあったり、美術館や博物館に一緒に行く、という親の大部分は、その親も本やアート、歴史に興味があるんですよ。
 自分が全く楽しいと思えない場所には、いくら「子どものため」であっても、お金を払ってまで行くことはない。


 こういうのを読んだり、自分の考えを書いたりするたびに、僕はなんとも言えない気分になるのです。
 僕自身は、自分が親から「正しい教育」を受けてきたと他人に言い切れる自信はないし、自分の子どもを正しく教育してきた、とも思えない。
 もうちょっとマシな人間に、親になれたのではないか、と夢想してばかりです。
 その一方で、自分の親に対して、勉強に関して、経済的なことには全く悩まずに済んだことと、仕事や夫婦の間のさまざまな問題を子どもの前では見せず、八つ当たりをすることもなかったことは、とてもありがたいことだったな、と感謝しているのです。
 自分が親になってみると、これを貫徹するのがいかに難しいことか。

 
 僕は冒頭の相談を読みながら、こういうことで、家族は分断されていくのか、「子どもの教育方針」が理由で、夫婦は離れていくのか、と思ったのです。
 「まずは自分に向いた仕事をきちんとやっていきたい。それが家族のためになるはず」夫と、「なぜ子どもや家族のために、環境を改善する努力をしてくれないのか」という妻。どちらも間違ってはいないだけに、答えを出すのは難しい。どこかで妥協したとしても、しこりは残る。
 

 そして、過剰な子どもへの期待や「お父さんみたいになっちゃ駄目よ」という「呪い」が生まれる。
 

fujipon.hatenadiary.com
 

 子どもシェルター「カリヨン子どもセンター」の創設者のひとりである坪井弁護士の話より。

 教育虐待に陥らないために、親は自分自身に次のように問いかけてほしいと坪井さんは訴える。


(1)子どもは自分とは別の人間だと思えていますか?
(2)子どもの人生は子どもが選択するものだと認められていますか?
(3)子どもの人生を自分の人生と重ね合わせていないですか?
(4)子どものこと以外の自分の人生をもっていますか?


 これができていないということは、親が子どもの人生に依存しているということ。「共依存から虐待は始まる」と坪井さんは指摘する。


 このシンプルな4つの問いすべてに、自信をもって「はい」と答えられる親は、どのくらいいるのだろうか?
 何のためらいもなく、「はい」と即答できるのも、それはそれで不穏な気もするのです。


 ちょっと話が脱線しすぎというか、僕が勝手にあれこれ想像しすぎている感もありますが、「私自身も首都圏で生まれ育って、本当に良かったなと思います」と自分の人生や環境を肯定できるのは、本当に羨ましい(半分は嫌味です)。
 でも、世の中には「田舎で競争が激しくないなかで、のんびりと生まれ育って、本当に良かった」という人もいるわけです。


 僕はこの冒頭のエントリ、相談者自身が都会で生活したいだけなのでは……と感じます。
 それは悪いことじゃないけれど、そういうのを「子どものため」に変換して自分の意見を通そうとすると、悲劇しか生まないと思う。


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