いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「Xでブロックする人に総理大臣の資質はあるのか?」


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 僕自身はかなりブロックやミュートを多用していますし、「はてなブックマーク」のコメントも、「開放はしているが、自分でコメントはなるべく見ない」ようにしているのです。
 「批判」と「誹謗中傷」の境界は非常に線引きが難しいし、「正当な批判」であっても、物量があまりに多いと、それだけでけっこうな重荷になることもあります。
 僕はLINEは最低限くらいしか使わないのですが、記録を達成したり、賞をもらったりした人が、「通知が鳴り止まなかった」っていう話を聞くたびに、「おめでとう!」のメッセージであったとしても、全部にリアクションするのは負担だろうと考えてしまいます。
 誰それには返信したのに、自分には返信がなかった、というような揉め事もあるみたいです。


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 この河野大臣の件に関する率直な印象は「いちいち返信を読んだりエゴサーチをしたりしているんだな、なぜそんな藪蛇なことを……」でした。
 政治家はみんなの意見に耳を傾けるべきだ、というのは「正論」ではあるのだろうけど、直訴状を持った人に家を取り囲まれて、「お願いがあります!」って言われ続けたら、心身が保てるとは思えない。
 インターネットより前の時代の政治家は、地元の有力者のコネとか、影響力のある人物とかを「選別」して面会し、陳情を聞いていたわけです。
 本当は、みんなの意見を聞ければいいのだろうけど、一人の人間にできることには限界がある。
 そして、「みんなの意見」を聞いて反映しようとしたら、結局、何もできなくなってしまう。
 だから、陳情するためのハードルを設けたり、世論調査などで「全体の傾向」を見極めたりしていたのです。
 もちろんこれは、現代でも行われていることですが。


 僕自身が長年、ネットで書いてきて、あるいは、ネットに書かれたものを読んできて思うのは、「ネットに書かれた意見の背景」というのは千差万別であり、たくさんの人が、それぞれの立場で発言していることに全部真面目に対応しようとしたら、こちらの身がもたない、ということなんですよ。

 そして、「ブロックするな!」とか言う人には「失うものがない、あるいは、何かトラブルがあったらすぐにアカウントを消して逃亡するつもりの『無敵の人』」がいる。
 あるいは、自分が強い言葉を投げつけながら、「あなたは公人だから、このくらいの批判は受け止めるべきだ」と、相手の行動を縛ろうとする人もいる。

 昔、イジメの現場で、自分が暴力をふるいながら、相手が反撃しようとすると「お前が殴ってきたら、『暴力を振るった』って言いつけるぞ。お前も俺たちと同じだ、って」と、嬉々として攻撃を続けていた人がいました。


 「公人」や「発信者」は、サンドバッグじゃない。
 ネットで「批判」をする人のなかには、「発信者の粗探しをして攻撃して快感に浸ること」だけが目的だと感じる人が少なからずいます。
 彼らには、彼らの人生における不快や背景があるのかもしれないけれど、やられるほうは、たまらない。

 スピード違反で暴走している車も、もしかしたら、親の死に目に間に合うためにやっているのかもしれないけれど、だからといって、そんな車にぶつけられれば、こちらも死ぬかもしれない。
 

 多数のフォロワーがいる人でも、SNSはスタッフが管理していて本人はほとんどノータッチだったり、ブロックもミュートもしないけれど、言いっ放しで世間の反応はあえて見ないようにしていたり、という事例は多いはず。
 インフルエンサーにとって、一般ユーザーなんて「いいね!製造装置」でしかないですよ、たぶん。
 SNSは世界に開かれすぎていて、いちいち反応するのは物理的にも無理です。


 わざわざアンチが「不快玉」みたいなものを投げつけてくるのを受け止めてあげるような聖人はいないか、いても心がもたない。
 僕は河野大臣を政治的に支持しているわけではないけれど(マイナンバーカードの保険証問題とか、実際に病院に来ている高齢者をみてから判断してほしいと思うよ)、現代のSNSに関しては、「誰かの発言に対して、誰それが『いいね!』を押した、とか、フォローを外した、とか、あまりにも話が大きくなりすぎてしまっている。周りも考えすぎてしまうようになっている」と感じています。
 フォローしていた人でも、不快なことを言っていたらミュート/ブロックできるのは、ネットの良いところじゃないのかなあ。
 実生活では、内心不快でも、我慢しなければならない状況ばかりなわけだし。


 僕は贔屓のプロ野球チームが負けたとき、相手チームが勝ったのを喜んでいる人たちをタイムラインで見かけると、片っ端からミュート/ブロックしたり、馬券やIPOの的中自慢をしている人もブロックしまくっています。おそらく、相手もブロックされていることに気づいていないのではなかろうか。
 ささやかな(自分の側にとっての)復讐の道具として、ブロック機能を使っているのです。


 相手が悪いわけじゃない、勝負事だから、勝ち負けはある。でも僕は不快だ。となれば、お互いに関わらないようにするのが、いちばん穏健な方法ではなかろうか。

 政治家は違うだろう、という声もあるでしょうけど、本当に「ちゃんと筋と礼節がある批判だけ」であれば、僕も「政治家なら耳を傾ける(ふりくらいはする)べき」だと思うのですが。

 世の中には、同じくらいの悪意がこもった言葉でも、自分がやるのは批判、誰かにやられたら誹謗中傷、という判断に陥ってしまう人が多すぎる。
 いや僕もその傾向があることは自覚しています。だからもう『はてなブックマーク』のコメントは諦めているんです。というか、ああいうネガティブなコメント見たさに来る人もいるだろうし、プロモーションだと割り切って、家族に害を加える、とか、あからさまなデマ以外は、自由にコメントしてもらっています。ただし、僕はほとんど見ていません。
 ちなみに、以前実証実験をやってみたところ、ブックマークコメントを非表示にすると、10〜20%くらいのPV(ページビュー)減がみられました(あくまでも僕の場合は、です)。


 基本的にはお互いに関わらずに棲み分け、どうしても必要な際には対話、くらいのバランスが、精神の平穏を保つのにちょうどいい。

 僕は、河野さんも「オープンにしておいて、自由に言及させるが、反応を自分では見ない」という運用が、政治家としてはいちばん無難ではないか、とも思うのです。
 
 本当に読んでいるかどうかなんてわからないし、常識的に考えれば「本人が全部読んでる時間はないよなあ」だろうと思います。
 でも、この会見のなかで、あえて「ブロックすることも必要」というはっきりとしたメッセージを発しているのは、世渡りは下手だが、自分の意見はちゃんと言う人なんだなあ、とも感じました。

 Xでブロックするとかしないとかよりも、これまでの活動や、やろうとしている政策で、政治家というのは評価されるべきだし、人は誰でも、自分を不快にさせたり、追い詰めたりするものから身を避ける権利はあると思うのです。

 ただ、SNSなどで何らかの影響力を行使したり、宣伝をしたり、承認欲求を満たしたりしようとするのであれば、ある程度の「スルー力」が求められるのは「悲しいけど、これ、SNSなのよね」なのだよなあ。


 僕はブロックもミュートもやりますよ。これからもずっと。ブックマークコメントもたまに褒められていそうなときに読むだけです。
 50過ぎてまで、不快なものに抗うのは余命が勿体なさすぎる。いくら「批判」してみても、いまさらそんなに変わらないよ、こっちも、そっちも。


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