いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

糸井重里さんは、なぜ、「責めるな。じぶんのことをしろ。」と呟いたのか?



 糸井重里さんのこれらのtweetに対して、けっこう痛烈な批判(自分たちはこんなに苦しいのに、唯々諾々と政府の言うことを聞いていろ、というのか!というような)が集まっていたのです。
 もちろん、糸井さんを擁護というか、賛同する声も少なからずあったわけですが。


togetter.com


 僕は正直、「そんなに炎上するような発言なのだろうか、文脈的にも、『政府に逆らうな』なんて言っているわけでもないのに」と思っていたのです。
 でもまあ、みんなこの状況にかなり困窮していたり、苛立っていたりしているし、政府の対応も後手後手に回っている感は否めません。
 「消費社会の申し子」みたいな存在であり、「世界一のクリスマスツリー」という企画で、「やらかした」実績もある糸井さんが、そういう不満のはけ口になってしまったのかな、とも考えていました。


www.j-cast.com


 雉も鳴かずば撃たれまい……

 僕が糸井さんを強く批判する気になれないのは、『MOTHER』というゲームをつくってもらった恩、みたいなのを感じているからなのかもしれないし、「結局、資本主義社会の人間にとってのもっとも身近な娯楽は消費(買い物)ではないか」と思っているからなのかもしれません。
 

 みんなそこまで言わなくても……しかし糸井さんも同じような「批判者を批判する」ことで炎上を繰り返していて、信念に殉じているのか懲りないのか……


 最近、以前読んだこの感想を読み返す機会があったんですよ。


fujipon.hatenadiary.com


 これ、糸井さんのこれまでの人生について、古賀史健さんがインタビューしてまとめた本なのですが、そのなかに、こんな話が出てくるのです。


 大学時代に学生運動に傾倒していたものの、結局、幻滅して離れてしまったことについて。

 内側から見た学生運動は、いまで言うブラック企業と同じ構図ですよね。
 つまり、「おおきな理想を達成するためには、多少の犠牲は厭わない」という発想が、組織全体を覆っている。デモ隊の先頭で血を流す人ほど認められるし、うしろにいた人は彼らに借りができたような気になって、今度は自分が先頭に立とうとする。やがてお互いが貸し借りの鎖でつながっていって、逃げられなくなっていく。
 そして段々と「ことば」が重くなってくるんです。
 おおきな、重たいことばばかりが、まわりを飛び交うようになる。
 なぜかというと、「命」が軽いからですよ。人は「命」を軽く扱おうとするとき、それをごまかすために「ことば」を重くするんです。実際そのころには、機動隊との衝突が激しくなって、いつも「死」が近いところにありましたし、内ゲバもはじまっていましたしね。
 そういうなかにいて、少しずつ「ああ、おれには無理だな」と思うようになりました。
 最大の理由は、先輩たちを尊敬できなくなったことです。それこそ「横暴な国家権力に対抗して、毅然と振る舞う若者たち」がぼくのあこがれだったわけだけれど、見たくないところをいっぱい見ちゃった。自分たちのカツ丼代を、カンパで集めた「闘争資金」から払っていたりとか、そういうみみっちいところでもね。群馬から出てきた純朴な男の子からすると、それだけでもショックですよ。
 これはコピーライターになったあともそうだけれど、ぼくは「みっともないこと」が、ほんとうに苦手なんです。自分はそれをしたくないし、それをやっている仲間や先輩を見たくない。


 この本でも紹介されているのですが、糸井さんは、2011年3月11日の東日本大震災のあと、同年4月に、こんなツイートをされています。

「ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、『よりスキャンダラスでないほう』を選びます。『より脅かして無い方』を選びます。『より正義を語らないほう』を選びます。『より失礼でないほう』を選びます。そして『よりユーモアのあるほう』を選びます」


 学生時代の「ことばが重くなり、命が軽くなっていく現場」での経験もあって、糸井さんは、これを呟いたのだな、と感慨深いものがありました。


 少なくとも、糸井さんは「国家権力の犬」ではないし、「安倍首相を擁護して、みんなに黙れと言っている」わけではない、と僕は思います。
 自らの学生運動での経験から、「反権力」を強い言葉で訴え、みんなを焚きつけてきた人たちが、そのあと、どうなっていったのかを見てきた経験から、「追いつめられているときだからこそ、強い言葉を疑い、自分をしっかり保っておかないと危ない」と言っているのです。

 実際のところ、「社会運動」というのは世の中を良い方向に変えてくれる(ことがある)一方で、当事者が置き去りにされたり、そこでリーダーになった人たちが「権力者化」して、正義の名のもとに、ついてきた人たちにさまざまなハラスメントを行ったりすることもあるのです。


mainichi.jp



『セクハラの誕生』という本のなかに、こんなエピソードが出てきます。
fujipon.hatenadiary.com

 「福岡事件」の被害者「原告A」こと晴野まゆみさんは、当時のことを、このように述懐しておられます。

 晴野は自己を「分裂」させて奔走していた。原告A子は透明人間であったり、晴野まゆみであったり、無数の女性の象徴にもなったりした。一方の晴野まゆみ本人は原告A子になることもあれば、支援団体のメンバーとして原告A子を支え、そしてフリーライターとして働く日々も過ごしている。何の疑問も抱かずに、晴野は様々な場面で求められるキャラクターに「変身」してきた。
 ところが、ある一言が粉々に晴野を打ち砕いた。
 それは編集長の証言がよれよれになってきた頃のことだった。ひょっとすると、いいところまでいくのではないかと誰もが漠然とした期待を抱いていたが、そんな時期に交流集会が開かれた。
 集会終了後、茶話会が開かれ、傍聴者と支援団体の交流が行われた。メンバーの紹介役を務めた女性は一人一人の役割を傍聴者に説明していたが、晴野のところに来ると言った。
「そして、この人が何もしない被告」
 晴野は耳を疑った。冗談のつもりだったのかもしれないが、やはり晴野の心は深く傷ついた。それは、ある意味で支援者の言ったことが当たっていたからだった。原告A子は透明人間だった。姿も形も見えない人間が「何かできる」はずがない。それに、晴野はフェミニズムの知識が皆無だったため、支援団体の中では「意識の遅れた」「勉強をしなければならない」存在だった。
 それに何より、晴野は弁護料を支払っていなかった。全ては弁護士の「無料奉仕」と支援団体のカンパに頼っていた。しかも、この裁判は晴野のものではなく「全ての女性」のために行われているというのだから、確かに晴野は「何もしない被告」なのだ。結局のところ、晴野を傍聴者に紹介した団体のメンバーは、本人は意図しなかったかもしれないが、必要なのは「原告A子」であって、それが晴野であるかどうかはどうでもいいと言ったに等しいのだ。晴野、もしくは原告A子は、フェミニズム論者の担いだ御輿にすぎなかった。それは紛れもない事実であって、それを思い知らされたから晴野は傷ついたのだった。
 だが、晴野はあふれ出そうになる気持ちを必死に抑え付け、とりあえず何事もなかったように振る舞った。とはいえ、心の中にぽっかり穴が開いたようになってしまった。


 このような大きな裁判では、弁護士や支援者の力がなければ、闘っていくことは難しいでしょう。
 その一方で、「被害者個人」は、どんどん象徴化されてしまい、個人の気持ちは、顧みられなくなっていくのです。
 これは、「セクハラ裁判」に限らず、人が何か社会に対して「運動」を起こそうとする際には、かならず突き当たる壁なのかもしれません。
 結局、その裁判に勝っても、被害者が救われることはない。
 そういう立場になってしまうことそのものが「絶望的な不運」なのだろうか、と考えずにはいられないのです。
 そして、その「不運」に共感し、ともに闘おうとしてくれたはずの人たちも、どんどん「自分の信念」のほうが、かわいくなってきます。
 この本の後半で語られている、晴野さんと支援者たちの「断絶」は、「セクハラ裁判」だけにみられるものではないはずです。


www.bengo4.com


 正直、いま、新型コロナウイルスへの感染予防対策によって、収入がなくなり、生活に困窮している人が大勢いるなかで、「生活に困っているとは思えず、ちょっと贅沢で高めの値段の商品を売りさばいている」糸井さんの発言としては、軽率だと思うんですよ。

 でも、糸井さん自身が若い頃に学生運動で見た、体験したこと、そして、「反権力、反体制を訴える『立派だったはずの人』たちに幻滅した」という背景を知ると、「誰かの『強い言葉』を信じて、その駒にされてしまうよりは、まず自分でできることを考えて、やったほうがいい」と訴えたくなる気持ちは理解できるのです。

 ただ、前述のセクハラ裁判のように、「ひとりでできることなんて、限られている」のも事実ではある。
 だから、いろんな渦に巻き込まれていくなかで、「自分が所属している組織の考え」を鵜呑みにするのではなくて、「自分がいま居る場所から見えているもの」を忘れないようにしていくのが大事なのではなかろうか。


 まあ、これも「僕の考え」でしかないんですけどね、所詮。
 僕だって、糸井さんが常に正しいなんて思ってはいませんし。
 でも、「あいつの言うことは間違っている!」と責め立てる前に、「なぜそういうことを考えるようになったのか?それには理由なり合理性なりがあるんじゃないか?」と立ち止まってみることは、こんな時期に自分の心を守るために役立つはずです。

 人間って、自分がキツイとき(あるいは、相手のことが嫌いなとき)には、他人の言葉や行動を「悪く解釈しすぎる」傾向があるのです。言ってもないことをこっちで勝手に想像して憎んでも、誰も幸せにはならないのに。


セクハラの誕生

セクハラの誕生

すいません、ほぼ日の経営。

すいません、ほぼ日の経営。

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