いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

13年ぶりの『アバター』で、40年前に小学校で観た映画を思い出した。


 先日、『アバタージェームズ・キャメロン 3D リマスター』を観てきた。
 2週間限定上映、ということで、もう観ることはできないのだが、けっこう評判は良かったので、新作公開前にもう一度上映される可能性はあるかもしれないし、DVDやブルーレイ、配信サービスでも観ることはできる。
 3Dじゃなくても、十分楽しめるのではなかろうか。
 僕は久しぶりに3D映画を観たのだが、3D眼鏡をかけるときに、なんだかすごくワクワクした。子どもの頃、学習雑誌の付録に「3Dメガネ」という赤青のフィルムが貼られたメガネがついていたのを思い出した。


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 13年ぶりに『アバター』を観て感じたのは、アメリカ人にとって、入植者(開拓民)がネイティブ・アメリカンを追い詰めていったというのは、忘れられない「歴史」なのだな、ということだ。
 以前のブログを見返してみると、13年前の感想でも同じようなことを書いていた。


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アバター (吹替版)

アバター (吹替版)

  • サム・ワーシント
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 この映画が、歴代興行収入第1位で、多くの人が、先住民族の弾圧に憤りを感じたはずなのに、世界は13年前とあまり変わっていないように思う。それがフィクションの限界なのか、それとも、少しずつでも世界を変えてきているのか。

 
 今回、『アバター』を観て、もう40年前くらいのことを思い出した。
 『アバター』と直接の関係があるわけではないのだけれど、なんとなくどこかに書き留めておきたくなったのでここに。


 当時小学生だった僕は、学校のイベントとして、講堂で映画を観ていた。
 その映画は、こんな物語だった(もう昔の話なので、ディテールは全然違うかもしれないが、だいたいこんな感じ、ということで勘弁していただきたい)。

 江戸時代のある村は、領主の厳しい年貢の取り立てで、村人は常に貧しい、ギリギリの生活を送っていた。
 主人公の女の子は、そんな村の農民の家で育ち、いつもお腹をすかせていた。

 ある年、飢饉で作物が少なく、村人は食べ物がなく、飢え死にするものも出ていたが、領主は年貢の取り立てを緩めようとはしなかった。
 子どもたちが飢えているのを見かねた村人たちは、示し合わせて、領主の蔵から年貢米を盗み出して、子どもに食べさせることに成功した……はずだった。
 盗んだ犯人を役人たちが捜索したのだが、村人たちは皆、口をつぐんで誰がやったか白状することはなかったのだ。

 
 ところが。
 はじめて、白いご飯をお腹いっぱい食べた主人公の少女は、手毬をしながら、思わず「おいしいご飯を食べられて嬉しかったこと」を歌ってしまう。
 それを偶然耳にした役人が、少女の両親を捕らえ、処刑してしまった。

 ひとりぼっちになった少女は、つぶやく。
「雉も鳴かずば撃たれまいに」(余計なことを言わなければ禍を受けることはなかったのに)。


 かわいそう、というか、いたたまれない話だ。昔の日本では、こんなひどいことが当たり前のように行われていたのか……と子供心に怖くなった。
 しかし、救われない映画だな。


 ここで映画は一時停止された。
 そして、先生が僕たちの前でこんな話をした。

「みんなに、これから、この映画の続きを見せます。ただ、この続きは、現実には起こらなかったことです。それは知っておいてください」


 続きが上映された。

 主人公の女の子の悲嘆に応えてくれたのか、森の動物たちが暴れ始め、大雨で大洪水が起こり、強欲な役人や庄屋たちはみんな押し流されてしまった。天罰を受けた、のだ。


 その「天罰」で、僕の溜飲が下がったかと言われると、まったくそんなことはなかった。
 あんなふうに先生にあらかじめ水を差されては、「ざまあみろ」というよりは、「なんでわざわざ現実にはありえないような復讐劇(ハッピーエンド、とは言い難いだろう)を付け加えたのだろうか?」という疑問のほうが、ずっと大きかった。
 おそらく、親が処刑され、女の子が残されて終わりだと、子どもたちのトラウマになるのではないか、小学生に見せるには残酷すぎる物語なのではないか、と制作側は考えたのだろう。

 それならそれで、注釈を入れずに、「悪いことをすると、こうなりますよ」みたいな教訓話として、そのまま上映すればよかったのではないか、とも思うのだが、当時(1980年くらい)には、まだ教育界にも左翼的な思想が強かったのかもしれない。そのまま先生の注釈抜きで続きを観ても、それはそれで納得できなかった気もするし。
 子どもは子どもなりに「世の中そんなに甘くない」と思っていた記憶がある。

 先生たちにとっては、見せたくない「ご都合主義の結末」だった。でも、子どもたちに見せないわけにはいかなかった。
 なんだか、すごくスッキリしない記憶として、この映画のことはずっと忘れられないのだ。


 あらためて考えてみれば、『アバター』という映画は、まさにこの僕が観た40年前の「教育映画」と同じようなストーリーであり、最後に「奇跡」で主人公側は救われる。
 そして、これまでのアメリカの、人類の歴史において、新しい兵器や道具を持って、先住民を追い出した事例は枚挙にいとまがなく、ほとんどの場合、先住民は抵抗の末に抹殺、あるいは同化政策という名の吸収をされて滅んでいる。

 「奇跡」が起こるのは、エンターテインメントの世界だけなのだ。
 でも、だからといって、ナヴィたちが最新兵器にあっさり絶滅、屈服させられるような物語は、観客を戸惑わせるだろう。
 アメリカ人は、どういう気分で、『アバター』を観ていたのだろうか。観客としては主人公やナヴィたちに感情移入するのかもしれないが、彼らは侵略者の大佐の側の子孫なのだ。

「人類を敵に回すのか!」

 もし同時代に生きていたら、ジェイクの行動を僕は「当然のこと」として受け入れるだろうか?

 
 現実が残酷すぎるから、せめて、フィクションの中では「ハッピーエンド」を見せてほしいというのは、僕にもよくわかる。
 僕自身も、そういう気持ちで、「なろう小説」のアニメ化作品を観ているし、現実と混同するというよりは「これはこれ、気分転換」だと割り切っているつもりだ。
 でも、ハッピーエンドになるフィクションによって、とりあえず溜飲を下げ、現実の残酷さから目を背けている、と言えなくもない。

 ああ、子どもというのは、人というのは、忘れてしまったほうがラクになることばかり、記憶に遺してしまうものだな。


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