いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

他者の不幸や苦境を、自分を正当化するために「利用」する人たち


 手短に。

 僕も50年生きているので、それなりに冠婚葬祭にも立ち会ってきた。
 医療従事者なので、病気の人と、それを見守る人がいる場にも。

 自分の親の葬儀の時に、「どうしてお亡くなりになられたのでしょうか?」と尋ねてくる人というのは、けっこういるものだ。
 興味があるのはわからなくはないけれど、わざわざ、葬儀の場で遺族に直接聞かなくてもいいだろう、とは思うのだが。
 知ったところで、どうなる話でもあるまい。
 そして、こういう病気を患っていて、という話をすると「そうですか、私も身体に気をつけて、ちゃんと健診とか受けなきゃ」とか呟きながら去っていく。

 まだ若かった僕は、そういう人を目にするたびに、「その気持ちは理屈ではわかるのだが、遺族としては、なぜこの場で、弔意も述べずに『自分の話』にしかできないのか?」と大変不快ではあった。
 90歳を過ぎて、安らかに大往生、というのであれば、葬儀もただ和やかなものであって良いのかもしれないが、50代で亡くなった人とその遺族を前にして、なぜそうなってしまうのか。

 「そう思うのはわかりますが、心の中に留めておくか、この場を離れてから口に出してもらえませんか?」と何度も心の中で呟いていた。

 
 ここ数日のニュースや、それに対するネット上での反応を見ていて、僕はあの葬儀のときの、いたたまれない気持ちを思い出している。

 他者の不幸や苦境を「教訓」にするというのは、別に悪いことではない。
 たぶん、そうやって人間は歴史から学んできたのだ。

 だが、今まさに苦しんでいる病人がいる、それをわざわざ引き合いに出して、「ほら、こんなに苦しんでいる人がいるんだから、今からうちの健康食品を買って利用しておいたほうがいいですよ」と、したり顔で商売したり、日頃の自分の主張を正当化する材料にしている人たちには、心底うんざりする。
 そもそも、苦しんでいる病気に、その健康食品が効果を示すことがはっきり証明されているわけではないのだ。
 にもかかわらず、人々の「不安な感情」を利用して、自分の都合が良い方へ誘導しようとする連中は後を絶たない。

 溺れるものは藁をも掴む、と言う。
 他者が溺れているのを見て自分も溺れることを恐れている人に、藁を高額で売りつけようとする人には注意すべきだ。
 あなたがどんなに不安でも、もっともらしい宣伝文句が付けられていても、藁は藁だよ。

 いま、考えなければならないことは、その病気の人に自分たちは何ができるか、ではないのか。
 何もできないと考えるのなら、せめて、その苦しんでいる人を自分のために利用しようとする連中に引きずられないようにはした方がいい。


 これは危機だ、自分たちも同じ病気になったらどうしよう。
 でも、その人はまだ生きているし、治療できる可能性はある。本人は懸命に闘病している。
 これは危機であると同時に、大きな岐路でもあって、もしこれをうまく治療することができれば、同じ病気で苦しむかもしれない未来の人たちの力になるはずだ。

 その「闘病する」役割を担ってもいないのに、こんなことを書いている僕もロクなものじゃないのだけれど、書かずにはいられなかった。


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