いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

ネットには、「新しい素人の時代」が来ているのかもしれない。


anond.hatelabo.jp


 いやほんと、2000年くらいのテキストサイトとか流行りはじめの時期のブログって、なんだかすごく面白かったような気がします。僕も本当に寝る時間を削って、毎日更新していましたし、『Read Me!』の順位に一喜一憂していました。あの時代は、KKG(かーずSP、かとゆー家断絶、ゴルゴ31という大手ニュースサイト)に一度紹介されるだけでPV(ページビュー)数が急上昇、なんて「夢」もありましたし。
 

weekly.ascii.jp


 まあでも、ネットの「素人の時代」というのは、そんなに長くもなかったんですよね。
 そりゃ、どこの馬の骨だかわからないオッサンが眞鍋かをりに敵うわけもない。


 以下は、10年前のネットの「自分史」を振り返ったものですが(長いので読まなくてもいいです)、ブログでは10年前には、もうすでに新規参入は難しくなっていたのです。

fujipon.hatenadiary.com


 というか、15年前にはすでに「新規参入の時代は終わった」とか書いているんですよね。
 あらためて思い返すと、人類絶滅の時期がどんどん遅れていく終末系新興宗教みたいだな。

fujipon.hatenadiary.com

 
 YouTubeとかニコニコ動画のような、動画系コンテンツの場合は、「素人がどんどん成りあがっていった時期」は、テキスト系のコンテンツよりも遅かったと思うのですが、「無名の人が彗星のように現れてスターになることができた」時期は、動画でもそんなに長くはありませんでした。
 だいたい、有名になると、有名人どうしで繋がりまくって、カルテル化しはじめるのです。
 有名ユーチューバーだって、登録者数10人とかの相手と「コラボ」するわけがない。


 20年以上ネットを漂流しつづけ、半世紀くらい人間をやっていて思うのは、コンテンツって、基本的には先行者、既得権者が圧倒的に有利である、というのと、メジャーになり、裾野が広がれば、もっとすごいヤツが出てくる、というのは幻想であることが多い、ということなんですよ。
 
 K-1という格闘技が大人気になって、地上波で高視聴率を取りまくっていた時期、こんなにメジャーになったら、初期の頃のファイターたちなんて、あっという間に新しい選手に凌駕されてしまうだろうな、と予想していたんですよ。
 ところが、実際はそうならなかった。もちろん新しい選手も出てはきたのですが、少なくとも「新しい人がどんどん出てくる」状況にはなりませんでした。
 ネットの「テキスト系」でも、個人サイト、ブログ、SNSTwitterと、多少の得手不得手はあるとしても、既存の媒体で人気を得ていた人たちが、初期に多くの人を集めていったのです。
 Twitterでも、やりはじめのフォロワーが少ない時期って、ちょっと興味持ったら、すぐフォローするじゃないですか。
 でも、しばらく使っていると、タイムラインを追うのも大変だし、フォローをするハードルも上がっていきます。


 ただ、最近僕が感じているのは、ネットのコンテンツ、YouTubeやインスタグラムが「新型コロナで稼げなくなったプロや芸能人の狩場」になっている一方で、「もう、あんまりキラキラしたものばかり見せられるのに疲れた」という読者・視聴者が増えているのではないか、ということなんですよ。

 ネットユーザーもみんないろんなことを学んできて、Twitterでバイト先の不適切映像を公開して炎上する人は見かけなくなったし、イケダハヤトさんやはあちゅうさん関連の話題がホットエントリになることも少なくなりました。それはそれで、「検証する人がいなくなる」怖さもあるんですけどね。

 インターネット以前は、プロとアマチュアの境界というのはけっこうはっきりしていて、アマチュアが自分の書いたものを読んでもらうには、お金を払って同人誌に載せてもらうか、文学賞に応募するしかなかったのです。
 その時代に比べれば、ネットのおかげで、「宝くじに当たる」から、「10万馬券を当てる」くらいまで、一山当てられる可能性は高くなりました。


fujipon.hatenablog.com
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 アンディ・ウォーホルじゃありませんが、誰でも人生にひとつくらいは「バズれる(多くの人に注目される)」ネタの一つくらいは持っていて、『note』みたいに、素人の「蜂の一刺し」をかき集めるやりかたもあるわけです。
 あとには蜂の死骸が山積みになっても、メディアは痛くもかゆくもありません。蜂はたくさんいますから。


「炎上してしまう」のも含めて「コンテンツ」なのです。
 ずっと卵を産むニワトリを育てなくても、1個卵を産んだら処分して、次のニワトリを連れてくればいい。誰もが「発信」したがる時代なのだから。ニワトリだって、世界にひとつ爪痕を遺せれば、それで満足だろう。大部分は、何も遺せずに消えていくのだから。


 その一方で、「これは自分にはできない、ものすごい」という動画と同じくらい「ああ、こういうのは自分だけじゃないんだな」みたいな動画も再生されている。



実家暮らし派遣工場勤務の一日【ルーティン】


 中途半端なセミプロがドヤ顔でつくったコンテンツよりも、観ている人も「まあ、人生こんなもんだよね」と安心・共感できるコンテンツのほうが、好感度を高めやすいのです。

 ピアノを演奏するコンテンツであれば、ものすごく上手い人は評価されるでしょう。
 でも、中途半端に上手いよりは、「なんでこの技術で動画にできるんだ?すごいメンタルだ……」というくらいのほうが、注目されるというか、多くの人に愛される可能性がある。

 素人が注目される時代を経験してしまうと、「スタートラインは同じはずなのに、なんで自分はうまくいかないのだろう?」というコンプレックスが増幅するんですよ。少なくとも僕はそうでした。むしろ、「すごくないもの」を見たい、俺を安心させてくれ。

 実際、世の中には、「視聴者数がほとんどゼロなのに、配信者が『みんな』に呼びかけつづけているゲーム配信」とかが少なからず存在しています。というか、世界のほとんどの発信って、そんなものなんですよね。眺めながら、「この状況がつらくないのだろうか」と思うし、自分が再生をやめてしまうのをためらいもします。僕の人生も有限なので、迷うのは数秒くらいのものですが。ネットは、リアルタイムで「反応」が数字として見えてしまうから、怖いし、キツイですよね。もちろん、だからこそのやりがいもあるのだけれども。

 そして、「素人っぽく見せる、プロがつくったコンテンツ」もすでに多量に生産されてきていて、人間の「適応力」ってすごいな、と感心するばかりです。


 「推し活」に関しては、僕も長年「他人を応援し、お金や時間を吸い取られるだけなのに、何が楽しいんだろう?」って思っていました。
 でも、最近になって、「推し」というのは、その対象物への愛というより、「その対象物を好きな自分自身も包括しての愛」だと考えるようになったのです。


fujipon.hatenadiary.com

 今は、SNSでファン同士がつながったり、ブログでファン側から情報を発信したり、自分の「解釈」を広めたりすることもできる。
 一昔前のファンと親衛隊のような関係ではなく、「誰を推しているか」が自分のアイデンティティとして認められる時代になっているのです。
 ネットを巡っていると、自分の「推し」について語っている人がものすごく多いんですよ。

 他人に自分の人生を預けていいの?
 僕はずっとそう思っていたのだけれど、もう、そういう考え方そのものが古いのだと思います。
 誰かを「推す」のは現実逃避ではなくて、誰かを推すことそのものが、現実。
「推し」に利用されているのではなくて、「推し」を自分に取り込んでしまっている。

 人を「推す」というのは、いまでは、自律的で、したたかな処世術なのです。
 極論すれば、「推し活」って、自分の分身でものすごく大事だけれど、いざとなったら乗り換えられるアバターを持っているようなものです。


 僕にとっては、2000年代初頭のネットは宝物みたいなもので、本当に楽しい時代だったと思います。
 ただ、今振り返ってみると、あの頃は、インターネットそのものが、どんどん利用者が増え、世間にも認知され、新しいサービスが出てくる時代でもありました。高度成長期の日本みたいなものです。『三丁目の夕日』症候群。

 いまはネットサービスもかなり成熟してきていて、あの頃のような、「こんなこともできるのか!」とワクワクするような出来事は少なくなりました。テレビ番組の内容紹介や芸能人がインスタグラムにアップした写真が「ニュース」として紹介されているのをみると、「記者たちもっと仕事しろよ!」と言いたくなります。実際、それが「飯の種」になっているし、それを見ている人が大勢いるんですけどね。

 「稼げるようになった」のがネットをつまらなくした面はあるのですが、個人的には、少しだけでもコンスタントに稼げるおかげで、僕は自分のブログをしょっちゅう閉鎖したり、「やめてやる!」とヤケになったりすることがなくなりました。

 ネットの嫌儲の人って、世の中には「お金なんて要らない、不浄なものだ」という人と、「銭ゲバ」の両極しかいない、と考えているのではなかろうか。
 大部分の人は「お金を稼ぐことが第一ではないけれど、お金になることは、モチベーションの一部ではある」くらいだと思います。お金になる、とか、紹介した本をAmazonで誰かが買ってくれる、というのは、すごくわかりやすい「承認」なのです。
 だいたい、月に何万円かの稼ぎのためだけに、こんなに書けないよ。お金のためなら、アルバイトに行ったほうがよっぽど効率がいい。

 右肩上がりの時代の高揚感はなくなったけれど、発信するためのツールは昔よりずっと使いやすくなったし、見てもらうための場も、潜在的な市場も、ずっと広く、大きくなってはいるのです。
「面白い素人」も、いるんですよ。プラットフォームの「おすすめ」に従うだけじゃなくて、少し能動的に検索するだけで、「こんなのあったのか!」っていう出会いにつながります。

 みんなが「お金になるほう」「人気が出そうなほう」へ向かっているのならば、逆にそこからこぼれおちるところにこそ、「ニーズ」があるとも思うのです。
 僕自身も長年やってきて、いま感じているのは、(人気があろうがなかろうが)コンテンツを積み上げていくことが快い人間は存在するし、閑散としたブログでも、書いている自分がそれなりに幸せになれるならば、それで良いのだろうな、ということなのです。


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僕たちのインターネット史

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