本当に「戦争」をやるとは思わなかった。
まさに「平和ボケ」なのかもしれませんが、今の世界では、特に先進国間では経済的な繋がりが大きくなっており、国家間で、人が血を流す「リアル戦争」というのは、過去にアメリカが中東で行ったような「石油」に関わるような経済的な利権をめぐるものか、「テロ攻撃を自国に仕掛けてくる国への予防的な戦争」くらいのものだろう、と、1970年代生まれの僕は思っていました。
プーチン大統領は、「戦争も辞さず」というポーズをとっているけれど、国際社会を敵にまわしてまで、軍事攻撃をやるつもりはなくて、「交渉の手段として」やっているだけなのだと。
戦争は悪いものだ、暴力で物事を解決しようとしてはいけない。子供の頃から、そう教わって生きてきました。
しかしながら、現実の世界の中では、「暴力」の怖さを思い知らされてきたのです。
どんなに立派な人物でも、正しいことと信じるための行動でも、圧倒的な暴力の前では、人は傷つく。命を落とすこともある。
僕自身も、ハラワタが煮えくりつつ、あるいは、自分の弱さに絶望しながら、暴力の前に膝を屈してやり過ごしたことが何度もあります。
命あっての物種だし、家族もいるから。こんな奴らと関わると損だ。
fujipon.hatenablog.com
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ネットでもリアルでも「失うものがない(と本人が思っている)、あるいは、何を失ってもいい『無敵の人』」は強い。
まあ、ロシアは「無敵の人」って訳じゃないんですけどね。
僕は太平洋戦争後の日本を生きてきたひとりの人間として、「自国の利益のために、他国に戦争を仕掛け、多くの人を殺すやつは『悪』だ」という感覚を持っていますし、ウクライナに関しても、「侵略するロシア、プーチン大統領は悪」だと思っていたのです。
しかしながら、これまでの歴史的な経緯を踏まえると(上記の「なぜウクライナで欧米とロシアが対立? 経緯や今後は…知っておきたい基礎知識5選」は、簡潔かつわかりやすくまとめられていると思います)、ロシアにしても、ウクライナは地理的に「緩衝地帯」だったのです。
元外交官・作家の佐藤優さんは、ロシア(ソ連)は歴史的に「西からの侵攻」を警戒していて、そのための緩衝地帯がないと安心できない国なのだ、とおっしゃっていました。
NATOが生まれたのは、冷戦時代の「ソ連の軍事的脅威」に対して、西側諸国(とくにヨーロッパ)が団結して、アメリカと共に対抗しようとしたのがきっかけであり、元々ソ連邦の一部だったウクライナがそこに加入するというのは、ロシアからすれば地理的にも「喉元に剣を突きつけられたような感じ」のはずです。
西側からすれば、「NATOにウクライナが加入したがっている」というのは、「困った話」だったんですよね、たぶん。
もともと「敵側」の一部だった国だし、受け入れたらロシアを刺激するのは間違いない。
今のロシアと戦争をしても、NATO諸国には「百害あって一利なし」でしょう。
現代の国際社会では、戦争に勝ったとしても、ロシアの領土の一部を割譲させて資源を得るとか、賠償金を課す、というのは難しい。
ロシアは韓国と同じくらいの経済規模しかないのですが、軍事力はいまだ強力で、なんといっても核兵器を保有しています。
NATOからすれば、ウクライナは『お前は元ロシア側だし、ロシアを刺激したくない。このまま緩衝地帯でいてくれ』というのが本音で、ウクライナからのNATOへの加入要請をのらりくらりとかわしてきたのです。
トランプ大統領は、親ロシア、親プーチンだったこともあり、ウクライナへの支援も「形式的なもの」にとどめていたのですが、バイデン大統領は「リベラル」の民主党の人ですから、律儀にウクライナに肩入れするようになりました(ちゃんと約束を守った、というべきなのか)。
こうした水面下の争いが続く一方、「ウクライナに協力するがNATO加盟は棚上げにする」欧米のグレーな対応は基本的に維持された。ところが、2021 年にアメリカがウクライナ支援に軸足を移したことで、事態は急展開した。
その一つの象徴は、9月末から10月初旬にかけて行われた、アメリカ軍とウクライナによる合同軍事演習だった。この軍事演習は1996年から行われてきたが、2021年のそれは15カ国から6000人の兵員が参加する、近年にない大規模なものだった。
さらに10月23日、アメリカはウクライナに180基のジャベリンミサイルからなる対戦車ミサイルシステムを配備した。
ロシアからすれば、1962年の「キューバ危機」の裏返しみたいなものです。
キューバはアメリカ本土から海を隔てていたけれど、ウクライナはロシアと陸続き。
日本にいると、欧米側からの「ニュース」を見る機会が多くなるのですが、ロシアからすれば、ここまで自分たちが「仮想敵」になっている状況で、相手は包囲網を狭めてきているのだから、坐してやられるのを待つわけにはいかない、という覚悟もあったのでしょう。イラク戦争のときの「大量破壊兵器疑惑」のように、アメリカだって無垢の「正義の軍隊」ではないのです。単に「今は日本にとって不可欠な同盟国」であるだけで。
これは、人間社会の「不都合な真実」みたいなものを、アメリカの大手シンクタンク「米戦略国際問題研究所(CSIS)の上級顧問、エドワード・ルトワックさんが語っているものです。
ルトワックさんは、こう述べています。
論文「戦争にチャンスを与えよ」(1999年発表、本書2章)は、私がこれまで書いたなかで最も多く引用された論文だ。今日でもまだ議論されている。
旧ユーゴスラビアで起こった一連の出来事を目撃したことが、そもそもの執筆のきっかけだ。ご存知のように、ユーゴスラビアでは、1990年代に激しい内戦が起きたが、これが私に論文を書かせるきっかけとなった。
さて、この論文が明らかにしているのは、「戦争の目的は平和をもたらすことにある」ということだ。戦争は、人々にその過程で疲弊をもたらすために行われるのである。
人は戦争に赴く時、力に溢れ、夢や希望に満ち、野望に心躍らせているものだ。しかし、いったん戦争が始まると、今度は、さまざまな資源や資産を消耗させるプロセスが始まる。この過程で、人々の夢や希望は、次々に幻滅に変わっていく。そして戦争が終わるのは、そのような資源や資産がつき、人材が枯渇し、国家が空になった時なのだ。
そこで初めて平和が訪れる。平和が訪れると、人々は、家や工場を建て直し、仕事を再開し、再び畑を耕す。
クラウゼウィッツの『戦争論』には、こんな有名な記述があります。
「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続」
経済的にそんなに強いとは言えないロシアは、自国のストロングポイントである「軍事力」で国益を守り、自国にとっての危機を回避しようとしているのです。
ロシアのウクライナ攻撃に対して経済制裁や非難の声明は出しても、軍事的に直接支援しようとする国がいない状況に対して、僕は第二次世界大戦前のナチスドイツによるチェコスロバキアのズデーテン割譲を認めた、英国のチェンバレン首相の「宥和政策」を思い出しました。
このままだと、ロシアの野心が伸長していくだけではないのか、どこかで強力な歯止めをかけるべきではないのか。
とはいえ、現状、ウクライナのために血を流そうという西側の国は存在しません。
ロシアの侵攻は「非道」だけれど、核も持っているロシアと事を荒立てて自国民に犠牲を強いる選択はし難い。
この本によると、「戦力差が大きい場合」には、圧倒的に優位な国のほうは、かえって「大勢の戦死者を出す」ことへの抵抗感が強くなることが多いのです。
本来軍事的に優位に立つはずのアメリカがハノイに追いつめられたのは、ハノイの損害受忍度の高さ(交戦相手よりもより大きな損害を受忍する覚悟がある)にあった。1986年12月、ハノイのホー・チ・ミン国家主席は「アメリカ人が20年戦いたいなら、われわれも20年間戦う」と述べた。ホー・チ・ミンは第一次インドシナ戦争開戦前夜の1946年にも、フランスに対し「君たちと私たちの戦死者比率は1:10になるだろうが、それでも負けるのは君たちで勝つのは私だ」と警告したことで知られる。
実際にベトナム戦争におけるハノイ側の戦死者数は、人口に占める割合としては第二次世界大戦における日本の被害の倍以上であった。ハノイにとってこの戦争は、いかなる対価を払ってでも手にすべき民族独立のための戦いであった。
1991年2月28日、アメリカを中心とする多国籍軍は、クウェートに侵攻していたイラク軍を同国から撃退し、攻撃を停止した。その後3月3日にクウェートとの国境に近いイラクのサフワンで多国籍軍側とイラク側のあいだで湾岸戦争の停戦が合意され、結果的にフセイン体制は存続を許されることになる。湾岸戦争での死者数は、多国籍軍側で約400、イラク側で約20万~30万とされる。
400対20万!
犠牲者の数字だけでみれば、まともな「戦い」になっていないのです。
もちろん、ロシアとNATOが直接交戦したら、犠牲者の比率は400対20万、とかにはならない(なるはずがない)でしょうけど。
戦力的に圧倒的優位だったアメリカ側にとっては、「とにかく戦死者を出さないようにする」ことが、中東の戦争では重要視されていたのです。
世界大戦になって自国の領土が攻められるかもしれない、という切実な状況でなければ、「そんな命を捨てる理由に乏しい戦争で死にたくない、自国の兵士を死なせたくない」と思いますよね、優位な側とすれば。
一方、ベトナム側は、それこそ「相手の10倍の犠牲者が出ても、ここは自分の国だし、踏みとどまり続ける」という覚悟を持っていました。
アメリカが総力戦でベトナムを粉砕しようとすれば、それは可能だったのかもしれませんが、アメリカには、そこまでやる覚悟も動機もなかったのです。
いまの西側諸国は、人の、兵士の「一人当たりの命の価値」が、ロシアや中国、ウクライナよりも高くなっているのです。
だから、NATOもウクライナでの戦争で、火中の栗を拾いたくない。
欧米諸国は、ウクライナのために自国民を死なせたくはないと考えているのです。政治家としても、ウクライナのためにロシアと血を流して戦う選択をしたら、支持を失う可能性が高いでしょう。
ロシアは、プーチン大統領は、そういう欧米諸国、NATO加盟国の状況を理解し、自国の「ストロングポイント」を活かしているのです。
後世から批判を浴びまくっている英国のチェンバレンの「宥和政策」も、リアルタイムではこんな感じだったのかもしれないな、と思うのです。
当時のチェンバレンは「戦争の危機、人的犠牲を回避した名宰相」と賞賛されたそうですから。
ロシア側からしても、「ここでウクライナを見過ごしていたら、自国の安全・安定が保てなくなる」という危機意識はあるはず。
結局、多くの戦争は「自分たちを守るため」に起こるし、人の命の価値は、現実的には「すべて同じ」ではない、ということを考えずにはいられないのです。
インターネット社会、グローバル経済の時代になって、もう、国家間の大規模な戦争は無くなり、テロリズムだけが続いていくのではないか、と僕は思い込んでいました。
でも、それは甘かった。