いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

2022年の個人ブログは、「日記やテキストサイトへの回帰」が進んでいくと思う。


あけましておめでとうございます。
本年もよろしくおねがいいたします。


このブログでは、毎年、新年最初のエントリは、「現在のブログ情勢と今年の展望」みたいなことを書いているのです。


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2021年もコロナ禍が続いていましたが、後半にはワクチン接種の効果もあり、コロナもようやく収束に向かってきているようです。

……と思いきや、年が明けてから感染者数は増加傾向なんですね。
 正直、2年こういう状況が続いていると「テレビドラマや映画をみていて、登場人物がマスクをつけていないことに「ん?」と思うようになってきました。
 人類の歴史という長い視点でみれば、ウイルスと人間は長年闘いを続けており、数年単位の感染症の流行は珍しいことではないんですよね。
 未来の人たちは、「こんなふうに、みんなマスクをしていた時代があったのか……」と、いまの写真をみて思うのか、それとも「この時代から、みんなマスクをする習慣ができたんだねえ」と、自分たちもマスクをしながら語り合うのか。


 年齢的にも50歳を迎え、「自分がいなくなったあとの世界」に想いを馳せるとともに「でも、まだそんな老け込む、というほど昔と変わったとも思わないけどね」という気持ちもあるのです。
 こういう「まだまだ現役、いまの時代のことがわかっているつもり」という過信が「老害」を生むような気がしますが。


 僕自身のスタンスとしては、わからない若者の気持ちをわかったふりをして物分かりが良くなってしまうよりは、今の自分から見える世界を書き留めていければなあ、と考えております。あとは、読む人の判断に任せたい。


fujipon.hatenadiary.com
blog.tinect.jp


 2021年、なんだかネットに疲れてしまって、ブログの更新を止めていた時期があったのです。
 もう、あのまま止めてしまうべきだったのかもしれませんが、結局のところ、僕は「書かずにはいられなかった」のです。
 誰も求めていなくても、自分の頭の中にあるものを、このまま自分の死とともに無にしてしまうより、どこかに放流しておきたい。
 もちろん、誰も読んでくれないテキストに存在意義はあるのか?というのは、ネットに文章を書いている人間に普遍的な疑問ではあります。
 15年前、ブログブーム華やかなりし頃に比べれば、ページビュー数は5分の1くらいではありますが、それでも、読んでくれる人もいますしね。
 以前は、ブログ単位、著者単位でブックマークして読んでくれる人が多かったけれど、最近はSNSなどで話題になった記事を、その記事単位で読むことが多いようです(僕もそうです)。
 以前は「公の場で文章を発表できる人」になるまでのハードルが高かったけれど、そうなれれば、ある程度の期間は「愛読者」を維持することができた。
 しかしながら、今はほとんどの記事が、エントリ単位で消費されているように感じます。
 「公の場で発表すること」へのハードルが下がった一方で、「蜂の一刺し」的な、その人の渾身のエントリだけが読まれる時代になった。
 ファンを作って人を囲おうとすると、先細りするオンラインビジネスみたいになりやすいし、難しいですよね本当に。


 「斜陽産業」と化しているブログなのですが、斜陽であるがゆえに、雨後の筍のように乱立した「お金稼ぎブログ」は見かけなくなったし、「参考になりました」というブックマークコメントが並ぶことも少なくなりました。


 なんとなく、2000年くらいのテキストサイト時代に回帰していっているような気もします。
 「好事家だけがやる趣味」になってしまったがゆえの、居心地の良さもあるのだよなあ。
(とはいえ、燃えるときは燃えるのでご注意ください)

 
 いまでもブログを書いている人というのは、やっぱり「書くこと、記録することが好き」で、「にわか社会評論家になるよりも、自分自身の日常や感じたことが、オリジナルのコンテンツとして価値があると考えている」のではないでしょうか。

 世の中がスマホファーストになって、アプリから直接読めるTwitterInstagramに比べて、Googleから検索しなくてはならない既存の個人ブログは、「敷居が高い」「めんどくさい」とユーザーからは思われている可能性もあります。
 『はてなブログ』にもアプリはあるんですけどね。そこで『はてな』のアプリをインストールしてまでブログを読みたい、という求心力には欠けている。
 ブログサービスはスマートフォン以前から普及していただけに、スマホシフトについていけなかった面もありそうです。
 『note』とかは、スマートフォンで読んでもらう方法をすごく研究しているようにみえるし、書いている人たちも「タイトル写真」(YouTube画像でいえば「サムネ写真」)に力を入れているのが伝わってきます。

 
 個人ブログが斜陽であることは間違いないし、ページビュー数も更新頻度もアクティブユーザー数も、右肩下がりになっているのでしょう。
 文章を書くのはめんどくさいし、めんどくさい割には、Twitterで「うまく言う」ことに比べて、反応にも乏しい。
 そもそも、これだけ情報が溢れている世界では「長い!」「めんどくさい!」というだけで、受け付けない人が多いのです。
 というか、僕自身も、YouTubeで30分以上の動画は避けるようになりました。仕事のBGM的にライブ放送とかを流すことはありますが。

 「わかりやすく」「3行で」ばかりが追い求められる世の中というのは、現実に存在する「グレーゾーン」とか「短い言葉では語り得ないもの」を置いてけぼりにするのではないか、と僕は思っていますし、お金にしようと思わなければ、あまり読まれなくても、「チラシの裏に書け」と言われるような個人的な記録でも、存在が許されるのが「インターネットという文化」の良さだと、最近、あらためて感じています。

 あなたは書いてもいいし、書かなくてもいい。
 読みたければ読めばいいし、読みたくないのなら、スルーして他のことをすればいい。

 インターネットは世界のいろんなものをショートカットしていったけれど、いちばん変わらなかった(変われなかった)のは「人間」なのかもしれません。
 そして、結局のところ、いちばん信用できるのも、できないのも人間ではある。


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 メディアはどうしても企業や取材先に忖度してしまうし、最初は「率直なレビュー」をしていた個人も、それがお金になったり、仕事としてやったりするようになると、スポンサーへの批判は言えなくなってしまう
 マスメディアはスポンサーの顔色ばかりみている悪、とネットで言う人は多かったけれど、ネットで収入を得る手っ取り早い方法は、スポンサーに広告をもらうか、炎上商法に手を染めることだった。ほとんどのネットから出てきた人は、お金が絡むと、マスメディアと同じようなスタンスになりました。

 インターネットには、現実で隠されている真実がある、と少なからぬ人々が信じていた時代もあったのです。
 どうしてこうなってしまったのだろう。

 だからこそ、いまの「斜陽で、あまりお金にもならなくなった個人ブログ」には、価値があるのです。
 個々の感想にはそれほど大きな価値はなくても、その集合体とか傾向を掴めば、取捨選択の役に立つ。


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 20年経ったからこそあらためて感じるのですが、いま、何をやっても面白くない、とか、同じことの繰り返しに飽きている、という人は、ブログ(日記)を書いてみてほしい。

 お金にはならなくても、「自分の人生を面白がる」ことで、生き延びるきっかけになるかもしれないから。
 ブログなんて、読まれなくてナンボですよ。書いているときに、余計なことを考えなくて済むだけでもいい。
 大概の嫌なことは、なんとかやり過ごして時間が経てば、けっこうどうでもいいことになっています。


 それでは、本年もよろしくお願いいたします。
 2022年、あと360日もあるのか……


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