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いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

われわれも、すでに「分断」されているのだ。

アメリカ大統領選挙の結果を受けて、「アメリカ社会の分断」みたいなものを考えてみたりするのだけれど、実際のところ、そういうふうに分析しようとする姿勢が、すでに「お高くとまっている」のかもしれないな、とも思う。


唐木元さんのこのツイートを読んで、僕は、なんだか少し腑に落ちたような気がした。
「われわれのようなエリートやエスタブリッシュメントは、トランプ氏のような野蛮で差別的な人間を支持しないのが当然ですよね」
こういうメールが、その大学の(たぶん)学生全員に送られてくるというのは、僕の感覚からいえば、ちょっと変だ。
トランプ氏は問題が多い人物だとは思うが、それでも、制度にのっとって共和党から立候補した大統領候補ではあるし、勝ち負けはさておき、有権者の半分くらいは、彼を支持している。
だが、この「東部の学費高い大学」は、その「トランプ氏を支持しているアメリカの半分」を切り捨てているのだ。


僕はトランプさんの言動の大部分には賛成できないし(ただ、少なくとも「アメリカが世界の警察である必要があるのか?」という問いかけは、そう考える人がいるのは至極当然だと思う。日本という国にとっては甚だ都合が悪いことかもしれないが)、あんなリスクが高くて差別的な政策を打ち出している人がどうしてあんなに支持されているのが、理解できない。
だが、トランプさんがヒラリーさんとのテレビ討論会で、経験と知性の差を見せつけられているのをみて、なんだかトランプさんにちょっと感情移入してしまった。
応援するようになった、というよりは、ヒラリーさんも、少し手加減してあげたらいいのに、って。


「面白さ」と「わかりやすさ」そして、「既成の政治家ではないこと」という3点を除けば、トランプさんはヒラリーさんよりすぐれているところはなさそうにみえた。
 そもそも、この3点が「すぐれている」かどうかもあやしいところだが、少なくとも「違い」ではあるだろう。


 個人的には、今回のアメリカ大統領選挙の結果というのは、「みんなのため」「社会のため」と言いながら、私腹を肥やすことしか考えていない(ようにみえる)エリートやエスタブリッシュメントになんとか一泡吹かせてやりたかった人たちの反乱だったのではないか、という気がしている。
 「有識者」たちが、トランプ候補をバカにし、こんなの支持するヤツらは何考えてるんだ?という態度をとればとるほど、「彼ら」は反発し、トランプ候補に票を入れたのではなかろうか。


 アメリカ社会も「分断」されてるなあ、と考えていたら、以前読んだ、『今ウェブは退化中ですが、何か?』(中川淳一郎著・講談社)に書かれていたことを思い出した。

 人間はそう簡単に分かり合えるものではない。どう頑張っても、分かり合えない相手は存在するのだ。人生は短い。絶対に分かり合えない人と分かり合う努力をするより、分かり合えそうな可能性のある人を選んで、その人を大切にしていくことが重要なのだ。

(中略)

 決して分かり合えない人間がいると悟ったもう一つの契機は、1993年3月、日本に帰国して、大学に合格した直後のことだった。「大学に入学したら何かとお金が必要だ」と考えた私は、自宅からすぐ近くにある引越し屋でバイトを始めた。私はその引越し屋で、RとKという2人の社員との組み合わせで仕事をすることが多かったが、RとKが語る話の内容は「焼肉」「風俗」「借金」「競馬」「パチンコ」「会社へのグチ」がほとんどだった。
 引越し屋で初めて彼らに会った瞬間、私はKから「お前、何でウチで働くんだ?」と聞かれた。「4月から大学に入るので、その前に働いてお金を用意しようと思っています」と答えたところ、「ケッ、エリートさんかよ」という答えが返ってきた。そして、
「あのよぅ、ウチはエリートさんなんていらねぇんだよ、バーカ」
 と続けざまに言われた。私はなぜか「すみません」と謝った。トラックの中でRとKと一緒にいる時間は辛かった。話しかけられるのは、「缶コーヒー買って来い」「お前、さっきの家でチップいくらもらった?」「さっさと外に出ろ」「次のバイト代、お前を世話してやってるオレに半分よこせ」だけである。
 他の時間は、RとKが「焼肉」「風俗」「借金」「競馬」「パチンコ」「会社へのグチ」について語っているだけで、私は会話に参加できなかった。ある時、冷蔵庫を運んでいて、あまりの重さに私が「ヒーッ!」と声を上げたところ、Kは、
「ケッ、これだからエリートさんは使えねぇんだよ」
 と舌打ちした。
 企業の引越しのように大規模な作業をする際は、応援の人間が現場で待っている。中国人の留学生が多かったのだが、RとKはその現場に向かう時、「なんか今日はニイハオだらけらしいぜ」「うぜえな、ニイハオかよ」などと言っていた。「ニイハオ」とは、言うまでもなく中国語の「こんにちは」だが、彼らにとっては「中国人アルバイト」の意味であり、明らかに差別意識を込めて使っていた。彼らは現場に行っても、
「おい、ニイハオ、てめえさっさと働け。日本語分かってんのかよ、バカヤロウ」
 などと平気で口にする。そして私には、
「おい、エリートさんよぅ、お前、これまでお勉強ばっかしてきたんだから、中国語くらい分かるだろ。ニイハオのバカどもに、グータラするなと伝えとけ」
 と言った。この時は一瞬だけ、ついに自分もRとKから認められたかと思って嬉しくなったが、もちろんそれは錯覚だった。実は当時の私は、現場で会う中国人留学生たちと話が合った。彼らは大学生だったので、私は大学生活で必要なことをいろいろと教えてもらい、RとKとの会話よりもはるかに実りが多く、共感する部分も多かった。
 しばらくその引越し屋でバイトを続けたものの、RとKから飛んでくるのは万事、「てめえ、さっさとやれ!」だの「エリートさんは使えねえ」といったセリフばかりだった。当時の私は、極端な考えだとは思いながらも、「引越し屋とは分かり合えない」と割り切ってバイトを辞めた。もちろん、今の私は、引っ越し業をしている人にいい人が多くいることも知っているし、RとK以外で仲良くなれた社員もいた。
 しかし、この経験がきっかけで、前からうすうす感じていた「人類皆兄弟というのはウソだ」という思いが確信に変わった。そして、人生の限られた時間、全員と分かり合う努力をするよりも、自分に合った人を求めることに時間をかける方が重要だと考えるようになった。

 それから始めたバイトは、私の通っていた一橋大学の学生が代々継承していた植木屋での助手業務である。家族経営の植木屋で、学生たちが数人一緒に、朝から夕方まで、職人が刈った芝や伐採した枝をビニールシートに移し、トラックの荷台に載せていく。このバイトは卒業するまでの3年半、気持ち良く続けることができた。
 もともとその植木屋は、伝統的に一橋の学生を雇い続けており、バイトの学生が卒業する時には「誰か後輩を紹介してよ」と頼んで、その流れを脈々と続けていた。したがって、「こいつはウチに合う」と判断された人間だけが紹介・採用されるため、「分かり合える人同士」の世界になり、心地良く仕事ができる。


 いや、こういう人でも、ちゃんと誠実にコミュニケーションをとろうとすれば、「わかりあえる」はずですよ!
 ……と、言いきれるでしょうか。
 僕は正直、まったく自信がありません。
 「他の国の人を差別するなよ!」とか説得するほど積極的な善人でもないし。


 もちろん「こんな人」ばかりじゃないのは百も承知です。
 でも、「こういう人なら、関わらない、あるいは見下しても仕方が無い」のか。


 なんのかんの言っても、社会で生きていると、周りにいるのも同じような環境の人たちになりがちなんですよね。


fujipon.hatenadiary.com

 以前、「いわゆる底辺高校」でのこんな話を読んだことがあります。

生徒の学力は驚くほど低い。この高校では、定員割れすると中学からの成績がオール1でも入学できる。高校入学まで、小学校低学年レベルの学力のままで放置されている生徒が相当数いる。そのため、教師は1から100まで数えさせるといった補習授業をするのである。順番に数えていけば数えることができても、では「五五の次はいくつ?」と聞くと、10%の生徒はできない。


 これを紹介したとき、「本当にそんな高校生がいるのか?自分の周りではそんなの見たことも聞いたこともない」というコメントがいくつか返ってきました。
 そして、僕も、そういう高校生は見たことがなかったのです。
 でも、これは想像上の存在ではなくて、他の書籍や先生の話からも、現実に起こっていることです。
 僕には見えない、あるいは見ようとしていないところに、「そういう現実」が存在しています。


 その一方で、救急外来で薬を大量に飲んだとか、酔っ払って喧嘩をして怪我をした、という若者たちを治療しようとしたら、いきなり「お前らみたいなエリートに、俺たちの気持ちなんかわかるか!」と食ってかかられて、どうしろっていうんだよ……と、いたたまれない気持ちになることもあるのです。
 そんなの東大医学部とかで言ってくれよ、とか思ったりもするんですけどね。
 社会の本物のエスタブリッシュメントからすれば、当直とかしている勤務医なんて「駒」なのになあ、一睡もせずにこうして働いていて、そんなふうに言われると、もう全部イヤになるよ……でも逃げられないんだよ……
 うーむ、個人的な愚痴ばかりになってきましたね。


 「みんなが幸せになるための」の「みんな」は、誰のことなのか?
 そこには、自分が気に入らない「風俗とパチンコ屋の話しかしない、中国人を差別する人々」を含むのか?
 もちろん、理念としては「含む」のが正しいんですよ。僕もそう思う。
 ただ、そういう「実際に生きているひと」を見ようとしないで、「かわいそうな人を助けてあげる」というような上から目線になってしまうのが、相手を傷つけるのではなかろうか。


 そもそも、エリートの側も「シェークスピアモーツァルト吉本隆明が通じない連中」とどう接していいかわからないし、彼らの好戦的にみえる態度に怯えている。
 同じような人どうしでかたまってしまうのは「自衛」でもあるのです。
 それが本当に「自衛」になるのかはさておき。


 たぶん、「分断」というのは、ある国や地域にあるものではなくて、一人一人の心の中にすでにあるものなのです。
 アメリカだけが「分断」されているのではない。
 そして、「分断」から自由な人間というのは、たぶん、いない。
 そんななかで、他者とどう付き合っていくのか、自分をどう律していくのか。
 なんて言うと格好いいけれど、僕自身は「もうなるべく余計な付き合いはなくしてしまったほうが楽になるんじゃないかなあ」なんて考えてしまうんですよね。


 ああ、これが「孤立主義」なのか……
 トランプさんをいちばん嫌っているはずの人たちが、実際は「もっともトランプ的な思考」をしているのかもしれない。