一昨日(2024年11月17日)の夜、以前、サンデル教授の本で読んだ、ある思考実験のことを思い出しました。
読んでからずっと、なんとなく心に引っかかっていたのだけれど、詳細はすっかり忘れてしまっていたのです。
ChatGPTだったら、こんなうろ覚えで曖昧な質問にも答えてくれるのではないか、と思いつき、尋ねてみました。
僕「一人の子供を閉じ込めておくことで人々が幸福になれる町の話を教えてください」
以下、ChatGPTの返答です。
あなたがお話しされているのは、アーシュラ・K・ル=グウィンの短編小説「オメラスから歩み去る人々」(原題:The Ones Who Walk Away from Omelas)ではないでしょうか。この作品は、道徳や社会的責任について考えさせられる深い寓話です。
あらすじ
物語の舞台は「オメラス」という理想郷のような町です。この町は美しく、住民たちは知恵と喜びに満ちた生活を送っています。オメラスはユートピアそのもので、人々の生活には何一つ欠けるものがありません。しかし、この理想的な町の幸福には恐ろしい条件が隠されています。町のどこかに、暗く不潔な小さな部屋があり、その中に一人の子供が閉じ込められています。この子供は極端に劣悪な環境に置かれ、ほとんど食べ物も与えられず、世話をされることもありません。そしてこの子供の苦しみが、町全体の繁栄と幸福を支えているのです。
町の住民たちは、この事実を知っています。彼らはある年齢になると、この子供の存在について知らされ、直接その姿を見ることもあります。多くの人々は初めてその事実を知ったときショックを受けますが、やがてこの仕組みを受け入れるか、少なくとも見て見ぬふりをして町の幸福な生活を続けます。
しかし、一部の人々はこの仕組みを受け入れることができません。彼らは静かにオメラスを去り、誰も知らないどこか遠くへと向かいます。その後、彼らがどこへ行くのか、どんな人生を送るのかは語られません。
テーマと問いかけ
この物語は、「誰かの犠牲の上に成り立つ幸福」をテーマにしています。社会全体の幸福と個人の苦しみを天秤にかけることが道徳的に許されるのか、私たちは何を選ぶべきなのか、という難しい問いを投げかけています。
この話は哲学的なジレンマとして広く知られており、功利主義や倫理学について考える材料としても用いられます。「オメラスから去る人々」は、この不正に対する拒絶を象徴していますが、彼らの行動がどれほど効果的なのか、またどのような解決策があるのかは、読者自身に委ねられています。
興味があれば、ぜひ原文や翻訳版を読んでみてください!
そう、これ、この話!
この『オメラスから歩み去る人々』をサンデル教授の本ではじめて知ったとき、僕も考え込んでしまいました。
「一人の子供の犠牲でみんなが幸せになれるのなら、その集団としては『正解』なのではないか」
「やはり、こんなふうに他者や個人を犠牲にして、『全体の幸福の総量』が高ければいい」というのは間違っているのではないか」
「そもそも、こんな状況は非現実的なものであって、そんな中で人々に「正解のない選択」を強いるという、この問いそのものが無意味ではないのか」
「自分がこの子供の親とか家族である、というのと他人だった場合とでは、立場や考え方が異なるのだから、自分の立ち位置が設定されていないと答えられない(それはそれで、見知らぬ子供だったら見捨てるのか?とも思いますが)」
能力があり、権力を握っている人が、無能だとみなした身近な部下にひどいパワハラを行っている。
辞職をしたり、心を病んだりする人も出ている。
ただし、彼の仕事はうまくいっていて、彼が所属する集団、あるいは人類全体にとってはプラスになっている。
僕は、スティーブ・ジョブズという人の生涯とその才能、周囲への影響について、彼の伝記を読んで考えていました。
ジョブズはまさに「歴史を変えた天才」だし、僕もAppleの製品をたくさん使っています。
スマートフォンはずっとiPhoneだし、この文章を打っているのもMacBook Airです。
ジョブズが自分の身内や社員たちに、酷い仕打ちをした、というエピソードはたくさんあるのだけれど、そのプレッシャーが、Appleのさまざまな革新的な製品を生み出す原動力になったのかもしれない。
テスラやスペースXのイーロン・マスクもそうですよね。
彼らの場合は、私企業だから、承知の上で彼らのもとで働きたい、という超有能な人たちが集まってきて、結果的に彼らについていけなくて辞めても、別の場所で才能を発揮している場合も多いのですが。
ジョブズはパワハラ野郎だから、Apple製品は使わない、かというと、僕はそうしない。
結局のところ、人というのは、自分の都合で、オメラスに囚われている子供を「やむをえない犠牲」とみなしたり、目にする機会があっても「あれはフェイクだ」と考えたり、最初から見なかったことにしたりする。
あまりに道徳的な正しさに囚われてしまうと、現実の世界では生きづらい。
あの知事選の結果に僕が感じたのは、
「目的は手段を正当化する」
「全体の幸福のためなら(政策が自分たちにメリットが大きなものであれば)、自分に関係ない(とみなしている)人間がどんなにつらい状況に追い込まれても、仕方ない」
「犠牲になった人は、あくまでも『他人』であり、その犠牲を大目にみることで、次は自分が生贄になるかもしれない、なんて想像することはない」
「上から目線で『正しいこと』を押し付けてくる連中が地団駄踏んで悔しがるところを見たい。あいつらだけ天国に行って自分が地獄なら、一緒に地獄に行ったほうがマシ」
という、「人は、他人のために犠牲になる必要はない。自分自身の幸福を追求するのが人生の目的なのだ」という2024年の「普通の人々の本心」でした。
首長のパワハラについて報じられていたことが、どこまで正しいか、僕には証明する手段がありません。
でも、事実無根だとか捏造だとも思えない。嫌がらせのために人が死んだり、仕事を辞めたりするだろうか。
オールドメディアは左寄りだし、スポンサーの意向には逆らえない。
それでも、ファクトチェックに関しては、ネット上のどこから出てきたかわからない「真実」よりは、一般的に信憑性は高いと思います。
「最大多数最大幸福のためなら、個人が生贄になっても仕方ない」というのが当たり前の世の中になったら、いろんなものが「みんなのため」に切り捨てられていく。戦時中とか、まさにそうですよね。「犠牲者」が「英霊」になるだけのことです。
そしていつか、自分が「生贄」になる番がやってくる。
パワハラをしないと何かを成し遂げられないような人は「有能」ではないし、私企業ならともかく、公の組織のリーダーとしては、不適格だと僕は思います。
でも、僕自身だって、やっぱりApple製品を使っているし、Appleの株だって持っている。
人は「自分の都合」を無しにすることはできないし、「あの正義を振りかざす偉そうな連中に思い知らせてやろう」という動機だって、「その人にとっての正しさ」ではある。
いまの時代、これが「民意」なんだ。
それを前提として、これから、どうしていくべきなのだろうか?
思えば、「オメラスから歩み去る人々」は、あくまでも「歩み去る」のです。
オメラスを変えるために、人々を説得する運動を起こすわけでもなく、暴力に訴えるのでもなく、静かに去っていく。
僕は「結果なんて見るまでもないだろう」と思いながら、『ドラゴンクエスト3』をプレイしていました。
寝る前にYahoo!ニュースを見て、唖然としました。
参議院選挙で、ガーシー氏が1議席を得られるくらいの「愉快犯」は、いてもおかしくない。でも、まさか地方の首長選挙でこんなことが、と。
たぶん、僕は、時代に置いていかれている。
もうそんなに寿命が残ってなくて良かったのかもしれないな、そんな気がしています。
オメラスから立ち去った人たちは、どうなったのだろうか。
もっと「正しい楽園」を見つけることができたのか、それとも、「自ら楽園を捨ててしまったこと」を後悔し続けたのか。
『オメラスから歩み去る人々』から得られる教訓めいたものがあるとすれば、「自分にはどうしようもない、判断がつかない状況に陥ったら、その場を去る、逃げる、という手段もあるよ」ということなのかもしれません。
今の世の中、「逃げる場所」の選択肢は、その気になって探せば、けっこうあると思うから。
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