いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「ある進学校の異常な風習」が終わらない理由


anond.hatelabo.jp


 高校普通じゃない伝統行事、というのをみて、恩田陸さんの『夜のピクニック』を思い出したのですが、このエントリを読むと、「一晩歩き続ける」みたいなのは牧歌的なんだな、という気がしてきます。
 『フルメタル・ジャケット』に近いよなあこれは。
 こんなおかしな風習が、なぜ続いているのだろう、そもそも、進学校ならなおさら、「権利意識を持っていて、時勢の変化に敏感な学生」が多そうだし、誰か保護者に注進して、問題になりそうなものではありますよね。
 このエントリへの反応も「なんでそんな時代錯誤(というより、異常、としか言いようがないですよね)な風習が続いているんだ?」というものが多いようです。


 あらためて考えてみると、こんなにみんなが「おかしい」と思うものも、なかなか変わらないんですよね。
 世の中には、こういうものがけっこうたくさんあるのです。
 「新人いじめ」みたいなものを「伝統行事」として持っている組織は、現代でもけっこうあるんですよね。
 それも、「不良の世界」ではないところで。



町山智浩さんの『激震! セクハラ帝国アメリカ 言霊USA2018 USA語録』という本のなかで、こんな話が紹介されています。

 ハーヴァードやスタンフォードなど世界のトップ大学でもヘイジング(新人いじめ)問題は起こっている。「最近の若者は……」と時代のせいにもできない。今から140年前の1873年、やはり名門のコーネル大学でヘイジングのために死んだ学生は35人に及ぶ。1961年から今年までヘイジングで一人も死ななかった年はない。
 今年9月、ルイジアナ州立大学フラタニティ友愛会の寮)で18歳のマックスウェル・グルーヴァ―君が先輩にギリシャ語のアルファベットを書くよう言われて、間違うためにウォッカを飲まされ、急性アルコール中毒で死亡した。警察はフラタニティの学生10人を過失致死罪で逮捕した。だが、有罪になるかどうか。ペン・ステート大学の学生も起訴されたが裁判では事故死とされ、無罪になった。 名門フラタニティはレイプ事件でも頻繁に訴えられているが、裁判ではなかなか負けない。なぜなら、彼らは金持ちの有力者の息子が多く、裁判に強い弁護士を雇える。またエリートだから法曹界や政財界にはOBが大勢いて、卒業後も結束固く自分のフラタニティをサポートする。アメリカの支配階級にはフラタニティ出身者のネットワークが存在する。それは日本の学閥どころの騒ぎではない。ここ100年ほどの歴代最高裁判事の85%、上院議員の76%、経済誌フォーチュンのトップ500企業の経営者の85%が、そして歴代大統領の6割がフラタニティ出身者なのだ。だから学生は名門フラタニティに入るために命をかける。
 しかし大事に育てて、せっかくいい大学に入った息子を殺されて誰も裁かれないのでは親としてはたまったもんじゃない。


 冒頭のエントリには、

僕の入った高校は「国際人育成」のようなことをスローガンに掲げている。後輩や部下を怒鳴り散らすような人が、世界に通用するだろうか?

と書かれています。
 その通りだと僕も思う。
 
 でも、ハーヴァードやスタンフォードでも、こんなことをやっているのです。毎年人が死んでいても、彼らは(というよりは、彼らの親世代や卒業生たちは、かもしれませんが)、これを「伝統」とか「必要な通過儀礼」だとみなしているのです。
 そして、生き残った人たちは、「世界に通用している」ということになりますよね。
 

 僕はメジャーリーグに上がった新人選手が、周囲の選手たちに変な恰好をさせられるという通過儀礼をみて、「なんでこんなことをやる必要があるんだ」と、ずっと思っていたのです。
 でも、当事者たちも、それを伝えるメディアも、それは「微笑ましい伝統」だと思っているようにみえます。
 冒頭の『夜のピクニック』だって、「危ない」し、 一晩だけそんなことをしても、体力が劇的に向上するとは思えません。
 世の中には、美化されている理不尽は、まだまだたくさんあります。


fujipon.hatenadiary.com


 ただ、こういうふうに「みんなで恥ずかしいことをする」「みんなできつい目にあう」と、そして、自分自身もうそれをしなくて良い立場になると、それを「成功体験」ととらえたり、一緒にきつい目にあった人たちへの仲間意識を高めたりすることができる、と考えられているのも事実なんですよね。

 
 ものすごく低いレベルでいえば、僕なども、就職してすぐのころ、新人仲間で歓迎会の芸出しをやらされたことを今でも覚えています。それがようやく終わったあと、みんなで異様な高揚感に浸って、酔いつぶれてしまったのだよなあ(もう四半世紀くらい前の話です)。
 「緊張と緩和」は、人間を「何かを成し遂げたような気分」にさせやすいのです。


 恥ずかしい体験やきつい体験の共有というのは、組織にとって必要なことだ、メリットがある、と考えている人は、今の世の中でも、少なくないと思うんですよ。
 そこには「自分たちはこんなにひどい目にあったのに、後輩は無しになるのは、ちょっと納得いかない」というような感情もあるのだろうし、そういう気持ちはわかる。

 誰かが断ち切らなければならないのだろうけれど、アメリカのフラタニティのように、歴史が積み重なるほど、やめるきっかけを見出すのは、難しくなるのです。
 せっかく、苦労して名門進学校に入ったのに、もう、自分はその通過儀礼を終えてしまったのに、わざわざOBに喧嘩を売るような改革をやるのって、ものすごく勇気がいることだと思う。
 きつい体験って、それをくぐり抜けてきた人たちは「正当化」したくなるものだし。


fujipon.hatenadiary.com


 高校野球の名門(だった)PL学園の厳しい先輩・後輩の上下関係は、卒業生のプロ野球選手がバラエティ番組などで話していることもあり、よく知られています。
 新入生は3年生の「付き人」として野球の練習の際だけではなく、ふだんの身の回りの世話もしていたのです。

 後輩は先輩に対し「はい」「もしくは「いいえ」でしか答えることが許されず、先輩の前で白い歯(笑顔)を見せることも御法度だ。こういう付き人制度がいつの時代にできあがったものなのかは、清水やプロ野球に進んだOBに訊いてもわからなかった。10期生の中村順司の学生時代はどうだったのだろうか。中村は自身の入学当時を、こう振り返った。


「同じです。私も『はい』と『いいえ』でしか答えることは許されなかった。先輩のユニフォームを洗濯するのも当たり前。食事の用意をし、先輩が食事している間は横に立っていなければならかった。ただ、1960年代の高校の寮生活というのは、どこの高校もそんな感じだったんじゃないかな。僕らの時代では当たり前のことでした。
 ということは早創期から既に、厳格な上下関係は存在したということだ。
 全国屈指の強豪へと成長していく過程において、いつしか野球部員の寮生活には次の不文律ができあがっていた。
「三年神様、二年平民、一年奴隷」


 そこまでして、PLで野球をやることにこだわらなくても……と思うのですが、その一方で、PL学園からプロ野球に行って活躍した選手が多いのも事実です。
 ヤクルトスワローズ2000本安打を達成した宮本慎也選手は、高校での三年間を振り返って、こんな話をしたそうです。

「今の時代には、ふさわしくない伝統だとは理解しています。しかし、PLの三年間……というより、一年生の一年間を乗り切れたからこそ、社会に出た時にどんな苦境にも耐えられる。いや、社会における理不尽なことなんて楽勝なんですよ(笑)。毎日、三年生のお世話が終わり、ホッとすると、夜中なのに同級生と研志寮の屋上で隠れてお菓子を食べたりしていました。見つかったら大事だし、疲れ切っているんだから少しでも寝りゃあいいのに、それが幸せの時間でね。“今日も生きてた”って、今の時代にはふさわしくない上下関係ですが、だからといって僕らの時代まで否定してほしくない」


 実際に、その厳しい伝統に耐え抜いた人は、「時代に合わないことはわかっていても、自分がやってきたことを否定されたくない」と思うのです。
 そこで、悪しき伝統を断ち切れる人は、よほどの英雄か変人でしょう。


 もしこの増田さん(冒頭のエントリを書いた人)に「どうすればいいと思いますか?」と相談されたとしたら、僕だったら、インターネット的には「なんらかの方法で『告発』したらいいよ。隠し撮りして動画をさらすとか、親経由でクレームを入れるとか」と言うかもしれません。
 でも、親戚の子どもに同じことを相談されたら、「気持ちはわかるけど、もう君の順番は終わったのだから、せめてこんな風習の執行者になることだけは避けるようにして、あとは口をつぐんでおいたほうがいい」と助言すると思います。
 僕自身も、そうやって生きてきたから。


 最近、インターネット上で展開される「正しさ」が現実ではほとんど機能していないことに、虚しさを感じてもいるんですよね。
 なんで、ネットではこんなにみんな良いことを言っているのに、現実は動かないのだろう、って。


 それでも、少しずつ世の中は良い方向に変わっていっているはず、多様性が認められ、理不尽が駆逐されているはず、と思いたいのだけれど。


永遠のPL学園?六〇年目のゲームセット?

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夜のピクニック(新潮文庫)

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