いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

やらないほうがマシなことばかり、自分から進んでやっている。

 ※最初にお断りしておきますが、とりとめがない、結論も学びもないエントリです。というか愚痴です。


 今はこういうのしか書けないので、間違って読んでしまった方、大変申し訳ありません。
 とか言いながらTwitter(X)に更新情報とかも提示しているので、かまってちゃん気質なのだと自分でも呆れます。


 最近ここも書くことが思いつかず、なんだか社会に対して物申す、みたいなことに疲れを感じてもいる。
 だいたい、ブログはほとんど読んでもらえないし、Twitter(X)のフォロワー数も何年も頭打ちだ。数は頭打ちだが、実際にTwitterを利用している人は、減ってきているのではないだろうか。そりゃそうだよね、言い争いと週刊誌の記事の情報と誰かのすごい幸福か不幸か偶然ばかりが並んでいて、「みんな私に『♡』を押して!リツイート(リポスト)して!バズったから宣伝させてください!ばっかりだもの。広告か露悪か。みんな広告やヤラセが嫌だからテレビのような大手メディアから離脱してネットに来たはずなのに、移住先はどんどん離れたかったはずの故郷みたいになってきた。

 僕はもともとネガティブ思考の人間で、生まれてから(最初の数年間はちゃんとした記憶はないが)、「今日は絶好調だ!」とか「人生は楽しい!」と思ったことはない。正確には、ゲームセンターで『ゼビウス』を見つけたり、ファミコンの『マリオブラザーズ』で遊んだり、筒井康隆さんの『旅のラゴス』を読んだり、ゴールドシップが買った共同通信杯の日のWIN5が当たって、100万円以上の払い戻しがあったり、子供が生まれたり、「うれしくなる瞬間」はそれなりにあったのだが。それでも、すぐに「ああ、明日の体育の授業はマラソンだなあ」とか「今週末は眠れない当直か」とか、ネガティブな方に気持ちが引っ張られがちだった。アートやギャンブルが好きなのは、瞬間でも忘れさせてくれるから、なのだろう。

 だがしかし、というか、紆余曲折の末に、というか、仕事に関しては、しばらく前に医局を辞めて民間病院に就職してからは、当直も救急もやらなくなったので、だいぶQOL(生活の質)は上がった。夜もよく眠れるようになった、と言いたいところだが、どちらかというと、安心して眠剤を定期的に内服できるようになった。とはいえ、これも最近どんどん効かなくなってきている。睡眠薬というのは、飲むとどんなときでもぐっすり眠ってしまうイメージがあるかもしれないが、薬の効果に強弱があり、相性もあり、緊張・興奮していたり、気持ちが逆立っていたりすると、効果が出にくいことが結構ある。本当に効いて欲しい時ほど、うまく効かないものなのだ。
比較的気分が安定している時期に「眠りにつく時刻とトータルの睡眠時間、眠りの質をある程度均質化するために定期内服している」というのが実感だ。

人は加齢とともに穏やかに、落ち着きをみせ、「悟る」「枯れる」ものなのだと子供の頃は思っていた。
それが、仕事をしていて高齢者に接することが多くなると、年を重ねると、良くも悪くも「こだわり」が強くなったり、猜疑心が増幅されたり、言葉が陰険になったりすることがわかってきた。
もちろん、なんらかの心身のトラブルを抱えている人がサンプルの大部分を占めているので、そこは考えに入れなければならないが。


僕も50歳を過ぎて、遠近療養眼鏡にもようやく少し慣れてくるのと同時に、自分自身の感情を持て余すようになっている。
昔からネガティブ思考で、「ネガティブ慣れ」しているはずなのに。

言葉にするのは難しいのだが、感情のセンターポジションが、以前より「より悲観的なほう」にシフトし、沸点が低くなっている。

以前は、仕事がうまくいかず、イライラしている時でも、子供の寝顔を見るとか、面白い本を読むとかで、「まあ悪いことばかりじゃないか」と自分を比較的制御できていた。
やらない人にはわかりにくい例えで申し訳ないが、競馬を5レース買って、1レース的中し、そこそこ配当がつけば、トータルではマイナスでも、「まあこんなものか」「とりあえず一つ当たったし」と自分を宥めることができていた。

それが、いまは、10レース買って、9レース的中したとしても、外れた1つのレースの結果が悔しくてたまらないのだ。
ダメだったことばかりが、気分を支配してしまう。

ギャンブルとか人生には外的な要因がかなり大きくて、「ほぼ100%うまくいかない方法」はあるが、「必勝法」などありえない。僕は理屈としてそれがわかっているつもりなのに、苛立つ自分をうまく制御できない。

逆に、勝ったときでも、嬉しいというよりは、負けなかったことにちょっと安心する、くらいのもので、うまくいかなかったときの心の荒れようを考えると、やらないほうが自分自身のメンタルコントロールにとってはずっと良い、はずだ。

「期待値」で考えると、お金にも心にも、マイナスにしかならないことを、そうと知りながら続けていて、しかも、高頻度に「なんでうまくいかないんだ」と落ち込んでいる。落馬したり、レース中に怪我したり、本馬場入場してきたらいきなり馬が汗びっしょりだったり、ゲートインの直前にファンファーレを聞いた途端に大暴れするようなものに確実性を求めるなんてバカみたいだ。
でも、そんなバカみたいな、期待値マイナスの、やればやるほど負債が溜まっていくようなことを、なかなかやめられない。
ネットでも、誰かの幸運(宝くじや万馬券が当たった)みたいなことが、ものすごく不快に感じられてしまう。
本人は悪気なんてなくて、うれしくて「××が当たった!」なんてポストしているのだが、僕は「よかったね!」とは思えない。いちいち自慢するんじゃねえ馬鹿野郎、とディスプレイに悪態をつき、その人をブロックする。わかっている、SNSなど見なければいいのだ、わざわざ検索して自分を不快にするものを見つけて、たぶん一生関わることがない人をわざわざブロックするなんて馬鹿げている。
職場での若者の不躾な物言いとかも、いちいち「拾いあげて」ムカついてしまう。相手にきちんと注意するわけでもないのに。
いくらなんでも、20歳くらい年下の若者に「先生、何ビビってるんですか」なんて言われたら、腹が立つほうが道理だと思うが、それを注意しようとして、所詮僕はこういう人がいる職場の一員なんだよな、自分が本当に優秀だったらGoogleとかAppleとか大学病院とかで颯爽と働いているよな……と思い、黙ってやり過ごす(そしてそれをこうしてブログに書く、最低だ)。

結局のところ、自分が感じている満たされなさ、やるせなさ、のほとんどは自分自身が作り出していて、黙ってコツコツと仕事をして、オルカンとかに積立投資をし、『ファイナルファンタジー7』のリメイク版の完結を楽しみに余生を過ごせればいいのだが、このままじゃダメだ、と焦り、やらないほうがマシなことばかり、自分から進んでやっている。
株価がよくわからんまま高値圏でとどまっていることで、お金に関する不安は現時点では比較的緩和されていることだけが救いか。でもそういう幸運を幸運とは思えず、ただ「悪いこと探し」をして、日々苛立ち続けている。
友達はツムラの54とブロチゾラムくらい。


この話にはオチも教訓もない。誰かに助けてほしいわけでもない。
ただ、僕自身は、書いてほんの少しだけ気分がラクになった。


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