僕もニンテンドースイッチの『あつまれ どうぶつの森』を持っていて、たまに遊んでいるのですが、正直、最初のころの「何もない状態でチュートリアルとかを言われたとおりにこなしている」のがめんどくさくて、励んでいるとは言い難い状況です。殺伐としたゲームは好きじゃないけれど、『どうぶつの森』は、僕にとっては作業感が強いんですよね。
長男は『マインクラフト』とか、建築系のゲームが大好きで、一日中ひとつの建物を集中してつくっていることもあるくらいなので、親子とはいえ、違う人格なのだよなあ、とあらためて思い知らされます(長男は画面がぐるぐる回っても酔わないし)。
冒頭のエントリを読んで、僕自身は「頑なに『どうぶつの森』をやらない人」ではないな、と思ったんですよ。このエントリでは、「やってみて合わなかった」人に対してどうこうというのではなくて、「他人に勧められても、全く興味を示さなかったり、プレイしたこともないのに、『あんなの面白そうとは思えない』と否定してしまう」という事例について語っていると思うので。
僕はこれを読んで、自分が中学生の頃の「こだわり」みたいなものを思い出していたのです。
僕はファミコンの『MOTHER』というRPGを頑なに避けていました。
その理由は、「制作者の糸井重里さんが熱烈な巨人ファンだったから」。
物心ついたときから大のカープファンだった僕は、「巨人のまわし者がつくったゲームなんて、絶対に遊ばない!」と固く誓っていたのです。
「鯉と馬を食べない」っていうのもあって(カープと競馬が好きなので)、何で食べないの?と尋ねられると「宗教上の理由です」と答えていました。どちらかというと、「積極的に食べたくもないので、食べない理由にしていた」節もあるのですが。
『ドラゴンクエスト』が出たときには、「あんなファミコンのRPGなんて、マイコンのRPG『ウィザードリィ』や『ウルティマ』のニセモノだろ、オレはファミコンなんかに転ばないぜ!」と思っていたんですよね。
のちに、『ウィザードリィ』や『ウルティマ』に触ってみて、「これは……自分には『ドラゴンクエスト』のほうがずっと面白いのではないか……」と感じたときには、けっこう悲しかったけど。
もっと小さい頃、僕は「かわいそう」で、肉や魚が全然食べられなくて、「焼き鳥にされるのは、『悪い鳥』なのだ」と自分に言い聞かせていました。今から考えてみると、「悪い鳥」って何なんだ、と思うし、そんな存在があるとしても、それを食べたくはないよなあ。
今はその分を取り返すくらいガンガン食べていて、ちょっと申し訳ないくらいなんですが。
それでも、水族館で「美味しそう!」とかいう人をみると、心の奥がチクリ、と痛みます。
大人になると忘れてしまったり、人前では出さないようにしているのだけれども、そういう、他者からは理解してもらいにくい「こだわり」って、それぞれあると思うんですよ。
ここまで僕が書いてきた事例に関しては、当事者である僕にとっても「時間とともに半ばネタとして消化できるくらいのこだわり」なのですが、世の中には、「他人には説明しづらいしこだわりやトラウマ」みたいなものを抱えている人も少なくはないのです。
というか、ある程度の年月生きていれば、誰しも、そういうことのひとつやふたつはあるのではなかろうか。
『人生なんてわからぬことだらけで死んでしまう、それでいい。』という、読者からの人生相談に作家・伊集院静さんが答えたものをまとめた本のなかで、こんなやりとりがあったのです。
35歳女性・会社員からの質問
私の兄は小学生のときに海水浴中におぼれて亡くなりました。私はまだ小さかったので覚えていないのですが、母の悲しみは大変大きく、以降一度も海に連れていってもらえませんでした。ところで先日、小学生の息子に「海で泳ぎたい」と言われて困ってしまいました。連れていってあげたいのですが、同居している両親に悪いように思うのです。私の気にし過ぎなのでしょうか?
この質問に対する、伊集院さんの答えが、すごく印象的だったんですよ。
伊集院さんも20歳のとき、17歳の弟さんを海の事故で亡くされていて、そのことはエッセイでも繰り返し語られています。
「40年過ぎた今でも母は弟の話を、夏が来る度に、口にする」と、伊集院さんは書いておられます。
そんな自らの経験を重ね合わせながら、伊集院さんはこの質問者に語りかけるのです。
さて35歳のお母さん。あなたもお兄さんを20数年前、海で亡くして、あなたもそうだが、祖母さんにとっては決して忘れることのない出来事であり、それ以降、海に連れて行ってもらえなかったのもよくわかる。
祖母さんにとっては二度と同じことをくり返して欲しくないという気持ちだろう。
それであなたは今、母になり、息子さんから「海で泳ぎたい」と言われて、同居している祖母さんのこともあり、ためらっているわけだ。その心境には一理あると思う。
しかしあなたも息子を海で泳がすことはためらうことではない。他の子供たちがそうしていることを、その理由だけで行かせないのは間違いだ。但し、息子にはそういうことが昔、自分の兄さんの身に起こったことをきちんと話をして、よくよく海では注意をして泳ぐなり、遊ぶように言ってきかせて、出してやることだ。子供はその意味が十分にわかるものだ。
さてあなたのお母さんには、海へはなるたけ行かせないようにしているというのがいいだろう。子供にも祖母ちゃんの前では、海に行ったことをなるたけ口にしないようにしなさい、と言っておくことだ。子供はどうしてそれを口にしてはいけないのか。それを口にすれば祖母ちゃんが心配するし、哀しむことになるからと教えるんだ。そうして、それがあなたの子供のツトメで、自分たち家族の事情だと言っておくべきだ。家、家族というものは、その家、その家族にしかわからない事情をかかえていることが当たり前だ。子供にも友達はそうできても、おまえはそうしてはいけない、ということがあるのが世の中だとわからせる第一歩だ。
あなたは気にし過ぎではないか、と言うが、気にしない親が多過ぎる中ではその気持ちはまともだ。でも海水浴に出かけた家族の半分が事故に遭うなんてことはないのだから。
子供は海が好きだし、海は子供にいろんなことを教えてくれる自然の先生なのだから。
ああ、こういうのが大人の答えだよなあ、と思いつつ、読みながら涙が出そうになって困りました。僕も年齢とともに、涙腺がゆるみやすくなって困ります。
『どうぶつの森』で死んでしまう人はいないとは思うのですが、自分にとっては楽しいもの、素晴らしいものであっても、他者にとっては、その人の「こだわり」の対象であったり、こんな悲しい記憶につながっている、ということもありうるのです。
以前、娘さんを車の事故で失ってしまってから、車の運転ができなくなってしまった、というスポーツ選手の話を読んでことがあります。
「海」も「車」も、多くの人にとっては「それなりに注意はしなければならない」という意識はあるのでしょうけど、相手のそういう背景を知らなければ、「なんで子どもを海に連れていってあげないんですか?」「運転できたら便利なのに」と口にしてしまうことはありうるはずです。
こんなに重い話じゃなくても、「人前で水着になるのが恥ずかしい」というのも当人にとっては合理的な「海に行きたくない理由」なんですよ。「自信がある人」は、「そんなの気にしなくていいよ」って言いがちなのだろうけど。
「人には、それぞれの事情がある」
僕は高速道路で猛スピードで飛ばしていく車をみるたびに、イラっとしながらも、「あの人は、今、心臓が止まりそうな親に会うために病院に向かっているに違いない」と思うことにしています。
いや、本当は「そういう状況でも、危ないから暴走しちゃいけない」のですけどね。
自分が楽しいと感じたことを他者と共有したいというのは自然な感情だと思いますし、それを薦めるのは悪いことじゃない。
そうやって、人は自分の世界を広げていくものですし。
ただ、「馬を水辺に連れていくことはできるけれど、無理に水を飲ませることはできない」し、人にはそれぞれ、こだわりや事情もあるのです。
「薦めても、強要はしない(できない)し、相手が興味を示してくれれば儲けもの」くらいのスタンスで良いんじゃないかな。
あつまれ どうぶつの森 完全攻略本+超カタログ (近日入荷情報更新予定)
- 作者:ニンテンドードリーム編集部
- 発売日: 2020/04/28
- メディア: 単行本