いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

羽生善治さんのA級陥落と西村賢太さんの訃報に、同じ「50代」として感じたこと



 この2つのツイートが2021年12月19日。
 50歳、まだまだイケるじゃないか、とこの日は思った僕なのですが、ここ数日、寂しい、そして悲しいニュースが続いていて、なんだか気持ちが沈んでいます。


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 51歳の羽生善治九段が、(名人位にあった時期も含めて)29年間続けてきた順位戦A級から陥落。
 
 
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 そして、作家の西村賢太さんが、54歳で急逝。


 あの羽生さんでも、50代になると、将棋界の最高ランクのA級であり続けることは難しかったし、西村賢太さんは、命を落としてしまった。
 僕は2人のファンなので、著書を読んだり、活躍を追ったりし続けていました。

 羽生さんの「陥落」に関しては、「あの羽生さんでも……」という寂しさとともに、「ついにこの日が来たか……」とも思ったのです。
 長年「最強の棋士」であり続け、「永世7冠」なんてとんでもない実績を残してきた羽生さんなのですが(「空前絶後」と言いたいのですが、藤井聡太さんをみてしまったからなあ……)、2016年くらいから、勝率が落ちてきているんですよね。

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 A級リーグでも、2年前、去年と2年連続で4勝5敗と負け越しており、降級のピンチをなんとかしのいできた、という感じでした。
 羽生さんが弱くなった、というよりは、若い世代、コンピュータで将棋を学び、研究した世代が急速に台頭してきていて、全体のレベルが上がってきたのです。
 僕は羽生さんと同世代なのですが、われわれが若い頃は、コンピュータ将棋なんて、人間とまともに指せれば御の字、だったんですよ。それが、あっという間に、「プロ棋士たちが、コンピュータの『評価値』が高くなる指し手を探す」という時代になりました。大山康晴さんが「盤外戦」とかで対戦相手を翻弄していた時代とは変わってしまっているわけで、そんな将棋を取り巻く環境が激変した時代に、29年間もトップランクであり続けたことは、本当にすごい。

 羽生さんは、降格が決まったあと、「内容も結果も伴わなかったので降級は致し方ないと思う」と語っておられました。
 羽生さんは、タイトル獲得が通算99期で、節目の100期に王手をかけており、2020年には竜王戦の挑戦者ともなっているのですが(1勝4敗でタイトル奪還ならず)、いまの若手棋士たちの強さ、層の厚さ、近年の羽生さんの成績を考えると、「あと1つ」は、なかなか大変だろうな、というのと、「しかし、それをやってのけるのが羽生さんではないか」というのが、僕の中ではぐるぐると回っているのです。

でも、加藤一二三さんが50代前半でA級から降級したあと、B1級で上位になって戻ってきた事例をあげて、「羽生さんならまだいける」というコメントをみると、個人的には「もう、羽生さんは勝つことにこだわるよりも、フリークラスに転出して順位戦を抜けても良いのではないか」とも思うのです。
講演や著書の執筆(ライターの聞き書きだとしても)、テレビ番組の司会など、「現代日本の『知性』の象徴」としての羽生さんの活躍をみていると、将棋にこだわらず、「人間の知性の探究者」であることに軸足を移しても良い年齢・立場なのではなかろうか。
外野がとやかく言うことではない、というのは百も承知なのですけど。


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1986~1990年に、当時10代後半だった羽生善治森内俊之佐藤康光というその後の将棋界の中心となる若手棋士たちを集め、伝説的な将棋の研究会「島研」を主催していた島朗さんは、こんな話をされています。

──皆に聞いている質問なんですが、なぜ「羽生世代」にはこれだけすごい棋士が集まったのでしょうか。


島朗羽生さんたちは最後の「精神世代」ですよね。いまはほとんど使われなくなった言葉ですけど、「気持ち」や「根性」を彼らは持っていました。羽生さんたちは勝負を合理的に追究していましたし、その流れが現在の将棋界をつくっています。ただ現在の論評では「合理性」の部分があまりに強調されすぎている気もします。実は羽生さんたちの将棋は、終盤で説明できないようなわけのわからない手が出て、そこが勝負を決めていたりしたんですよ。でも藤井聡太さんにはそういう手は少ない気がします。いまはソフトがあるから、指し手も全部数値化されてしまうでしょう。でも勝負を決めるのは数値じゃない。七冠時代、そしてそれ以降の羽生さんにはミステリアスな部分もあって、そこもすごく魅力的でした。


──なるほど、昔風の精神面と現代のデジタル的な部分の両方を併せ持つ唯一の世代ということですか。


島:そう、だから時代的な巡り合わせもあると思います。もちろん彼らの長くたゆみない精進が多くの部分を占めているにしても、ライバルの存在は大きいですし、「深く読む」という基本的姿勢が彼らの将棋をつくってきたことは間違いない。羽生さんが中心にいて、その周りを彩る人たちがいた。だから「恩寵」という言葉がふさわしいような気がしますね。いろいろなものが天から授けられた。そして、みな自分を厳しく律して棋士人生を全うしている。そうじゃないと、あれだけの人たちが揃う説明がつきません。


 いま50歳くらいの世代って、物心がついたときには、まだ黒電話、チャンネル式のテレビで、小学生から中学生くらいのときに、パソコンとかビデオデッキが登場してきたのです。
 まさに、コンピュータやデジタル、仮想現実や人工知能の萌芽から成熟をリアルタイムでみてきた世代です。
 僕の親世代は、コンピュータに馴染めないままだったし、子供世代は、インターネットがつながるのが当たり前の世界を生きています。
 だからこそ、その「アナログ世代」と「デジタルネイティブ」の橋渡しができる世代なのかもしれません。
 「板挟みというか、どっちつかずというか、家族主義と個人主義の間でずっと困惑してきた」ような気もするのですが。

 サッカーの三浦知良さんをみていると、「あれはあれでひとつの生きざま」だと思うのと同時に「あれだけのキャリアとカリスマ性がある人なのだから、『とりあえず現役プレイヤー』として、年間にごくわずかの出場機会のためにプロサッカー選手であることにこだわるよりも、もっと自分自身にとっても世の中にとってもプラスになる仕事や役割があるのではないか」と僕は考えてしまうのです。失礼きわまりないことは百も承知なのですが、「もったいない」と感じずにはいられない。

 でも、自分が50代になってみると「いまさら新しいことをやるよりも、自分がやってきたことをできるかぎり続けたい」というのもわかります。なんのかんの言っても、キング・カズには、まだプロサッカー選手として契約してくれるチームもあるのだし。

 50代、とくに50代前半くらいって、それなりに身体は動くし、思考力もそんなに落ちた感じはしない。ちょっと気が短く、イライラしやすくなった気はするし、血圧は上がったけれど、まだ「老け込む年齢じゃない」。
 僕にとっては、いまの50代って、昭和の40代くらいのイメージですし。

 今までやってきたことを、まだ続けられる(ような気がする)。ただし、天井とか限界はみえてきていて、新しいことをやるのならば、なるべく早いほうがいいのもわかっている。

 たぶん、大部分の人は、自分のポジションを意識的に変えたり、モチベーションを再確認しなければならない時期でもあるのです。


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 西村賢太さんの訃報には驚きました。
 それと同時に、西村さんの日記を愛読してきた一読者として、「こんな生活ぶりでは、長生きできないよ……と思っていた」のも事実です。


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西村さんの生活というのは、なんというか「こんな生活をしていて、よく小説のネタがあるなあ」なんて考えてしまうようなものでした。
夜遅く(というか、明け方近く)までお酒を飲んでいて、昼くらいに起きて、いつものラジオ(『ビバリー昼ズ』)を聴き、小説やエッセイを書いたり、テレビやラジオに出る仕事があれば、それをこなし、夜になったら編集者たちと飲みに行き、寝る間際になって、「弁当2個+カップラーメン」みたいな、不健康極まりない生活を、同じように繰り返しておられるのです。
「それ、生活習慣病まっしぐらですよ……」と、言いたくなってしまいます。
さらに、担当の編集者たちともしょっちゅういざこざがあり、小さな絶交を繰り返していたりして。


これが2011年3月からの日記なので、もう10年以上前。その後、生活習慣が改善されていないとしたら(僕が「日記」を読んだ範囲では、5年前くらいまでは、同じような「飲む、書く、買う」の生活みたいです。日記が100%事実じゃないかもしれませんが)、むしろ、よく10年以上この生活で書き続けられたなあ、と思うし、小説の神様が10年西村さんに時間をくれたのではないか、とさえ思うのです。とはいえ、まだまだ、読みたかった。
 西村さんが亡くなられて、もう「無頼派作家」って、伊集院静さんと町田康さんくらいしかいなくなってしまったなあ……もう、これからは「作家だから、私生活が乱れていても仕方がない」という時代じゃないだろうから、「絶滅危惧種」だよなあ……と、なんだか寂しくもなったのです。町田康さんでさえ、もう還暦、だものなあ。ああ、西原理恵子さんが「最後の砦」なのかな……

 たぶん、今20代、30代くらいの世代は、「作家や芸能人だからって、モラルに反したり、乱れた生活をすることは許されない」というか「そういう立場であれば、なおさら隙の無い人生であるべきだ」と思っている人が多いのではなかろうか。
 「良くも悪くも、『普通には生きられない人たち』だからこそ、芸能や芸術で食べていく」という感覚は、もう「老害的」になっているのです。
 石原慎太郎さんもそうだったけど、西村賢太さんも「人生そのものが小説のような人」ではありました。


 僕は西村さんの訃報に、ああ、50代って、人生の転機とか、発想の転換どころじゃなくて、人が突然死ぬ年齢なんだよな、とあらためて思い知らされたのです。そもそも、僕の両親はふたりとも50代で亡くなっているのに、今さらそんなことを再認識するなよ、って話ですが。
 僕自身だって、何人も50代、あるいはもっと若い人を見送ってきたのに。


 だから今日を大事に生きよう!いつだって、今日の自分がいちばん若い!

……そんな手垢にまみれた警句は、いまの僕には実感がわかない。 
 そしてたぶん、実感がわかない、と言いながら、死んでいくのではないか。

 自分の人生は、自分で責任をとるしかないし、決着は、望まなくても、いつかはつく。そんなに遠くないうちに。

 名人でも芥川賞作家でもない僕の人生なんて、『どうで死ぬ身の一踊り』でしかないのだけれども、なんだかとても不安な身の置き場がない気持ちと、これはもうどうしようもないな、という穏やかさが入り乱れている今夜なのです。


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