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角田大河騎手、川口ゆりさん、フワちゃん、相変わらずSNSは不穏だ。
角田騎手は、残念な結末になってしまったが、僕自身も角田騎手を批判するポストをしていたので、なんだかモヤモヤしてはいる。
日経平均株価は2000円以上も下がり、騎手が競馬場の芝コースを車で爆走。コロナ激増で疲労困憊している状況でこのカオスな世界線に絶望している。暑さで僕の認知機能が低下しているのか、これは悪い夢なのか?
— FUJIPON (@fujipon2) 2024年8月2日
角田大河騎手に関しては、なんであんなことをしたのか、今でも意味不明だ。
最初は「競馬関係者なのに、競馬場のコース保全の大変さとレースや調教への影響もわからないのかよ!」と憤っていたのだが、普通に考えれば、僕よりもずっと競馬の世界にどっぷり浸かっていたはずの彼がそんなことを知らないとは思えないし、飲酒や薬物、精神的な変調なども考えられる。
もともと精神的な変調があって競馬場のコースをドライブという奇行につながり、最終的には亡くなるに至ったのか、何かの拍子に(例えば同乗者などに悪ぶって見せたくて)、競馬場に突入してしまい、想定をはるかに超えた馬場への影響と社会からの反響に押しつぶされてしまったのかは、僕にはわからない。
彼がやったことは、「騎手失格」であることは、こんな結果になったあとも間違いないと思っているし、さまざまな人の批判がその後の転帰に影響を与えたのは間違いないけれど、だからといって、あの行為を「あなたには直接関係がないことなんだから、いちいちSNSで批判するな」と言うのが妥当だとも思えない。
SNSは批判のためのツールでも、他者を追い込むことが目的の場所でもない、はずだ。
とはいえ、さまざまな社会運動で、今やSNSは大きな効果を発揮しているし、「他者への圧力や批判がない優しい世界」であれば、SNSが社会を変えることも難しいのではないか、とも思う。
「他者に気配りする無難な優しい世界」がどんなに味気ないものなのか、みんな日本のFacebookで学んだのではないか。
「騎手やめろ」と言われた、それまで機種としての人生しか想定してこなかった21歳の若者が「絶望」するのも想像はできる。
僕はもう50歳を過ぎたし、あとはもう上手く死んでいくだけだな(それが難しいんだけど)、と思うだけなのだが、自分が21歳の時に「ちょっといいところを彼女(かどうかはわからないけど)に見せてやろう、驚かせてやろう」とやったことで、ずっとそのために努力してきた職業が失われたら、しかも、世間から大きなバッシングにさらされたら、「まあ、他の生き方もあるしな」と、すぐに切り替えることなんてできないだろう。
死ぬことなんてないじゃないか、(それが騎手という仕事じゃなくても)やり直すことだってできるはずだ!まだ若いんだから!
そういう言葉って、本当に絶望している人には、多分届かない。
そう簡単に「じゃあ、他の道で楽しく生きていこう!」なんて切り替えられるものではなかろう。騎手になることそのものが、一生分の「賭け」なのだろうし。
いつの話かは書かないけれど、僕自身、にっちもさっちもいかなくなって、ネットで「自殺のしかた」を検索したことがある。
そこに表示されたのは「いのちの電話」とか「命を粗末にしてはダメだ」というお説教の羅列だった。
ああ、世界は、こんな自分に本当に必要な情報を与えるのも拒否するんだな、自分たちの立場を守るために。
それが、そのときの僕の本音だった。
いや、いまはそれなりに落ち着いているので、あちら側だって、そうするしかないのはわかる、頭では理解しているのだけれど。
ネットには、他者を責める言葉が溢れているし、責める側にだって、それぞれの背景や事情がある。
他人の幸せに傷つく人だっている(「推し」の結婚報告で落ち込む人だっているよね)。
角田大河騎手を強い言葉で責める言葉はたくさんあったけれど、「死んで詫びろ」みたいな人は、ほとんどいなかったと思う。
あの馬場侵入は、あまりにも突飛な行動すぎて、「なんなんだこれは」と、傍観者的にもわけがわからなかった。
最近読んだ本で、コーネリアスの小山田圭吾さんがステージに復帰していたことを知った。
でも、東京オリンピックのときに「いじめ自慢話(それ自体の信憑性が怪しいというか、正確に伝えられていなかったと本には書かれていた)」で大炎上した彼の復帰はネットでほとんど話題にならなかったし、それを叩く人もいなかった。
人の心は、けっこうあっさり移ろう。
もしもボックスがあったら、角田大河騎手の今回の蛮行が「武勇伝」的に、苦笑とともに語られた未来が見られたかもしれない。
「あの時の自分は本当にひどかった」って。
ひどいことをやって、さんざん批判され、「もう辞めろ!」と言われるにもかかわらず、命を捨てて「終わりにする」ことを選んだら、「死ぬことはなかったのに」「SNSで批判した人たちは責任を感じているのか」と、また誰かや何かが批判される。
死ぬのなんて、全然いいことじゃないよ。本人はどうしようもなかったのだろうけど、電車を運転していた人、見てしまった乗客、身元を確認したり、葬儀をしたりするために、損傷した遺体に触れた人、その人たちが悪いわけではないのに、ずっとトラウマになるだろう。医者というのもそういう仕事の一端を担うことがある。
だからと言って、「せめて人目につかないように、迷惑をかけないようにしてくれ」なんて言えるようなことじゃないし、本人もそういう精神状態じゃない。
僕は最近、SNSから少し距離を置こうとしている。でも、なかなかうまくいかない。
応援しているアーティストからのメッセージで励まされることもあるし、現実的にいえば、ブログのプロモーションや自分の承認欲求を満たす場としてのSNSを完全に捨ててしまう勇気はない。
同じメッセージをコピー&ペーストした「インプレゾンビ」や「ママ活アカウントからのメッセージ」には辟易しているし、他者への批判すら同じテンプレートのものが並んでいることに虚しくなる。
そして、そういう「愚かな世間」をみて、呆れ、安心している。非建設的な気休めの無限ループ。
僕は「誹謗中傷にまみれたSNSやインターネット」は大嫌いだが、「批判することがまったく許されないSNS」も面白くない、どのあたりが「ちょうどいい」のか、いまだに試行錯誤している。
そもそも、自分とは直接関係のない騎手や芸能人をあれこれ言うことに、意味や効果なんてあるのか?
ない、とも言い切れないし、手間や効果の割にはリスクが少ないストレス解消法でもあるのかもしれない。
相手が政治家だったらいいのか?安倍さんの病気を揶揄していた人たちは、安倍さんを支持していたわけではない僕でも不快だったぞ。
命が云々、という話じゃなくても、「量刑」は一定ではない。
川口ゆりさんの発言は、もしかしたら自分も「臭い」かもしれない、と僕は不快というか不安・心配になったけれど、芸能人でこういう「ファンや来場者の臭い」に苦言を呈する人はこれまでも少なからずいたし、この人たちは臭いに敏感で、辛かったのかもしれないな、とは思う。
彼らは、「ファン」とか「お客さん」として来られたら、どんなに辛い臭いでも、仕事の一部として耐えなければならないのか?
内心に留めておくしかない、ということなのか。
人間が言われて最も傷つく言葉は「あなたは臭い」だと聞いたことがある。
においって、自分では客観的な評価が難しいこともあるし、どうしようもない場合もあるのだ。
フワちゃんについては「もともとこんな人(あるいは芸風)だったよなあ」としか、最近ほとんど地上波テレビを観ない僕は感じない。
いずれも、「多くの人に届くことを想定したバラエティ番組やCM、マナー講師としては起用しにくい」というのも事実だろう。
たぶん「代わりはいる存在」と判断されたのだろうし。
ナインティナインの岡村隆史さんの場合は、相方の矢部さんのフォローが大きかったとはいえ、芸能界で仕事を続けており、ナインティナインの「コンビ愛」があらためて語られることさえあるのに。
野球選手とかでも、実力があると評価されていると、スキャンダルがあっても、生き残れるんだよなあ。
結局、「お金になる、役に立つ」「換えがききにくい」人は、嵐が過ぎ去るまで踏ん張れる可能性が高い。
このスマイリーキクチさんの事件に関しては、デマに基づくものであり、事実無根なのにネットリンチの対象となったキクチさんに全く落ち度はない。
角田大河騎手がやったことは一般的には「器物破損」「不法侵入」のような犯罪行為で、川口ゆりさんは「(不特定多数の他者を傷つける可能性がある)個人の意見の表明」、フワちゃんについては、「誹謗中傷の類だが、『ネタ』だと主張されたら法で裁かれることは(たぶん)ない」というところだろう。
「罪」として軽重はある。彼らは「人を傷つけること」をやったよね、だから、批判されるのもしょうがないんじゃない?とも思う。
ただし、何を言ってもいい、ということにはならないし、言われる相手の「批判への耐性」も人それぞれだ。
電車の中で、「何が入っているかわからない箱」を見つけたら、わざわざそれを開けるリスクを負う?
ほとんどの人は「開けないで放っておく」か「車掌さんに対応を頼む」はずだ。
でも、ネットでは、みんながその箱を無邪気に開けようとしてしまう。
SNSって、怖い。
有名人じゃないのにSNSで注目されようとして、「強い言葉と暴言のギリギリの綱渡り」をしているように見える人は少なくない。
たくさんの人に「いいね!」され、リポストされるようなポストは、過激で他者を傷つけるものであったり、他人の下世話な興味を引くものであることが多い。
彼らは、過激な発言で面白がられ、フォロワーを集め、そして、突然、舞台から突き落とされる。その「転落」もまた、話題のコンテンツになる。
そう思っても、心の中にしまっておけば良かったのに、と、奈落の底に落ちてから、みんな思うのだ。
でも、言いたいことを言えるツールがあって、しかも、大概は誰に注目されることもなく、大きな事故にもならないのならと、イラっとして、つい書いてしまうリスクは、誰もが抱えているのだ。
X(Twitter)は、極端な言葉ばかりになっている。いや、極端なポストが注目され、人気になって表示されやすい仕組みになっているのだ。
ありきたりな他人の日常報告なんて、誰も読みたくないし。
SNSによって、世界は目に見えない監視カメラだらけになって、おかげで、安全に、そしてクリーンになってきた。それもまた否定できない。
総合的には、メリットの方が大きいのではないか、と小市民の僕は感じている。
ただ、ネットに書かれていることが、本当に事実、真実なのかはわからないし、真偽がどんどんわかりにくくなってきている、とも思うのだ。
だから、自衛のためには、感情を揺さぶられるポストやネットニュースに対して、「反応しない練習」をしておいたほうがいい。
安易に炎上の尻馬には乗らないほうがいい。
リポストしただけで「有罪」になった判例も少なからずある。
最近よく思うのだ。
結局のところ、インターネットやSNSが僕(たち)にもたらした最大の恩恵は「暇つぶし」ではないか、と。
そして、最大の弊害は「時間を無駄にしているという感覚の麻痺」なのかもしれない。
人は、自分の人生を生きるべきだ。
でも、つまんねーよな、自分の人生ってさ。