「権威」という言葉を不快に感じる人が多いのか、上記のエントリには、けっこう批判的なブックマークコメントが多いようです。
言及されている、あざなわさんのエントリには、僕も「何この自分から突っかかっておいて、反撃されたら被害者ぶるチンピラ」としか思わなかったのだけれど。
そもそも、「スラップ訴訟」(大企業が個人や小さなメディア・団体に対して高額の訴訟を起こし、圧力をかける訴訟)っていう言葉を、こういうところで安易に使ってほしくない。
それで本当に困っている人は、社会には少なからずいるのだから。
ただ、ネタに困っているときに「これはネタになる!」って飛びついてしまって不用意なエントリを書くことはありがちなんですよ。
あざなわさんのブログって、「本人が書きたいこと(書評など)はあまり読まれず、集客のために仕方なく書いている、誰かを批判するエントリのほうが注目されてしまう」というジレンマをずっと抱えているように、僕にはみえるのです。
冒頭のエントリに対して、『はてなブックマーク』で、「誰が言ったかでなく何を言ったかで評価される世界のほうが正しい」というコメントには、ものすごく違和感があるんですよ。
えっ、『はてな』って、そんな「インターネットの理想郷」だったっけ?
本当にそれが実現されているのが『はてな』であるのならすばらしいことなのだけれど、現実はそうじゃない。
書いていて最近とくに感じるのが、「どんな記事に対しても、書いている側を攻撃する人」が目立つ、ということなんですよね。
それも、内容ではなくて、人格を。
夫婦の間の問題が「はてな匿名ダイアリー」に書かれると、夫側が書けば夫を批判、攻撃するコメントが多くなり、妻側が書けば、妻側が標的にされる。
「痛がっているのが見えやすいほうを攻撃したがる人」が存在しているのではないか、という気がしてならないのです。
もちろん、ネットに文章を書くと、あれこれ言われることはある程度覚悟しておかなければなりません。
批判をするな、悪口も言うな、という訳じゃありません。
でも、「叩けるものを叩くだけ」って、単なるストレス解消、あるいは嫌がらせでしかない。
「とりあえず姿が見えるものを叩きたい人」が、ネットの「無難なことしか言えない場所化」をさらに押し進めているのではないか、と感じるのです。
実際のところ、ネットで何かを書くというのは、綱渡りみたいなところがあります。
もちろん、大部分の日常日記は炎上することはありませんし、誰かや何かに「モノを言う」という行為には「言い返される覚悟」が必要でしょう。
実際のところ、僕も何度も炎上的なものを経験していますが、よほどおかしなことを書いたのでなければ、謝罪すべきところは謝罪し、あまり気にせずに続けていると、いつのまにか平常営業に戻っています。
なんのかんの言っても、長い間続けていると、読んでいる人も「まあ、ずっと読んできたし、たまにはそういうこと(問題になるような発言)もあるだろう」と、大目にみてくれるところはあるのでしょう。
それは「権威」じゃないけれど、身内や友人に対して発動されるような「寛容」なのだと思います。
そもそも、「炎上」させている人たちだって、相手の命まで取ってやろうという「覚悟」でやっているわけじゃない。
「属人的なものではなく、内容そのもので判断している」人が『はてな』に多いのかというと、そういう人はほとんどいない、と僕は思うんですよね。
ブレがあるのはしょうがない、とは思うのですが、「書いている人によって判断する」「誰が書いたかじゃなくて、何が書いてあるかだ」という相反する考えのなかで、「誰かの悪口を言えるほうの基準を優先して採用する」という人が少なからずいるように僕は感じるのです。
一部には「仲良しだから、反社会的行為に対しても『参考になります!』ってコメントしている」ようにみえる人もいて、それはそれで気持ち悪いんだけど(というか、僕は正直、こういう「盲信」のほうが嫌いです)。
そもそも、「ふだん人の揚げ足ばかりを取っているヤツが、自身のTwitterでの不用意な悪口で反撃され、しかもそれをネットに書いたら炎上してざまあみろ」っていう流れには、「ふだん人の揚げ足ばかり取っているヤツ」という「属人性」が高いですよね。
「誰が書いているか」と「何を書いているか」は、いまの人間の思考回路では、完全に分けて考えることは難しい。
書く側としては、ネットで書き続けるのは、なかなかキツいことだよな、と感じることは多いのです。
「誰に読まれるか」を限定できないのがネットの特性で、いまの世の中は、どこから矢が飛んでくるか、わからない。
雨宮まみさんと岸政彦さんの対談本『愛と欲望の雑談』のなかに、こんな話が出てくるのです。
岸政彦:僕が一番凹んだのが、「差別論」という授業で、いろんなマイノリティの話をしていくんですが、最後に自分の不妊治療の話をしたんですね。僕も手術を受けた話とかをすると、話を聞いて泣いてくれる学生もいる。でも、一度だけですが、授業のアンケート用紙に男の子が「嫁自慢乙」って書いてきてね。もうすごく泣けてきて、あれだけ辛い気持ちをみんなの前で正直に言ったのに、って。言えるようになるまでけっこう時間がかかったんですよ。だけど連れ合いがいるっていうところだけを聞いて、自慢やと思ってるんですよ。
雨宮まみ:昔は、「持ってない」ことをバカにされるのが一般的だったと思うんですよ。
持っている者が持ってない者をバカにするっていうのが定型だったのに、いまは持ってない者が持ってる者のことをバカにする。「お前なんか持ってるくせに、持ってない人間の気持ちなんかわかんねえだろ」って。
岸:差別のあり方が逆転したんですよね。昔は「穢れてる」って言っていたのを、最近は「特権を持ってる」みたいな感じの攻め方をするんですよ。社会心理学社の高史明さんがそういう研究をしています。
雨宮:「特権を持っていれば叩いてもいい」ということになっていますよね。悪口も、「あいつ実は実家が金持ちらしい」とか、そういう方向になりましたね。「実は貧乏」じゃなくて、「実は金持ち」が悪口になる世界。
「持ってない」人が、「持ってない」ことを理由にバカにされる時代は、もちろん、正しくない。
それよりは、「持っている」ことが悪口になるほうが、まだマシなのかもしれない。
でも、それって結局、どこに行っても、悪口から逃れることはでいない、ということでもありますよね。
じゃあ、どうすればいいんだよ!って、言いたくなるけれど、もう「見たら負け」だと割り切るしかない。
批判されないためには、「黙っている」のが、いちばん良いのだということは、わかってはいるのだけれど、それができないのは「業」みたいなものなんでしょうね。
いちばん「隙」ができやすいのって、「自分が圧倒的に優位で、攻めこんでいると思っているとき」なんだよなあ。
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