いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

それでも、正しい告発が、人を幸せに、ラクにするとは限らない。


anond.hatelabo.jp


 『はてな匿名ダイアリー』のエントリなので、これが事実かどうかはわかりません。まあ、ネットの記事なんて、そう言いはじめたらキリがないものではあるけれど。僕が書いているものだってそうです。「偏っている」「スポンサーの意向が反映されている」「フェイクニュースだ」と批判されがちなマスメディアは、「事実率」の高さ(そして、それが大原則とされている)という点では、重んじられるべきではあるのでしょう。
 ただ、この「特定の人物へのエロ写真コラージュによる大学のサークル内でのハラスメント」のような話は、冗談として流されたり、もみ消されたりしたものも含めれば、少なからず起こっているのではないか、とは思います。

 僕は、フェミニズムの是非について語るつもりはないのです。
 というか、「男女平等」は現代の常識であり、「それが正しいこと」が前提となって現代社会は回っている。

 個人的には「女ばかりが損をする。良い仕事をさせてもらえない」と言っているのと同じ人が「男らしく、しっかりしなさいよ」と口にしているのを目の当たりにして、心の内で「どっちだよ!」ってツッコミを入れることはあるし、「イケメン」はノープロブレムなのに、女性の容姿の美醜を男性が語るのはNGというのも「非イケメン」としては不公平に感じてもいます。
 世の中には、「人を見かけで判断するな」という圧をかける人もいれば、インスタグラムで誰々さんが美貌・美脚を披露し絶賛の声!みたいなネットニュースも乱立しています。

 そういえば、「自由と平等は両立するのが難しい」と誰かが本に書いていたなあ。
 もう15年くらい前にアメリカの病院に見学(文字通りの「見学」で、何時間か案内してもらっただけ)しに行ったときに、その有名な病院の外来担当医の枠は、性別や人種それぞれの割り当て数が決まっている、というのを聞いて驚いたのを思い出すのです。
 それでは、有能であることよりも性別や人種が優先されることもあるし、患者の不利益にもなるのではないか?
 そのとき案内してくれた人は、「そうしないと、もともと『有利な条件』になりやすい白人男性医師ばかりになってしまうから、今は過渡期として、そういう方針を貫いているのだ」と説明してくれました。
 それはそれで理にかなっているのだけれど、その一方で、なぜ、われわれの前の世代が過去の割を食わなければならないのか? これまでの格差を清算するための「逆格差」を受け入れなければならないのか、という疑問もあったのです。

 こういうのって、結局、正解がない問い、なのでしょう。
 僕は男性として50年生きてきて、正直、女性がどう感じながら生きてきたか、わかっているとは思えない。
 (今は男性だってわからないけれど)夜、一人で暗がりを歩いて帰る、というだけで、人生に致命的なダメージを負うリスクがある、という理屈はわかっても、実感はできていません。


 冒頭のエントリをみていて、この本のことを思い出しました。

fujipon.hatenadiary.com

 
 この本を読みながら、僕は「セクハラとは何か?」ということよりも、「なんて人間というのは孤独なんだろう……」ということを考えずにはいられなかったのです。

 日本で「セクシャル・ハラスメント」という概念を広めるきっかけとなった「福岡事件」の被害者「原告A」こと晴野まゆみさんは、当時のことを、このように述懐しておられるそうです。

 晴野は自己を「分裂」させて奔走していた。原告A子は透明人間であったり、晴野まゆみであったり、無数の女性の象徴にもなったりした。一方の晴野まゆみ本人は原告A子になることもあれば、支援団体のメンバーとして原告A子を支え、そしてフリーライターとして働く日々も過ごしている。何の疑問も抱かずに、晴野は様々な場面で求められるキャラクターに「変身」してきた。
 ところが、ある一言が粉々に晴野を打ち砕いた。
 それは編集長の証言がよれよれになってきた頃のことだった。ひょっとすると、いいところまでいくのではないかと誰もが漠然とした期待を抱いていたが、そんな時期に交流集会が開かれた。
 集会終了後、茶話会が開かれ、傍聴者と支援団体の交流が行われた。メンバーの紹介役を務めた女性は一人一人の役割を傍聴者に説明していたが、晴野のところに来ると言った。
「そして、この人が何もしない被告」
 晴野は耳を疑った。冗談のつもりだったのかもしれないが、やはり晴野の心は深く傷ついた。それは、ある意味で支援者の言ったことが当たっていたからだった。原告A子は透明人間だった。姿も形も見えない人間が「何かできる」はずがない。それに、晴野はフェミニズムの知識が皆無だったため、支援団体の中では「意識の遅れた」「勉強をしなければならない」存在だった。
 それに何より、晴野は弁護料を支払っていなかった。全ては弁護士の「無料奉仕」と支援団体のカンパに頼っていた。しかも、この裁判は晴野のものではなく「全ての女性」のために行われているというのだから、確かに晴野は「何もしない被告」なのだ。結局のところ、晴野を傍聴者に紹介した団体のメンバーは、本人は意図しなかったかもしれないが、必要なのは「原告A子」であって、それが晴野であるかどうかはどうでもいいと言ったに等しいのだ。晴野、もしくは原告A子は、フェミニズム論者の担いだ御輿にすぎなかった。それは紛れもない事実であって、それを思い知らされたから晴野は傷ついたのだった。
 だが、晴野はあふれ出そうになる気持ちを必死に抑え付け、とりあえず何事もなかったように振る舞った。とはいえ、心の中にぽっかり穴が開いたようになってしまった。


 社会運動というのは、「誰かを助ける」ということがきっかけにはなるのだけれど、運動が広がっていくにつれ、「個人の問題ではなくなっていく」傾向があるのです。


 冒頭のエントリでは、そんなコラ画像をつくって、しかもみんなに見せていたというヤツが、悪いに決まっています。

 ただ、男性ばかりのコミュニティで、こういう「恥ずかしいことを共有することによって絆を深めようとする同調圧力」というのは、僕の時代にもたくさんあって、僕はそういうのが好きではなかったし、自分が主体になることはなかったけれど、「そんなことするなよ!」と注意したり、告発したりするような勇気もなく、ただニヤニヤして何も言わずにやり過ごすことが多かったのです。

 これを告発した増田さん(『はてな匿名ダイアリー』の書き手)の先輩は、本当に偉い人だと思う。
 「まあ、男なんてみんなバカなんだから、放っておけば」みたいな態度のほうが「揉め事を起こさない」のかもしれないけれど、そういう「面倒なことを回避し、問題を先送りする」ことが、負の歴史を持続させてきた、とも言える。
 
 とはいえ、この増田さんのような事例では、増田さんはどう振る舞っていいのかわからず、先輩に対して複雑な気持ちになるのもわかるような気がするのです。

 以前、僕が働いていた職場で、あまりにも残業時間が多すぎるので、ちゃんと手当を出してほしい、と訴えた研修医がいたのです。
 その人は、大変優秀で、まさに身を削って働いていたのですが、あまりにも「サービス労働」が多すぎる、このままでは、これからここで働く後輩たちがかわいそうだ、と一念発起して告発したのです。

 その人の働きぶりを知っていた周囲の人たちは、最初はみんな応援していました。
 そうだよね、研修医だからといって、あんなに働かされて、残業代も貰えないなんておかしいよね、って。

 ところが、公的機関からの調査が入り、上層部が責められ、そのことに対する周囲へのヒアリングや、みんなが集まっての義務的な会議が頻回になるにつれて、風向きは変わっていきました。

「みんな今まで同じようにキツイ思いをして修業したのに、この病院も医者という仕事も自分で選んだんだろ?」
「俺たちの若い頃は、まともに給料も出ないのに、もっと働いていた」
「あいつの残業代のために、なんで俺たちがめんどくさい会議やヒヤリングに駆り出されるんだ……」

 結局、その人の主張はほぼ認められ、数百万円くらいの過勤手当が支払われ、以前は認められなかった残業手当がみんなに支払われるようになりました。
 ただし、「月30時間までね。あとは……わかっているよね」と僕も釘を刺されましたが(それも、もう10年以上昔の話です)。

 それで、その研修医がみんなに感謝されたかというと、大変優秀だったにもかかわらず、「揉め事を起こす、めんどくさいヤツ」として、いくつかの病院から受け入れを渋られたとのことでした。
 おかげで、その病院の労働環境は改善されたのだけれど、僕がそこで働いていた時期には「なんか変わったヤツがいたよなあ」とみなされていて、誰も「感謝」はしていなかったのです。

 多くの人は、一時期は「正しさ」に熱狂できても、自分に面倒なことが降りかかると、一気に冷めてしまう。


 増田さんの先輩は、「自分のつらい、悔しい思いを後輩にはさせたくない」という善意から、告発に踏み切ったのでしょう。
 先輩がやったことは、正しい。
 それに対する大学側の処分も、「それはサークル全体のせいではなくて、その男のせい」だとしても「写真のサークル」ということも考えると、解散は妥当だと僕は考えます。
 ただ、それぞれが「正しいことをしようとした」結果として、増田さんは大学に行きづらくなり、サークルは解散し、犯人は企業の内定が消え、先輩は孤立してしまった。
 こういう事例によって、後の世の中は「そんなコラ写真とか、他者を傷つけるし、作成した自分にとってもリスクが高いし、誰も幸せにならないから、絶対にやめよう」と学ぶはずです。
 しかしながら、直接の被害者たちが救われたとは言えそうにない。
 そもそも、この話、登場人物は誰も救われてはいない。


 先輩は「自分の悔しさ、悲しみを自分の代で断ち切るために」告発した。
 でも、「後輩という他人だからこそ、助けてあげなければ」という善意が、その対象になった増田さんには重荷になっている。

 正しくない、許せないことではあるけれど、大ごとにしないでやり過ごしていたほうが、自分にとってのダメージが少なかったのではないか?
 先輩は自分のことを思ってやってくれたはず。でも、結果的に自分は(たぶん)されたくない注目をされることになり、不快な面はあったが自分に良くもしてくれた人たちを「オーバーキル」してしまったのではないか?

 善意でやってくれた人を「憎む」「嫌う」べきではないし、その人が正しいことをしたのも頭では理解している。
 でも、だからといって、自分はずっと、「あなたのおかげです」と感謝し続けなければならないのか?
 それが、良い現在には、つながっていないにもかかわらず?
 先輩のその後をみると、自分は「先輩が本来やりたかったこと」を実現するために使われてしまったのではないか?
 いや、あれが「きっかけ」だったのか?

 こういうのって、増田さんも先輩も悪くない、というか、正しいことをしたはずなんですよ。
 それでも、正しいことが、人を幸せに、ラクにするとは限らない。
 そういうときに人間がとれる態度は「世の中こんなものか」と呆れ、諦めるか、ひたすら「自分の信念を貫く」しかない。
 そして、報われなかった「正しさ」は、人を頑なにし、「善悪二元主義」に陥るきっかけにしやすい。

 人間というのは「その人は悪くないに決まっているのに、不幸な結果を背負って、責任を感じてしまう」ことがあるのです。
 たとえば、戦争や大きな災害で、多くの人が亡くなり、自分が生き残ると、「なぜみんな死んで、自分だけが生きてしまったのか」という自責の念に駆られることがある。
 そんなの理不尽だ、あなたが生き残ったからといって、あなたが悪いわけがない、と周りは言うのだけれど、そういう感情は、本人にとっては消しがたいものなのです。


 僕に言えるのは、「他人が幸せかどうか、考えても仕方がない」ということしかありません。
 ずっと傍にいる存在でなければ、なおさら。
 半世紀生きて痛感しているのは、「人間というのは、やりたいことと、自分がやるべきだと判断したこと(やらなければならないこと)しかやらない」ということなのです。
 
 もし、その「やるべきこと」が、人類や特定の人種を滅亡させるとか、金を稼ぐために人を騙す、とかいうのであれば、危機回避のためにその人の行動を制限せざるをえませんが、そういう類の行為でなければ、本人の価値観・判断に任せるしかない。
 先輩がいま幸せかどうかはわからないけれど(そもそも、僕は自分自身が本当に幸せだと言い切る自信もないんです。ものすごく不幸、ではなかろう、というくらいで、それはたぶん満足はできないが、納得せざるをえない状況だと思っています。何が幸せかなんて、自分自身で完全にわかっている人は実際は少ないと思う。これおいしい、とかこの曲いい!っていう瞬間はあっても)、先輩は、そういうふうに生きることになっていた人なのだと思いますし、他人が過剰に責任を感じる必要はありません。増田さんが頼んだわけでもないし。
 
 もちろん、気にはなるだろうし、折々に思い出すことはあるだろうけれど、増田さんに対しては「それはそれとして、増田さん自身の幸せな時間がなるべく多くなるように生きる」しかないのだと僕は思います。

 僕はなんでも自分のせいのように考えてしまう習慣があって、ここに至るまでに、半世紀かかったわけですが。
 そして、これが正解なのか、あるいは「正解っぽくみえる卑怯者の処世術」なのかもわからないのだけど。

 人間って、加害側にとってはちょっとした悪戯のつもりとか、衝動的な行為だったのに、誰かを大きく損なってしまうことがあるのです。わかったようなことを書いているけれど、僕だって、思い出したくないことがこれまでの人生でたくさんあります。加害側としても、被害側としても。

「人が嫌がることをやらないように」
 小学校の道徳の時間かよ、という言葉だけど、そうやって生きるのは、本当に難しい。


fujipon.hatenablog.com

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