釣りかもしれないエントリ、なのだけれども。
僕が地方大学の医学部に通っていたのは、もう30年も前の話になってしまうので、たぶん、全然違う世界なんだろうなあ、と思いつつも、当時のことをいろいろ思い出してしまいました。
小中学校は公立で、高校は田舎の私立の進学校(男子校)出身。成績的には上から3分の1くらい。高校時代に自分が特別な人間じゃないことに打ちのめされつつも、なんとか医学部の下のほうに受かってしまった人間としては、これを書いている人の「本当に頭のいいヤツはこんなところにはいない、という諦め」は、理解できるような気がします。僕も大学時代は、高校時代の模試の成績を自慢し合っている同級生を横目に、こんな狭い範囲で成績争いしてもしょうがないだろ、と、言わないけど思っていたので。
女子に話しかけられるだけでテンパり、人とうまく接することもできず、家でひたすらゲームと読書三昧だった記憶があります。僕の学校では、同級生の男は僕と同じような「志は大きかったが現実に打ちのめされた進学校崩れ」の割合が多くて、女は「地元の進学校で一番の成績をとりつづけ、お父さんの医院に娘の成績が貼ってある」みたいな人が少なからずいたような気がします。
でもまあ、そういう人も含めて、大部分が、「中の上くらいの収入がある家庭で、とりあえず国立大学の医学部に受かって、親は喜んでいる」という層だったのではないかと。
やっぱり、私立となると、医学部に関しては、桁違いになってしまうので。
開業医ならともかく、勤務医だと私立は経済的に厳しいところが多いのではなかろうか。慶応医とかに受かれば別なんでしょうけど。
僕がこれを読んで感じたのは、シンプルに「大学に入って、こういうふうに、これまでのギャップに悩むというのは、多かれ少なかれ誰にでもあることだよな」ということだったんですよ。
むしろ、そういういろんな人を「かきまぜる」のが、大学というところの役割でもあるし。
僕はとりあえず、部活に入っていたのが、救いになったと思っていて、成績的には全く振るわなかったのですが、大げさじゃなくて、いろんなことを学んだのです。
それがなかったら、もっとダメな人間になっていたはず……って、これ以下があるのか自分でも疑問ですが。
最近は、地元志向が強くなって、遠くの大学に行く人というのは、ごく一部の有名大学進学者か医学部くらいになってしまっているそうなのです。
いまの学生たちにとっては、「進学のために首都圏を離れる」というのは、一昔前よりも「都落ち感」が強いのかもしれませんね。
あらためて考えてみると、まだ大学に入ったくらいの時期に、いままで自分が住んでいたのとは、ちょっと違う世界に触れてみることができたのは、悪いことではないと思うのです。
医者とかになれば、いずれはもっといろんな人と接することになるだろうから。
でも、もしかしたら、この人のこういう感情は、「自分が理想とする世界から追放されてしまった自分自身への苛立ちからきている」のかもしれないな、という気がします。
僕も長年仕事をしていて、周囲の人に「なんでこんなこともわからないんだ……」と苛立つことがたくさんあったんですよ。
ある人に「お前がここで働いているということは、お前もそのくらいの人間なんだ。現実を受け入れて、覚悟を決めろ」と言われたときは、苦しかった。
まあでも、たぶん、「そんなもの」なのでしょう。
職業人としては、人間大好きで、「人間愛」や「理想」に燃えている人が、必ずしも医者を安定して続けられているとは限らない。
むしろ、「これが仕事だから、お金をもらうために割り切ってサービスする」という人のほうが、開業医としての成功をおさめていることも少なくありません。
高校時代に進学校で打ちのめされた体験というのは、マイナスの面ばかりではない。
『悲観する力』という本のなかで、森博嗣先生は、こう仰っています。
僕が見るかぎり、「仕事が好きだ」「情熱をもって取り組んでいる」と言う人ほど、全然仕事をしない。なにか気に入らないことがあるのだろうか。仕事が好きだから、少しでも嫌いな要素が見つかると、途端にやりたくなくなるのかもしれない。情熱なんてものも冷めてしまうから、そうなったときにスランプになるのだろう。
真面目にこつこつと仕事を進める人は、ただ黙々と焦らず作業を続ける。長く休まないし、人に仕事のことを話したりしない。機械に向かって加工をしている人や、工芸品などを手作りしている人がだいたいそうだ。職人と呼ばれるような職種の人たちである。おそらく、「仕事が楽しい」と口にする必要がないからだろう。楽しいかどうかなど、仕事には無関係なのだ。
自分のした仕事を褒められるのも、大して嬉しいとは感じないらしい。これは、大工さんから聞いた話だ。お客さんから褒められると愛想良く返事をしておくが、素人に仕事の善し悪しがわかるはずがない、と考えているそうだ。大工というのは、親方(工務店の社長さんなど)から依頼されて仕事をしている。賃金をもらうのも親方からである。つまり、お客さんである施主(家を建てる人)は、直接の客ではない。これは、工芸品を作る職人の場合も同様で、彼らが作ったものを買うのは、消費者ではなく、問屋あるいは専門店だ。だから、そういった玄人から褒められれば嬉しい。それに、褒められるとは、賃金が上がる、高く売れる、ということに直結する。これが道理である。
感情を利用して仕事の効率を上げることは、一時的にはできても、維持することが難しい、ということをプロは知っている。それは、人間の感情がころころと変わりやすいからであり、そういったものを仕事に持ち込むことは、トータルではマイナスになるとの考え方である。
子供には、勉強に対して「やる気」を出すように指導しているが、やる気を出すことは、勉強をすること以上に難しい。やる気を出すよりも、勉強をした方が簡単だ。大人は、そんな無理強いをしていることに気づいているだろうか。
医者(とくに臨床医)に必要なのは「人間愛」よりも、「不眠や激務に耐えられる体力」と「打ちのめされても引きずらないメンタルの強さとバランス感覚」だと僕は考えています。
それで、外面的には「自分は人間が大好きで、人を差別しません、というふるまい(演技、というと語弊があるかもしれませんが)」ができれば、言うことはありません。
冒頭の増田さんは、
医者はいつでも人格者で、正しくないといけないから。
偏見なんてないですよ、という顔をしなくてはならないから。
と、すでに「自分の立場を理解していて『はてな匿名ダイアリー』に書いている」ので、問題ないのでは、と僕は思います。
Twitterに自分の病院内部のことや患者さんのことを書く医者ほうが、社会的にはずっと「ヤバい」よね、いい大人なのに。SNSでは、そういう愚痴とかに「イイネ!」がつきまくったり、リツイートされたりしやすいのですが、周囲はさんざん持ち上げておいて、落とすときは一斉に、だからさ。
偉そうにこんなことを言っていますが、僕もネットで書き始めた頃には、そういうので、何度も痛い目に遭いました。そういうネタって、アクセスが多かったり、反響があったりして、どんどんエスカレートしがちでもあります。
言っていることが正しい、間違っている以前に、「自分のことをネットであれこれ言われた」というだけで不快になってしまう人もたくさんいるんですよ。とくに、いま、病院で責任ある立場の年代くらいには、そういう人が多いと感じます。
実際のところ、人って固定観念や偏見を持って大学に入ってくるもので、僕は最初のころは「みんなチャラチャラしやがって!」とか「仲良しグループになんて入らないぞ」とか思っていました。
そういう偏見は偏見として、「自分の常識に合わない世界を否定する」か、「こういう世界もあるんだな、と受け入れてみる努力をしてみる」かというのが、大きな分かれ目ではなかろうか。
僕がイチロー選手の引退会見で、いちばん感銘を受けたのは、このやりとりだったんですよ。
――前のマリナーズ時代、何度か「自分は孤独を感じながらプレーしている」と話していた。ヤンキース、マーリンズとプレーする役割が変わってきて、去年ああいう状態があって今年引退。その孤独感はずっと感じてプレーしていたのか。それとも前の孤独感とは違うものがあったのか。
「現在それ(孤独感)全くないです。今日の段階で、それは全くないです。それとは少し違うかもしれないですけど、アメリカに来て、メジャーリーグに来て……外国人になったこと。アメリカでは僕は外国人ですから。このことは……外国人になったことで、人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね。この体験というのは、本を読んだり、情報を取ることはできたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので。孤独を感じて苦しんだことは多々ありました。ありましたけど、その体験は未来の自分にとって大きな支えになるんだろうと、今は思います。だから、辛いこと、しんどいことから逃げたいと思うのは当然のことなんですけど、でもエネルギーのある元気なときにそれに立ち向かっていく、そのことはすごく人として重要なことなのではないかなと感じています」
自分が受け入れがたい、あるいは、受け入れてもらえない文化のなかで、それを全否定することで自分の支えにするのか、あるいは、「その体験」を、これからの自分の糧にしていくのか。
実際は、大学の6年間辛抱すれば、東京の病院で研修して、その後はセレブ生活を送ることだってできるはずです。
でも、学生時代、まだ若くてエネルギーがある今ならば、せめて、学生のうちだけでも、新しい環境に立ち向かっていくことは、プラスになると思うのです。
僕自身は、そういうものに対して、家にこもって『ダービースタリオン』ばっかりやっていた人間なので、なおさら、同じ轍を若い人には踏んでほしくない。
まあでも、こうして「やりすごしてきたのもまた、僕の人生」ではあるし、結局、人というのは、自分が生きられるようにしか生きないのかな、という悟りと諦めが半々、みたいな気持ちにもなるのですけどね。
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