『あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン』(住吉雅美著/講談社現代新書)という本で、こんな事例が紹介されていました。
1970年代半ばのことである。ある新興住宅地に、家族ぐるみで仲のよい二家族があった。A夫妻とその子をA児、B夫妻とその子をB児としておこう。
A児とB児も仲がよく、ある日、A児は大掃除中のB家でB児と遊んでいた。そこにA母が訪れ、A児を買い物に連れていこうとしたが、A児は遊んでいたいから行かないと答え、B父も我々が見ているからと、A児の預かりを快く引き受けた。両家ではすでに何度かお互いの子を預けあっていたこともあり、A母も気軽に子を預けて出かけた。
二人の子供はB家で遊んでいたが、大掃除の合間に様子を見ていたB母に子供たちは「裏の空き地に行きたい」と求めた。B母は一瞬迷ったが、これまでも子供たちだけで遊ばせて問題がなかったため、二人を送り出した。
しばらくするとB児がひとりで戻り、空き地の溜池にA児が入ったきり戻ってこない旨を親に告げた。B父は慌てて近隣の人たちと溜池に入り探索したところ、A児は池底に沈んでおり、救急車で運ばれたがすでに亡くなっていた。
買い物から戻ってきたA夫妻は、B家に預けていた間に我が子が事故死したことを知り嘆き悲しみ、B夫妻を激しく責めた。しかし、B夫妻は謝罪しなかった。そこでA夫妻は、仲のよかったB夫妻を相手取って訴訟を起こした。正確には危険な溜池を放置していたことについての行政指導及び砂利採集業者の責任と並んで、B夫妻の準委任契約不履行と不法行為の責任を問う訴訟を起こしたのである。一審判決は1983年に出たが、それはB夫妻の不法行為責任のみを認めるものであった。
この判決が実名で報道された後、勝訴したA夫妻を、想像もつかなかった酷い仕打ちが襲った。事件と裁判を知った日本中の人々からA夫妻に対する激しい攻撃が行われたのである。ひっきりなしにかかってくる匿名電話や送り込まれる多数の手紙、それらは「好意で子を預かってくれた隣人相手に訴訟を起こすとは、あなたはそれでも人間か!」とか、損害賠償請求が認められたことについて「死んだ子を金もうけの手段にするのか」などといった理不尽で無茶苦茶な個人攻撃、人格否定的な内容のものばかりであった。
A夫妻はこれらの激しく執拗な嫌がらせに苦しめられたあげく、訴えを取り下げ、しかも日本中に知られた住所にいられなくなり引っ越し、さらには失職する羽目にまで陥ったのである。
しかし悲劇はここで終わりではない。A夫妻が攻撃を受けていた間、世間の多くはB夫妻に同情していたのが、A夫妻が訴えを取り下げると、今度は一転してB夫妻叩きが始まったのである。このあたりの流れは昨今のSNSでのいわゆる「炎上」に近いものがあるが、いずれにせよこの事故と訴訟をきっかけに、それまで仲良く助け合っていた二家族の関係がズタズタに引き裂かれ、かつそれぞれの当事者たちの人生までもが狂わされてしまったことはたしかである。
この事件は通称「隣人訴訟事件」と呼ばれているそうです。
僕はこれを読んで、いたたまれない気持ちになりつつ、どうすればよかったのだろうか、と考えていたのです。
この事件から、第三者からの個人攻撃や誹謗中傷の集中は、ネットやSNSのおかげで生まれたわけではなく、いまから半世紀前から存在していた、ということもわかります。
著者は「訴訟を起こしたA夫妻は何も悪いことをしていないし、訴訟で責任を明確にして自らの損失を回復しようとすることはひとつの選択肢として間違っていない」とも述べています。
今、これを読んだ若い人には「とはいえ、預かった子供たちだけで遊ばせるなんて、B夫妻の過失だろう」と思われる方もいるはずです。
亡くなったA家の子供は当時3歳4ヵ月(B家の子供は4歳)だったそうで、2020年の感覚でいえば、「いくら家の近くで、何度も遊んでいる場所だからといって、子供たちだけで行かせるなんて危険」ですよね。
ただ、ちょうどこの子供たちと同じくらいの年齢の僕の記憶では、1970年代の地方都市の郊外での暮らしというのは、隣人との距離が近くて、子供に対する危機管理意識も低く、子供たちどうしで遊んだり、子供を預けあったり、というのは、日常茶飯事だったのです。子供だけで近所の公園で遊んでいた記憶もあります(僕の場合は、親か小学生くらいのお兄さん、お姉さんが一緒だったと思いますが)。
少なくとも、こういうのは、当時は、どこにでもある日常であり、世間が預かった夫妻を擁護したのは、「自分たちも同じようなことをやってしまうかもしれない」「これで裁判になって多額の慰謝料を払う判決が出れば、隣人に子供を気軽に預けることができなくなるのではないか」という危機感もあったのです。
「ちょっと目を離した隙に起こった事故」で、当事者には悪意はまったく無かったのだとしても、幼い子どもの命が失われる、という現実は、あまりにも悲しいものだった。
それに対して、「事故だったのだから、しょうがないよ、相手も善意で預かってくれたのだし……」
と周囲に説得されたところで、「ちゃんと見ていてくれれば、こんなことにはならなかったのに……」というA夫妻の気持ちがそう簡単におさまるとは思えません。
こういう事例で、どちらかを強く責める「善意の第三者」をみていると、僕は戸惑ってしまうのです。
僕の人生を振り返ってみると、まったく油断も隙もなかったはずもなく、車の運転をしていて事故を起こしそうになったことはありますし、子供が急に道路でダッシュして車にぶつかりそうになったこともある。医者の仕事でも、とくに若い頃などは、「あのときの主治医が、僕ではなくてもっと熟練した医者だったら、あの人はもう少し生きられたのではないか」と夜中に頭に浮かんできて悶々とすることもあるのです。
自分がとりあえず大きな訴訟を起こされることもなく、刑務所に入らずに済んでいるのは、運と人に恵まれていただけではないか、とも感じます。
もちろん、100点満点には程遠い人生ではあるけれども。
でも、自分が当事者であれば、「運が悪かった」で済ませることは、自分自身の心を守るためにも、できないかもしれないな、とは思うのです。
大規模な自然災害ならともかく、事故の場合は、そこに「誰か」が関わっているわけだから。
『加害者家族』という本のなかで著者によって紹介されている、アーカンソー州の高校での銃乱射事件というのは、1998年3月に、アーカンソー州ウェストサイド中学校で11歳と13歳の男子中学生が銃を乱射し、5人が死亡したという事件のことです。その翌1999年には、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画の題材にもなった「コロンバイン高校銃乱射事件」が起こっています。
これらの銃乱射事件には、加害者側にも「犯行に至るまでの背景」があったようですが、それにしても、「学校内での無差別殺人」が許されるはずはありません。
ここで著者が紹介している、アーカンソー州の事件の「その後」のレポートを読んで驚きました。
TBSの「ニュース23」で放映されたリポートでは、少年の母親が実名で取材に応じ、顔を隠すことなく登場した。下村が、受け取った手紙の内容は何かと訊くと、母親は「全部励ましです」と答えたのだ。
もちろん、アメリカでも「ネットの掲示板やブログでの非難」や「近所の人たちの陰口」がまったく無いとは考えにくいと思うのです。
アメリカの中でも「宗教心が強い地域」に特有の現象なのかもしれないし。
でも、少なくともこの事件に関しては、「犯人の母親」に直接届けられたのは、「全部励ましの手紙」だったとのことです。
「被害者の母親」じゃなくて、「加害者の母親」に、ですよ。
日本で生活し、日本のメディアや社会での「反応」しか知らない僕には、信じがたい話です。
ただ、こういう反応の違いに対して、「民度が違う」(日本人は民度が低いから、加害者家族をバッシングするのだ)という解釈には反発を感じます。キリスト教への強い信仰をバックボーンに持つ人が多いという宗教的な面や、凶悪犯罪が多いため、「身内から犯罪者が出ることを他人事とは思えない」というアメリカ社会の現実こそが、こういう反応の原因なのかもしれないし、僕としては、「まず被害者の家族を励ますべきだろう」と思わずにはいられません。
殺人事件の加害者に励ましの手紙が集まる一方で、「マクドナルドのコーヒーが熱い!」ということで訴訟が起こるのもアメリカなのです。
……というのを書いていて、念のために調べてみると、こんな記事がありました。
僕自身も先入観とかセンセーショナルな報道に躍らされる人間みたいです。
「クレーマーが多額の賠償金を得たムカつく話」だと認識していた人は、ぜひこれを読んでみていただきたい。正直、「それでもこんなに貰えるのか……」とは思ったのですが……
過剰な「加害者家族へのバッシング」は不快だけれど、「加害者家族への応援」を賞賛するのにも、違和感があります。
自分が心から神を信じ、あらゆる罪を赦すことができる人間であれば良いのだろうけれど、そういう人間に、今さらなれるわけもなく。
完璧な人間なんて存在しないのだから、偶然や、ちょっとした油断や無知による事故に「誰か」の責任を問うべきではない。
……そう言い切れれば良いのだろうけど、自分が当事者になれば、それで自分を納得させる自信はない。
ただ、第三者というのは「自分の正義を抵抗できない相手に押し付けるだけ」になりやすいことは意識しておいたほうが良いと思うのです。
ほとんどの人は「自分の運のよさを、『正しさ』だと勘違いしている」。
新型コロナウイルスの感染者に対する差別やバッシングをみて、僕は愕然としたのです。
自らの意思でウイルスを拡散している、あるいは、あまりにも感染予防意識が乏しくてウイルスを撒き散らしている人は責められて致し方ないけれど、「普通の生活」をして、「普通の感染予防」をしても、人との接触をゼロするのは現代社会ではきわめて難しいし、感染してしまうことはあるのです。感染経路がはっきりしない場合も多い。
何が悪いかといえば、ウイルスが悪いとしか言いようがないのだけれど、それでも、目に見える「憎悪の対象」として「感染者」を叩く人がいる。それも、少なからず。
「世の中には、誰かの責任にするのではなく、ただ、運が悪かった、と受け入れてしまったほうが良い事故や出来事もあるのではないか」という話を書くつもりだったのですが、ここまで書いてきて、うまく着地できそうにありません。
そんなに簡単に割り切れるものじゃないし、当事者だって、誰かの責任にしたい、というよりは、このままで済ませてしまいたくない、という思いのほうが強いのではなかろうか。
とりあえず、「誰が悪いわけでもないのに(あるいは、ちょっと油断しただけだったのに)、取り返しがつかないような不幸に見舞われてしまうことがあり、それは、誰に起こってもおかしくない」ということだけは間違いなさそうです。
それを指摘しても、どうしようもないのは百も承知なのだけれども。