いつか電池がきれるまで

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『ニューダンガンロンパV3』ネタバレ感想〜なぜ、「超高校級の絶望ゲーム」になってしまったのか?


いちおう本編クリアしました『ニューダンガンロンパV3』。
最初は1日1章、のつもりだったのですが、最後はもう何かに取りつかれたように夜更かししてクリアしてしまいました。
だって、この物語がどういう終わりを迎えるのか、気になってしょうがなかったんだもの。
ちなみに、第5章までは、すごく面白いというか、引きこまれるゲームでした。
超高校級の才能を持つ高校生たちの「コロシアイ」ですから、殺伐としているというか、残酷シーンは満載ですし、子どもには見せたくないような下ネタ(ストーリー上の必然性もない)ばかりではありますが、見ちゃいられない、と顔を覆った指の間から、覗き見てしまうような「背徳感」があるのです。
第1章の展開には、「さすがダンガンロンパ!」と唸るのと同時に、勿体ないな、とも感じてしまいましたが。
そもそも、映画とかアニメとかミステリ小説とか、キャスティングで誰が生き残りそうかだいたい検討がつくじゃないですか。地味で良い人そうだけど、ユアン・マクレガーがキャスティングされているということは「何かある」のだろうな、とか。
アニメなら「脇役のはずなのに有名声優が演じている」とか、小説でも「人物紹介」をみると「活躍の割に大きく扱われているひと」がいる、など。
しかし、『ダンガンロンパ』というのは、そういうプレイヤーの「予見」みたいなものをなんとかかいくぐってやろう、というゲームではあるんですよね。


5章までクリアした時点で、僕はこのゲームのAmazonでのレビューがあまりにも低得点だったことに疑問を感じていました。
そりゃ、多少の操作上の難点や、ストーリーの矛盾もあるけれど、これだけ引き込まれるゲームはそうそうないのに、なんで、PS4版が「2.8点」なの?(2017年1月19日現在)


jin115.com
※いわゆる「まとめサイト」で煽り成分が多々含まれており、ネタバレもあるので御注意ください。
ただ、「評価が両極端」というか、「オチに対して『絶望した!』という人がものすごく多い」のは間違いありません。


で、僕もクリアしたんですよ、最後まで。
うーむ、「こんなところで、『エヴァンゲリオン旧劇場版』の亡霊を目にすることになろうとは……しかも長い、クドい!」と最後は半笑いになりながら「○」ボタンを連打しておりました。
どうしてこうなった……


というわけで、以下はネタバレ感想ですので、未プレイの方は読まないでくださいね。
もう、思いっきりネタバレで書きますので。



本当にネタバレですよ!





ここから先は、本編クリア済み、あるいは、もうこのゲームをプレイする気がない人向けということで書かせていただきます。ご了承を。


さて、問題の第6章、「コロシアイ学園生活」の「首謀者」が明らかになるのですが、それがまた唐突に江ノ島盾子なのは御愛嬌。このへんまでは、またかよ、もうこれ「お約束」ってことだよな、と思いながら進めていきました。
さらに、第1章で「クロ」だったはずの赤松楓は実は犯人ではなく、本当は「首謀者」が犯人だったことが判明します。
そして、この「コロシアイ学園生活」が、もう第53弾(V=5なんですね)で、オーディションで選ばれた「一般人」が、偽りの記憶を植えつけられて「コロシアイ」をさせられている、ということが明かされます。


そう、これまでの『ダンガンロンパ』は、全部「フィクション」だったんだよ諸君。
いやまあ、プレイヤーにとっては、フィクションだというのはわかりきったことなのだけれども、「これが現実だと思っているキャラクターを動かしている」というのが、ゲームで遊んでいる側にとっての「お約束」だったのに。


ところが、第6章では、江ノ島盾子が、ゲーム制作側が、プレイヤーを挑発してくるのです。
「こんな『コロシアイ』がフィクションとして成立しているのは、そういうギリギリの生死の場面を観て感動(あるいはキャラクター萌えなど)を消費する観客(=プレイヤー)がいるからだ」と。
あんたもスキねえ、っていうか、悪趣味だねえ、って、ディスプレイの向こうから、プレイヤーを責めてくる。
そして、参加者たちも、自ら「志願」して、この「ダンガンロンパ」の世界に参加していることが明らかにされます。
なんだこれ、「地獄テラスハウス」かよ!


進めていって思うのが、制作側は、どこまで「本気」でこういう「説教」をプレイヤーに対してやっているのかわからない、ということなんですよね。
ダンガンロンパ』はプレイヤーの予測の斜め上をいくゲームだから、というプライドとか「作家性」みたいなものがあって、そのために「演出」として、これまで作り上げてきた「世界観」をぶち壊しにするような結末を提示したのか。


それとも、「こういう殺人ゲームが大ヒットしてしまう世の中」「次はどんなコロシアイが行われるのかを楽しみにしているプレイヤー」たちに、心底うんざりして、「お前ら現実をちゃんと見ろよ」と訴えたくなったのか。


ゲームをつくっている側として、思入れのあるキャラクターを「コロシアイのために差し出す」ことに疲れてしまったのだろうか、とも考えたんですよね。
非実在青少年」のコロイアイを、コンテンツにしつづけてもいいのか、という良心の呵責とか。


dic.nicovideo.jp


とはいえ、上記リンクでも紹介されていますが、日本の青少年犯罪は、「残酷なゲーム」があっても、けっして増加傾向にはなく、むしろどんどん減ってきており、日本は「より安全な社会」になっているのです。
アダルトものや残酷描写が「ガス抜き」になっているのかどうかは、比較対照試験もできないのでわかりませんが、少なくとも、良い意味での「草食化」は進んできています。


個人的には、こういう「コロシアイ」をつくることに、もう疲れ果てた、もうやめようよこんなの、というのが制作側のメッセージであれば、それは理解できるような気もするのです。
遊ぶ側にとっては、人生においての20時間なわけだけれど、つくる側は、その何十倍、何百倍もの時間をかけて、「残酷に殺されるため」のキャラクターをつくっている。
そのキャラクターに思い入れが深ければ深いほど、「もううんざりだ」と思うのもわかる。


そもそも、多くの人にとって、フィクションとノンフィクションの境目って、自分で思っているほど明瞭なものではありません。
というか、どこか遠い国の、知らない人の死というのは、実際に起こったことでも「フィクション」ですらないし、思い入れのあるキャラクターの死は、きわめて「ノンフィクション」に近い。


でも、この『ニューダンガンロンパV3』の場合は、「こんな予想外のオチにしてやったぞ、どうだみんな、胸糞悪いだろ、『ダンガンロンパ』らしいだろ!」って制作側がプレイヤーをバカにしているような気もするんですよね。
これで続編が出るわけないよな、というくらいの、作品世界の全否定っぷりなのですが(素直に受け取れば「もうこんなゲームはつくりたくない」と言っているようにしか思えないし)、売れたら売れたで、「これも『ダンガンロンパ』なんだよ!」って、あっさり続編を出してきそうな感じもする。


フィクションとノンフィクションの境界についての言及には、頷けるところも多かったんですけどね。


よくできたフィクションって、けっこう現実にも侵食してきます。
僕は子どもの頃、『ハエ男の恐怖』という映画(『ザ・フライ』じゃないですよ。あれはあんまり怖くなかった)のラストを観て以来、ハエを殺すのが怖いのです。もしあのハエが知り合いで「たすけてくれ、たすけてくれー」とか言っていたら、どうしよう……とか想像してしまって。
そんなことはない、って理屈ではわかっているのだけれど、そういう潜在的な「怖さ」みたいなものは消えない。


ただ、だからこそ「こういうフィクション」には意味とか価値があるのかもしれません。


しかしこれ、これまでの『ダンガンロンパ』シリーズも、全部「地獄テラスハウス」でした!って話だからなあ。
この『V3』のオチが何らかの発作で酷くなったのはしょうがないとしても、過去のシリーズまで巻き込むなよ、とは思うんですよね。
過去のシリーズのキャラクターが次から次へと登場して、「これはみんなフィクションでしたー!」って今作の登場人物を小バカにするシーンは、観ていて心底腹が立ち、そして、あきれ果てました。
これをつくった人、どれだけ『ダンガンロンパ』が嫌いなんだよ……


まあ、物語は「ハッピーエンド」で終わらなくてはいけない、ってわけじゃないんだけれど、2時間で観られる映画とか、数時間から長くても1日で読める大概の小説と違って、ゲームというのは、プレイヤーにとってものすごく時間がかかるものだから、気持ち良く終わりたい、というのは他の受動性が高いエンターテインメントより強いのではないかと。


ただ、なんというか、こういう「納得できない結末」だからこそ、記憶に残り、ずっと語り継がれる、という可能性もあるんですよね。
こういう話でよく槍玉にあげられる『アスピック』にしても、さんざん苦労してダンジョンを攻略した挙句にあのエンディング(最後に主人公はラスボスに身体を乗っ取られてしまう)だから、多くの人に「黒歴史」的に語り継がれているわけです。
記憶に残るコンテンツって、どこかイビツだったり、理不尽に感じるところがあることが多いんですよね。
あんまりまとまりすぎていると、のどごしが良すぎて、すぐに忘れられてしまう。
そういう意味では、『ファイナルファンタジー15』なんて、今後、「○○○○ー○様」が伝説化しそう。


しかしこのゲーム、第5章までのデキをみると、第6章も「希望推し」で無難につくってしまえば「ちょっとマンネリだけど神ゲーム」っていう評価になったと思うんですよね。
すごいスタッフが、技術と時間をかけ、豪華声優陣を集めたにもかかわらず、最後の最後にあんな冒険をするって、すごいよなあ、とは思う。
でも、僕も含むプレイヤーの大部分は、「なぜ俺はこんなところで酔っ払ったクリエイターの説教みたいなのを長時間食らっているんだ……」とドン引きなわけです。


まあでもこれ、もしかしたら、なんでも「自主規制」「不謹慎認定」な世の中へのあてこすりというか、「フィクションだって言っておけば、怒られないんだろ!」みたいな挑戦状なのかな……
「こういうのを喜んでしまうプレイヤーの一員」としては、ちょっとキツかったよ。あまりにも最後が冗長で、どうでもよくなったけど。



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