いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

作家・伊集院静さんのこと

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 伊集院静さん逝去。
 胆管がんでの休養を発表されたのは2023年10月の終わりだったことを思うと、あまりに早い訃報に戸惑っています。
 それと同時に、他者に極力負担をかけず、最期は夫人と一緒の時間を過ごして亡くなられたというのは、伊集院さんらしいな、とも思うのです。
 73歳というのは、まだまだ活躍できる年齢ではありますし、2020年にはくも膜下出血から奇跡的な回復をみせて、健筆をふるっていらっしゃったのに。
 
 伊集院静さんが書いたものを読むと、僕はいつも亡くなった自分の父親のことを思い出していました。
 もう四半世紀前に亡くなった父は、生きていればもう80を過ぎている年齢で、伊集院さんより年上ではありますが、ギャンブル好き、酒好きで、男は仕事をして稼いできて、女は家を守る、という「昭和の男尊女卑価値観」を持ち続けていた人でした。

 伊集院さんは、他人にも自分にも厳しい人、という印象があって、僕が生まれてからの半世紀の間に、日本が、どんどん「そんなに頑張らなくてもいいよ。無理しちゃダメだよ」という国、そういう態度を取らないと後ろ指をさされる国になっていくなかで、時代の波に立ちはだかるように「簡単に妥協しちゃダメだ。仕事でも人生でも、闘うべきときは、必死に踏ん張らなくちゃいけないときがあるんだ」と言い続けていたのです。

 古い、頑固な人だ、昭和の遺物だ、と自分の父親のことを思い出しながら感じることも多かったのですが、伊集院さんは、相手が誰であろうと、常にそういう姿勢を崩さず、ファイティングポーズをとり続け、人生や周囲の「雑音」に立ち向かっていたのです。
 この時代に「昭和の価値観」を語っても、伊集院静さんだけは、しょうがないな、ずっとこうだものな、と、羨ましさと微笑ましさと古い価値観への反発が入り混じったような気持ちで、ずっと作品を読み続けていたのです。


 伊集院静だから、しょうがない。モテるし、色気のある人だったと思います。
 とにかく、格好いい人だった。亡くなるときに、パートナーにこんな言葉で悼まれるなんて、カッコ良すぎるよ。
 ギンギラギンにさりげなさすぎだよ。

 競輪でボロ負けしてすっからかんになったり、ものすごい愛犬家で、エッセイで愛犬の話を書くときには普段の厳しさの殻が溶けてしまったかのように愛情たっぷりの文章を書いたりされていて、チャーミングな人でもありました。


 僕が読んできたなかで、伊集院静さんの心に残っている文章を、3つだけ挙げます。


『逆風に立つ 松井秀喜の美しい生き方』(角川書店・2013)より。
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この本を読んでいると、引退が報じられたとき、ジーター選手をはじめとするヤンキースの元チームメイトから贈られた惜別の声は、リップサービスではなく、本心だったにちがいない、と思うのです。
もしかしたら、ヤンキースという名門の看板を背負ってきたジーター選手のことを心から理解できていたのはほんの一握りだけで、国籍が違っても、松井選手はその数少ないひとりだったのかもしれません。
このふたりの野球人生を振り返ってみると。

 松井選手は、2005年のシーズンを述懐する中でジータのことをさらにこう話している。
 シーズン終盤からプレーオフにかけて、ジータの活躍には目を見張るものがあった。特にチームが戦意を喪失しそうになる場面でよく打った。
「彼への信頼が、さらに強くなりました。ジータというプレイヤーがよくわかってきました。チームを引っ張るところは勿論ですが、踏ん張れる男なんですよ。死に体に見えても、最後まで踏ん張る男なんです。ミスター・ヤンキースですね」
 さらに松井選手は親友をほめちぎった。
「打とうが打つまいが、彼の振る舞いは何ひとつ変わらないんです。自分より常にチームが優先しているんです。自分の影響力の大きさもちゃんとわかってるんです」
 松井選手は素晴らしい友を得たものである。


 苦しいとき、うまくいかないときに、僕はこの松井秀喜さんがジーター選手について語っていたことを思い出すのです。
 どんな仕事でも、ここで、みんなが諦めかけているときこそ、もうひと踏ん張りするのがリーダーのあるべき姿なんだ、と。
 伊集院さんは、プロスポーツ選手とも親交が深く、武豊騎手とも長年の信頼関係にあり、武豊さんと佐野量子さんの結婚式では仲人も務められています。
 その結婚式では「我慢できなくなって仲人なのに式場から逃走して競輪場に行った話」も伝わっていて、僕などは、ついニヤニヤしてしまうのです。
 真面目なんだか不真面目なんだか。



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 伊集院さんのライフワークのひとつともいえる連載エッセイ『大人の流儀』(講談社・2011)には、こんなことが書かれていました。

 それから二十五年後の秋の夕暮れ、私は病院で前妻を二百日あまり看病した後、その日の正午死別していた。家族は号泣し、担当医、看護師たちは沈黙し、若かった私は混乱し、伴侶の死を実感できずにいた。
 夕刻、私は彼女の実家に一度戻らなくてはならなかった。
 信濃町の病院の周りにはマスコミがたむろしていた。彼等は私の姿を見つけたが、まだ死も知らないようだった。彼らは私に直接声をかけなかった。それまで何度か私は彼等に声を荒げていたし、手を上げそうにもなっていた。
 私は表通りに出てタクシーを拾おうとした。夕刻で空車がなかなかこなかった。
 ようやく四谷方面から空車が来た。
 私は大声を上げて車をとめた。
 その時、私は自分の少し四谷寄りに母と少年がタクシーを待っていたのに気付いた。
 タクシーは身体も声も大きな私の前で停車した。二人と視線が合った。
 私も急いでいたが、少年の目を見た時に何とはなしに、二人を手招き、
「どうぞ、気付かなかった。すみません」
と頭と下げた。
 二人はタクシーに近づき、母親が頭を下げた。そうして学生服にランドセルの少年が丁寧に帽子を取り私に頭を下げて、
「ありがとうございます」
 と目をしばたたかせて言った。
 私は救われたような気持ちになった。
 いましがた私に礼を言った少年の澄んだ声と瞳にはまぶしい未来があるのだと思った。


 あの少年は無事に生きていればすでに大人になっていよう。母親は彼の孫を抱いているかもしれない。
 私がこの話を書いたのは、自分が善行をしたことを言いたかったのではない。善行などというものはつまらぬものだ。ましてや当人が敢えてそうしたのなら鼻持ちならないものだ。
 あの時、私は何とはなしに母と少年が急いでいたように思ったのだ、そう感じたのだからまずそうだろう。電車の駅はすぐそばにあったのだから……。父親との待ち合わせか、家に待つ人に早く報告しなくてはならぬことがあったのか、その事情はわからない。
 あの母子も、私が急いでいた事情を知るよしもない。ただ私の気持ちのどこかに――もう死んでしまった人の出来事だ、今さら急いでも仕方あるまい……。
 という感情が働いたのかもしれない。
 しかしそれも動転していたから正確な感情は思い出せない。
 あの時の立場が逆で、私が少年であったら、やつれた男の事情など一生わからぬまま、いや、記憶にとめぬ遭遇でしかないのである。それが世間のすれ違いであり、他人の事情だということを私は後になって学んだ。
 人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている。


 人間は、つねに「自分からの視点」でしか、物事を見られないのです。
 伊集院さんは、人生でもっとも辛かったであろうときの、こんな記憶を書き留めています。

 自分で納得できないことには絶対に妥協しない、というイメージだった伊集院さんなのですが、強面にみえて、本当につらい目にあった人、困っている人、お世話になった人には傲慢にふるまうことはなかったし、自分のつらさを他人にぶつけようともしなかった(プライベートで本当にどうだったか、というのは僕にはわからないけれど)。

「人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている」
 僕はこの言葉を、よく思い出します。

 人間は弱くて、すごく強い。
 伊集院さんは、どうしようもないくらい「人間」だったのだよなあ。



『ひとりで生きる 大人の流儀9』(2019・講談社)では、身近な人の死について、こんなふうに述べられています。

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 弟の死から十五年後、私は前妻の死に直面した。これはコタエタ。何とかもち堪えたのは、半分以上が、七年後に私を家族にしてくれた家人のお陰である。
 今年の春先、大阪でサイン会をした折、近しい人を亡くした人が来て下さっているのに半ば驚いたと書いた週がある。
 弟を、前妻を亡くした時、同じような立場の人が世間に数多くいるのを知った。
 それでもこの頃、私の拙いエッセイを読んでラクになったと言われる。そういうつもりで書いた文章はひとつもないのだが、もしかして私の文章のそこかしこに、別離への思いが見え隠れしているのかもしれない。
「近しい人の死の意味は、残った人がしあわせに生きること以外、何もない」
 二十数年かけて、私が出した結論である。
──そうでなければ、亡くなったことがあまりにも哀れではないか。
 一人の人間の死は、残されたものに何事かをしてくれている。親の他界はその代表であろう。家人と彼女の両親の在り方を見ているとそれがよくよくわかる。


 伊集院さんの言葉には、「昔の価値観だよな、現代には当てはまらないんじゃないのかな」と感じることも多かったのです。
 でも、「こんなことを今の時代に言ったら嫌われる」ことを知っていながら、その「嫌われ役」を「誰かがやるべきこと」として、引き受けていた人のように僕には思われるのです(その一方で、「頑固親父モード」が結果的に熱狂的な読者を生み出しただけなのかも、とも考えてしまいます)。


 同じ本のなかに、こんな一節があるんですよ。

 他の週刊誌で、冗談が半分の悩み相談を引き受けているのだが、去年、そこで若い父親からの相談で、どうも子供の顔付きや、風貌が自分とはあまりにも違うので、DNA鑑定をしたところ、自分の子供ではないことが判明した。
 自分はどうしたらいいのか? 子供にそのことをいずれ伝えなくてはならないと思うが、その時期の云々ということだった。
 私の答えは、こうだった。
「冗談を言いなさんナ。そんなことが子供に何の責任がある。それを知るまできちんと育てて来た気持ちが、たかがそのくらいのことで変わるんなら、親というものが何なのかとまったくわかっちゃいないじゃないか。たかが血が違うくらいで、親と子がおかしくなる道理があるはずはない。
 赤児を最初見た時の、あなたの喜び、誰かに感謝したいという正直な気持ちは何だったのか?
 大人の男として恥かしいと思わないのか。
 第一、そんな鑑定をしようとする気持ちが卑しい。
 赤児は目を開いて、最初に見た人を、その人が、よく生まれて来たネ、という目で見てくれている表情ですべてを理解するものだと私は信じているし、それは何千年も変わることのない親子の絆だ”と答えた。


 この質問者からは、後日、お礼のメールが来たそうです。
 僕はこの伊集院さんの回答を読みながら、うんうん、と頷き、涙が目に浮かんできたのです。
 しかし、親としてあらためて考えてみると、「たかがそのくらいのこと」と言えるような話じゃないですよね、これ。
 むしろ、悩む相談者のほうが、「ふつう」であるように思われます。

 今の世の中って、こういう「悩み」に対して、いろんな角度から分析して、質問者に寄り添って答えようとしてくれるじゃないですか。
 それが、現代のスタイルではある。

 でも、この伊集院さんの回答の力強さに、僕はとても魅かれてしまうのです。
 いろんな角度から物事をみようとして、あなたの気持ちもわかる、それも間違っていない……と、結論が出なくなってしまうよりは、「たかがそのくらいのことで、親と子がおかしくなる道理があるはずはない」と断言してくれる人を、僕は(そして、世の中のたくさんの人は)求めているのかもしれません。

 そして、伊集院静という人は、その人生のなかで辛い別れや理不尽な扱いを経験してきて、だからこそ、迷って、悩んでいる人たちへの「大人のあるべき姿」のロールモデルとして振る舞ってきたのではないかと思うのです。


 妻の西山博子さん(女優の篠ひろ子さん)のコメントに、こんな言葉がありました。

 最期まで自分の生き方を貫き通した人生でした。

 本当に、わがままで、頑固で、怖そうで、そして、すごく格好よくて、チャーミングな人だったと思います。


 ああ、僕の昭和が、また失われていった。
 この人だから許す!作家枠は、もう、筒井康隆さんしか僕にはいなくなってしまいました。

 伊集院静さん、ずっと僕に無茶振りなくらいの「大人」を教えてくれて、ありがとうございました。
 僕も、呼ばれるまで、もう少しこっちで、踏ん張ってみます。

 伊集院さん、きっと今頃、愛犬の「東北一のバカ犬」ノボとようやく再会できて照れ笑いしているんじゃないかな。



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