長年『BEEP!』を愛読し、セガハードをマーク3からドリームキャストまで所有し続けていた僕にとっては、大変感慨深い記事でした。
なぜセガはハードの争いに勝てなかったのか?
2022年に振り返ってみると、必然の敗けのように思えてしまうのだけれど、あの戦いをリアルタイムで追っていた僕は、任天堂も、ファミコン、スーパーファミコンの大成功のあと、ニンテンドー64で「カセットで遊べる」ことにこだわったがゆえに(ソニーとの決別、というのが大きかったとはいえ)、ニンテンドー64、ゲームキューブと長い間低迷していたことを記憶しています。
Wiiの大ヒットで蘇ったものの、WiiUはいまひとつで、しばらくはDS、3DSという携帯用ゲーム機頼みだったんですよね、任天堂。
スイッチでまたナンバーワンの地位を築いていますが、ゲーム業界は栄枯盛衰が激しいのです。
セガも、結果的には、ずっとナンバーワンにはなれなかったのだけれど、もし『ファイナルファンタジー7』がプレイステーションではなくサターンで出ていたら……とか、サターンの『バーチャファイター2』が、もう少し早く発売されていたら……、ドリームキャストの初期の生産台数がもっと多くて、スタートダッシュをかけられていたら……とも「セガっ子」としては考えてしまうのです。
「シリーズものを育てる、続けていく」というのは、ブランドの確立にためには重要である一方で、業績が伸び、シェアが取れているときは評価されても、結果が出なければ「また続編かよ……」と批判されることも少なくありません。
『64』『GC』の時代の任天堂は、まさにそういう状況だったわけで。
この元社長の回顧録によると、セガは、もともとアーケードゲーム中心のメーカーだっただけに、開発者たちも、家庭用ゲームよりもアーケードを重視していたところがあったようです。
(家庭用ゲーム機「SG-1000」が発売された1983年)当時、コンシューマーの需要は、まだそれほど大きくなかった。セガにとっては業務用が保守本流なのだ。業務用のビジネスは、まだうまくいくかどうかわからない。SC−3000は1台の販売価格が3万円で、出し値が2万円。2万円を1万台売ったって2億だ。業務用の機械、たとえばダービー(競馬のメダルゲーム)を1台売ったら1500万円。粗利で500〜600万円になる。それに比べたら、全然、傍流というか、支流にもならない程度のものだ。
だから、家庭用の開発部門の陣容は非常に貧弱だった。人をまわしてくれと要望しても、やってくるのは部署で要らない人間ばかり。一種の吹きだまりだ。そういう連中がほとんどで、人数もSC−3000やっているころは5、6名程度だった。開発関係を私がやって、それを管掌していたのが、任天堂から引き抜かれてきて当時は専務だった駒井徳造さん。駒井さんの下にもう1人いて、社内のこの3人と、社外のフォスター電機を使って進めていた。SC−3000もそれなりに数が出そうだねということで、営業の人間だとか、製造管理とかで、ちょこちょこと人を集めたけれど、それでも10人に満たなかったと思う。
セガは、ずっとハード事業にこだわってきた会社なのだけれど、「家庭用ゲームの自社開発力」では任天堂にかなわなかったし、サードパーティを集める力は、ソニーに圧倒されていたのです。
(SG-1000が)16万台も売れたのは、任天堂のファミコンの余波のおかげ、としかいいようがない。
というのも、SG-1000はソフトが面白くなかった。
たとえば、1983年には「ボーダーライン」「N-SNB」「コンゴボンゴ」「スタージャッカー」「チャンピオンベースボール」「シンドバットミステリー」といったゲームが出ているが、どれもぱっとしない。 この中でセガ自身が作ったものは「スタージャッカー」くらいだった。ほとんどは、業務用を元にして、SG-1000への移植を外注に出したものなのだが、あがってきたものはどれも出来が悪かった。
音の同期が取れていないため、セガからライブラリを提供した、などというのはまだましな方だ。なかには、ショー当日の朝、10時ぐらいから始まるというのに、9時くらいに来て「できました」みたいなこともあった。
枯れ木も山の賑わいというが、枯れ木ばかりの枯れ山だ。
もうすぐ70歳になろうとしている著者は、「もう時効だろう」ということで、歯に衣着せずに話しておられるのだと思いますが、長年のセガファンだった僕は、これを読んで、「ああ、この人たちは、自分たちで『つまらない』と思っていたものを知らん顔して売っていたのか……」と、今さらながら、ムカついたんですよ。
当時の僕らはセガのゲームに期待し、世間がファミコン一色のなかで、応援していたのに……
任天堂のゲーム開発者であれば、たぶん、いま、同じように語る機会があっても、「自分たちとしては、やれるだけのことをやったものを売っていた」と言うのではなかろうか。それが、100%の真実ではないとしても。
セガは、業務用では高性能のハードで、高品質のゲームを出すことにこだわっていたため、ハードの性能が劣る家庭用ゲーム機では、「まあ、スペックが劣るハードだから、しょうがないよね」と妥協してしまう傾向があった、とも著者は述べています。
「セガは何でも自分でできてしまうのでサードパーティが入ってきにくかった」という話も出てきます。
著者は、サターンとプレイステーションが覇権を争っていた時代、半年に一度くらい、ソニーの久夛良木さん(プレイステーションの生みの親)と2人きりで食事をして、さしさわりのない範囲で情報交換をしていたそうです。
そんな中で久夛良木さんに、「秀樹ちゃんね、俺に勝てるわけないじゃない」といわれた。「半導体どっから買っているの? 日立から買っている。ヤマハから買っている、CD-ROMはどうしている? みんな買っているでしょ。日立から買うってことは、日立も利益出しているでしょう。カスタム品にしても何にしても、うちは自分で作っちゃう。工場もあるもんね」。
ソニーは全社の売上が3兆円ある。さまざまなハードを作っているから、CD-ROMを自前で手配できる。中新田あたりにどでかい工場があって、そこでオーディオ機器を作っている。半導体の工場も持っている。そこのラインにのっけてしまえばコストのストラクチャーが全然違う。
「だから秀樹ちゃん。もう半導体なんかやめなさい」といわれた。ソフトだけやるのであれば、ソニーとしてもそれなりに優遇するから、と。
セガも、コストダウンのためにさまざまな努力をしていたことを著者は証言しています。
しかしながら、家庭用ゲーム機に必要なパーツのほとんどを社内で調達できるソニーに比べると、外注するしかないセガは、あまりにも不利でした。
そして、セガには、宮本茂さんも横井軍平さんも、岩田聡さんもいなかったのです。
ゲームソフトも、ひととおりのものは自社内で開発できてしまうがゆえに、サードパーティに思い切って「任せる」ことができなかった。
アメリカからみた、セガと任天堂の闘いを描いた、こんなノンフィクションもあります。
1990年代のアメリカにおける、セガと任天堂の戦いを関係者への綿密な取材で描いたノンフィクション。
日本では、プレイステーションの登場まで、家庭用ゲーム機の市場は、ほぼ任天堂「一強」で、それに対するゲームマニアの砦のような感じで、メガドライブ(アメリカでは「ジェネシス」)やPCエンジンなどが存在していたわけですが、アメリカ市場では、この「ジェネシス」が、任天堂のスーパーファミコンよりも売れていた時期があったのです。
日本では苦戦続きだったジェネシスを、彼らはどんな戦略でアメリカで売ったのか、そして、任天堂はそれに対して、どう対抗したのか。セガは覇権を握ったように見えたにもかかわらず、なぜ、急速にシェアを落としていったのか。
大ブームとなったにもかかわらず、つまらないゲームの粗製濫造によって凋落した『アタリ』を教訓に、任天堂はメーカーごとに年間制作本数を制限したり、発売に値するクオリティかどうかを審査するシステムをつくります。
それによって、ゲームの質はある程度担保されることになったのですが、そんなふうにして「自由度が奪われる」ことに対するメーカーの不満も高まっていったのです。
『ソニック』ブームや若者にアピールする広告戦略で任天堂を上回るシェアを獲得したセガですが、1992年頃から、任天堂陣営は巻き返しをみせてきます。
だが、何にも増して任天堂の復活を可能にしたのは、同社のゲーム体験を特徴づける「良質のゲーム」へのこだわりだった。タイトル数ではいまだにセガの後塵を拝していたが、任天堂のソフトも急ピッチで拡充されつつあった。しかも同社の観点からすると最悪、そこそこ、平均点以上という質的にもばらばらなソフトの寄せ集めにすぎないライバル企業のラインアップと異なり、任天堂のゲームはいずれも一定以上の品質水準をクリアしていたのだ。これはセガと任天堂の間に横たわる根本的な違いをよく表していた。セガは一部のゲームが標準以下の品質だったり、奇抜すぎたり、暴力的だったり、あるいは内容が性的すぎたりすることを特に問題視しなかった。セガはあくまでも選択肢を与えることの重要性を信じており、何が良いゲームで何がそうでないかは最終的には消費者が判断すべきだという哲学を信奉していたのだ。対照的に、任天堂はこの自由放任主義に反対の立場を取り、ソフトの評価プロセスでもっと主導権を発揮すべきだと考えていた。厳しいルールの下で管理される開発サイクルから、ゲームを中心に展開されるマーケティングまで、任天堂は小売、日常業務、流通を管理するのと同じやり方で創造的なプロセスを管理しようとした。
「管理」という言葉を多用しすぎれば、いつか突然「ビッグブラザー」が姿を現すのではないかという不安を招きかねないが、任天堂の動機によこしまな意図はまったくなかったことは強調しておく必要がある。同社はむしろ、良い意味での「兄貴分(ビッグブラザー)」の役割を引き受け、幼い弟が誕生日や歯が生え変わる時にもらったお小遣い、あるいはリビングの長椅子のクッションの間から見つけた小銭を無駄遣いせず、貴重なゲーム体験を得られるように世話を焼こうとしたにすぎない。このようにゆっくりと着実に顧客層との信頼関係を築く手法は、今すぐにでも『ソニック・ザ・ゲッジホッグ』を入手したい消費者にとってはまるで無意味かもしれないが、任天堂はセガのゲーム機を買った人々も何度か駄作をつかまされれば必ず見方を変えるはずだと信じていた。
これを読みながら、ゲーム機の世界でも「歴史は繰り返す」のだな、と考えていました。
アタリの失敗をみて、ゲームソフトの品質管理を重視した任天堂と、それに対して、「自由と多様性」をアピールしたセガ。何が面白いゲームなのか、過激な表現なのか、というのは、人それぞれ違うわけで、「任天堂が決めた枠は狭すぎる」という人も少なくなかったのです。
しかしながら、「自由で多様」には、「低品質なもの、(子ども向けとしては)過激なもの」も含まれてしまうのです。
あまりにも粗製濫造されると「ハズレ」を引いてしまって失望するし、品質管理を徹底すると「画一的」にみえる。
結局、このふたつの方針を交互に繰り返しながら、歴史は(たぶん)前に進んでいるのです。
アメリカ市場でハード戦争を大きく左右した人気ゲームのなかに、日本ではそれほど大きな話題にはなっていない、というか、むしろ「ネタゲーム」扱いの『モータル・コンバット』が入っていたり、『ドンキーコング・カントリー』(日本では『スーパードンキーコング(スーパーファミコン版)』)が特大ヒットしていたり、というような市場性の違いを感じるところも多々ありました。
ニンテンドースイッチはPS5の慢性的な品薄もあって、いまのテレビゲーム業界で独走を続けているのですが、「ミリオンセールスクラスの大ヒットしているゲームは任天堂の続編ゲームがほとんど」という問題を抱えてもいるのです。
パソコンでは、広大なインディゲームの世界もできあがっています。
この本では、任天堂が家庭用ゲーム機での『テトリス』の権利を得るまでの駆け引きが描かれているのですが、ゲーム業界もきれいごとだけでは済まない「ビジネス」の世界であることがわかります。テンゲン(セガ)版の『テトリス』、メガドライブミニに収録されて話題になったのですが、任天堂、とくにゲームボーイの立ち上げの時期に『テトリス』が果たした役割を考えずにはいられません。
家庭用ゲーム機のメーカーとしては全く実績がなかったソニーからみた「プレイステーション立ち上げの記録」も上梓されています。
fujipon.hatenadiary.com
プレイステーションの「勝因」について、セガのすごいゲームを作り続けた、ゲームアーツ・宮路洋一代表取締役は「敵側」から、こんな分析をしています。
宮路:我々はセガサターン向けにソフトを供給していたわけですが、プレイステーションが次世代ゲーム機戦争に勝った最大の理由は、「流通革命」だったと思います。ファミコンの頃から、抱き合わせ販売とか、品切れるとす数カ月供給されないとか、さまざまな問題があったにも関わらず、プレイステーションが出てくるまでは一切改善されていなかったのが、「注文すれば1週間後に商品がお店に届く」というビジネスモデルを確立したところはさすがだと思いました。セガサターンも同じCD-ROMだったのに、1週間での納品は無理でしたね。
インタビュアー:CDの生産工場をソニー・ミュージックが持っていたからですね。
宮路:それに加えて、お店と直販体制を取ったことで、お店は無用な在庫を持たなくても済むようになった。お店からの支持はもちろん、ゲームメーカーの営業サイドの支持も得ることができたわけですよね。CD-ROMだったのに、それまでにあった任天堂の流通を使ってしまったことがSEGAの敗因のひとつだったと思います。
「われわれは、『ゲームの質』でプレイステーションに負けたわけではないのだ」という宮路社長の矜持が伝わってくるようなインタビューなのですが、たしかにこの「流通革命」が、プレイステーションの勝利に果たした役割は大きかったようです。
こうして、さまざまな情報を総合して考えると、「セガはゲームの質のばらつきが大きく、(とくに初期には)アーケードゲームに比べて家庭用ゲーム機への熱意が乏しく、ソニーのようになんでも自社内でまかなえるほど大きな企業ではなかったために、コストダウンや流通の面で不利だった」。そして、任天堂のように駆け引き上手でもなかったのです。
こういう「内側からの話」を読むと、セガは『三国志』でいえば蜀のようなもので、個々のゲームの質が劣っていたから敗れた、というよりも、「経済力に差がある相手に無謀な戦いを挑んで、負けるべくして負けた」のであり、むしろ、不利な状況のなかで、よくあそこまで頑張った、と評価すべきなのかもしれません。
そういうセガの姿に、僕などはものすごく惹かれていたのです。
ビデオはベータ、野球はカープ、ゲーム機はセガ(ファミコンも持っていたけれど)。
むしろ、劣勢だったからこそ、ファンとしては思い入れが深いというか、応援せずにはいられなかったところもあるわけで。
今の「スイッチが覇権を握っている時代」も、後世からみれば、「任天堂がそんなに強かったときもあったんだねえ」と言われる可能性もあるのです。
僕はどこまで見届けられるのか、なんてことを考えてしまうのですが、Amazonでこんな商品を見かけて、「高校生の頃、友達とアルバイトをして『アウトラン』の筐体を買おう」って言っていたことを思い出しました。
こんな時代を生きているなんて、40年前は夢にも思わなかったよ(これは良い意味で)。