いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

山里亮太さんは、罪を犯したのだろうか?


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山里さんは、「毒舌」や「当意即妙な返し」で評価されてきた芸人なのですが、自伝『天才はあきらめた』でも、けっこう赤裸々に、自らの妬み嫉みや相方へのパワハラ、そして、飽くなき努力を語っています。


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山里さんは、吉本総合芸能学院NSC)で最初にコンビを組んだ相方のことを、こう振り返っています。

 僕はクズです。本当にどうしようもない男です。先に言います、ごめんなさいM君。
 これから話すのは思い出話として話すというよりも、捕まった犯人が自供するような感じになると思います……。
 コンビを組んでくれたM君に対してとった僕の行動はまさに暴君だった。コンビというのは対等でなきゃいけないはずなのに、ネタを作っているというだけで相当上から目線になってしまった。僕は、それはそれは無理難題、理不尽極まりないことをM君にし続けた。
 例えば、M君は滑舌が良くなかったのだが、その中でもラ行が弱かった。聞けば、巻き舌ができないということだった。そこで近所の墓場に呼び出し、座っている僕の前立ちながら巻き舌をひたすら練習するというのを半日やらせた。
 なぜ墓場なのかもわからない。M君はひたすらルルルルと言い続けた。もしもここが「北の国から」だったら、キタキツネが数百頭集まるくらいルルルル言わせていた。
「なんでやねん」だけを3時間言わせたときもあった。ほかにも、バイトを休ませてまで、僕が選んだお笑いのビデオを数十本見せ続けたり、故郷の三重から彼女が来た日に急に呼び出してネタ合わせを入れデートをつぶしたり、1日30個のブサイクいじりワードの宿題を課したり、遊びに行ったらその先でのエピソードを必ず10件作ることを要求したり……。まだまだあります。ここらへんで1回挟みます。
 M君本当に申し訳ない。


 山里さんは「自分にも他人にも厳しい人」であり、「努力もしない、才能もない他人は切り捨てることも厭わない人」でした。
 少なくとも、「みんなに愛される好人物」ではなかった。
 でも、「面白い」から、売れたし、評価もされるようになったのです。
 売れたことによって、輝いてみえるような気もします。
 「ねたみ」「そねみ」みたいなのも、山里さんは、自分の「コンテンツ」にしてきたのです。
 まあ、芸能界って、何か特別なものがないと生きていけない世界ではありますよね。
 普通のこと、政治的に正しいことばかり言っていても、誰からも求められない。


 『テラスハウス』での山里さんは、制作側が山里さんを起用した目的を忠実に果たすような、毒のあるツッコミを入れていたように見えます。
 求めに応じて、「いい仕事をしていた」とも言えそうです。
 しかしながら、誰かに対する反感を煽ったり、「この人には悪口を言っていいんだ」というトリガーになったりするような発言は、「制作側から求められた役割だから」「台本に書いてあるから」という理由で、「無罪」になるのかどうか。


 ちょっと話が飛躍しすぎてしまうのですが、ナチスアウシュヴィッツユダヤ人殺害に関与した人たちも、「総統の命令だから」「任務を拒否すれば自分が処罰されるから」という理由を述べていたそうです。
 人は、それが自分の「役割」だとされていたり、偉い人に命じられたりしたことであれば、内心では揺れながらも、残虐なことをやれてしまうものなのです。


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 この「生体解剖事件」の第一回目の手術の状況について。
 アメリカの飛行士は、麻酔をかけられ、必要のない肺の切除を行われたのです。
 当時の日本の医療技術では、「片肺を切除する手術」は技術的に困難とされていました。

 鳥巣は初めて不審の念を抱いた。肺の切除をやる必要があるのだろうか? しかし手術中はみだりに自分の意見を出すことは許されない。手術中必要な処置は手術者の命令によってのみ行われる。この命令服従の関係は患者の生命に関わることであるので、医師にとっては絶対的なものであった。それに石山教授は肺手術の権威でもある。切除すべき根拠があるにちがいない――。
 飛行士はみるみる弱った。そこに代用品である海水が注射され、飛行士は持ち直したかに見えた。石山は佐藤大佐に向かって、
「ただ今飛行士に注射したのは海水溶液の代用血液です。このように、非常に効果があります」
と説明した。
 ついで縫合に入った。手術終了である。
 片肺を奪われた飛行士はまだ生きていたが、今にも呼吸は止まりそうである。飛行士の右側にいた鳥巣はとっさに胸の下部に両手をあてて人工呼吸を試みた。医師としての衝動的動作だ。だが、それは無駄なことだった。飛行士の右側に立っていた小森見習士官が、すっと手を伸ばし、自ら縫合した糸を切りほどいて傷口を再切開したのだ。「生かしておくわけにはいかなかった」と後に語ったという(佐藤吉直供述書)。
 鳥巣は悟った。これは実験手術だ!


 当時、九大の助教授(現在の准教授)だった鳥巣さんは、全部で4回行われた「人体実験」のうち、1回目はそれが「人体実験」であることを知らないまま手術室で助手を務め、2回目はあえて遅れて手術室に入ったものの、乞われて最低限の手伝いのみを行ないました。
 「医者が、医学部でこんなことするべきではない」と石山教授を諌めたものの(教授が絶対的な権力を持っていた当時の医学部では、極めて勇気がいることだったと思います)、受け入れてはもらえず、3回目の手術は意図的にサボタージュを行ない、4回目は家の事情で病院内にすらいませんでした。
 にもかかわらず、戦後に行われた裁判では「自殺してしまった石山教授に代わって、責任者として絞首刑になる」役割を押し付けられようとしたのです。
 他のみんなが極刑を免れるために。
 鳥巣さんは、元来善良な人物だったのか、「自分の関与が乏しい」ということを知っていたがために甘く考えていたのか、「みんなを守る」ための証言に終始し、絞首刑を宣告されてしまいます。
 妻の蕗子さんをはじめとする関係者の奔走もあり、最終的には、なんとか減刑されることができたものの、僕はこの奥様の献身に感動するとともに、「あの時代には、こんなふうに、自分がやってもいないことの『責任』をとらされた日本人が、大勢いたのだろうな」と考えずにはいられませんでした。
 A級戦犯の裁判のことは、いまでも話題になるのですが、B級戦犯に関しては、「敵国への負の感情」を押し付けられ、従容として死んでいった無実、あるいは軽微な罪の日本人がたくさんいたのです。
 だからといって、鳥巣さんが「幸運」だった、と言うつもりはないのだけれど。
 この本のなかで、鳥巣さんは「ただランプ持ちをしていただけの大学院生が10年の刑になった」と妻に語っておられます。
 だから自分は、満期まで刑を勤めるべきなのだ、自分は、その大学院生よりは「状況を動かす力がある人間」だったのだから、と後悔しながら。


 この本を読みながら、「僕がその場にいたら、どうしていただろうか?」と考えずにはいられませんでした。
 少なくとも、今の僕であれば、積極的に人体実験を推進することはないと思う。
 でも、教授に「手伝え」と言われたら、「嫌です」と言えるだろうか?
 「こんなことはやめましょう」と諌言できるだろうか?
 職場を負われるリスクや、軍部に睨まれる可能性もある。
 当時は「日本の連合艦隊には飛行機がない」という「事実」を発言しただけで、3年の懲役を食らった例もあったそうです。
 しかも、「この敵兵の犠牲で、より大勢の人の命、それも同胞の命が救われるのだ」という、「解釈」があれば……
 「731部隊」の責任者は、その実験の資料と引き換えに、戦犯として告発されることから逃れた、と言われています。
 この「九大生体解剖事件」にも、「ちゃんとデータをまとめておけばよかったのに」という医師たちからの声があったそうです。
 人間にとんでもないことをさせるのは「悪意」ばかりとは限りません。
 むしろ、「狂った善意や正義」こそが、大きな犠牲を生みやすい。



 誰かに「理由」をつくってもらえば、あるいは、自分の生活や日常が脅かされる危険があれば、人は、けっこう簡単に残酷になれる。
 というか、前回も書きましたが、山里さんのツッコミは、木村さんにだけ特別激しかったわけではなかったように思われます。
 相手の打たれ強さによって、同じツッコミがセーフになったりアウトになったりするのは、正当な量刑なのだろうか。
 ツッコミの強さ、激しさを定量化するのは至難なので、「結果で判断するしかない」ということなのでしょうか。


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 結局のところ、最大の問題は、個々の出演者ではなく、「常ならぬ人」をやり玉にあげて、みんなで面白がったり、責めたりする「リアリティショー」とか「バラエティ」という仕組みであり、それをつくっているテレビ局と喜んで「炎上」に参加する視聴者にあると思います。
 「容赦なく他人をバカにしたり、責めたりできる」というのを楽しいと感じる人は多いし、リアリティショーは世界中で人気になっています。木村さんにも、そこでもっと有名になりたい、プロレスに興味を持ってもらいたい、という「目的」があった。プロレスラー、ヒール(悪役)というバックボーンがあって、多少のバッシングには負けない自信もあったのではなかろうか。
 でも、実際にそのバッシングを食らってみると、予想以上にダメージは大きかった。


「山里さんのせいじゃない」と言いかけて、僕は口をつぐまずにはいられませんでした。
じゃあ、アウシュヴィッツにしても、生体解剖にしても、今回のテラスハウスの件についても、「その状況に置かれたら、ほとんどの人は同じことをするのだから、直接害を加えた人に罪はない」と言っていいのか?
 そうなると、どんなひどいことでも「システム化」してしまえば、誰も責任をとらなくてよいことになり、やりたい放題になってしまうのではないか。
 実際は、そういう「場の圧力」に抵抗できる人って、ほとんどいないのです。
 リアリティショーで、「特定の出演者へのバッシングはやめましょうよ」なんて言っても、そのシーンがカットされ、そのコメンテーターに今後お呼びがかからなくなるだけでしょう。

SNSは向き合い方はそれぞれバラバラ。答えが出せないと思う。今回のことを受け、何をするべきなのか、これから何を考えるべきか、何していくべきかっていうことを、これからずっと一生かけて考え続けていこうと思っています。やっぱり、難しいことなんだけど、言葉をお仕事としてさせていただく人間として、これからずっとずっと考え続けていくって思っています」


 と、山里さんは「困惑・混乱している」ことを告白しています。
 

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 「通訳」というのは、基本的には「お互いが言葉のやりとりをするための道具」のような存在で、誤訳などのときには責任が問われることはあるけど……という存在だと僕は思っていました。
 ところが、著者が出席した「戦争と通訳者」という2015年に立教大学で行なわれたシンポジウムで、武田教授がこんな「通訳者の受難」を紹介していたそうです。

 武田氏の話をまとめると、第2次世界大戦では通訳者(台湾・朝鮮出身者、日系アメリカ・カナダ人も含む)も戦犯として起訴された。信じられないことに死刑になった人もいる。起訴・有罪の理由は、捕虜・現地住民の虐待・拷問・殺傷、通訳しなかった(捕虜の発言を上官に伝えなかった)、虐待や拷問をしていた部署に所属していたなどである。「上官の命令で通訳しただけ」は通じなかったのだ。また、一般に通訳は「黒子」に思われているが、戦争の場では、直接捕虜に接し、上官の「悪魔の言葉」を伝えるため、「可視性」があるのだという。戦争時の通訳は、諜報・情報、プロパガンダ、捕虜の対応、休戦交渉、占領、戦犯裁判などにおいて、きわめて重要な役割を担う。と同時に大きなリスクも負う。複数の言語を解することで、敵からも味方からも信用されず、スパイ、裏切り者の烙印を押されがちである。

 
 なんで「上官の言葉を通訳しただけの人」が、そんなに重い罪に問われるのか?
 そんなのおかしい、と思いますよね。
 でも、今の世の中でも、誰かの言葉をわかりやすく翻訳し、代弁しているだけの「通訳」が責められていることって、けっこう多いのではないかと、僕は感じているのです。


天才はあきらめた (朝日文庫)

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九州大学生体解剖事件――70年目の真実

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