僕は「と学会」の本を読んで、『ノストラダムスの大予言』というのは、どうも当たらないというか、けっこういいかげんなものらしい、ということに自信を持てるようになったのです。『水からの伝言』(水に『ありがとう』などの『良い言葉』を見せるときれいな結晶ができて、『ばかやろう』などの『悪い言葉』を見せると、きたない結晶ができる、というやつですね)へのツッコミも記憶に残っています。
「いい話」「教育上役立つ(と多くの大人が思い込んでいる)話」は、「噓でも良いじゃないか」というような欺瞞に対して、敢然と立ち向かっていった『と学会』の活動は、当時の僕にとっては、とても刺激的なものでした。
その後の『江戸しぐさ』論争などをみると、結局、人は同じようなことを繰り返すものなのだな、と考え込まずにはいられないのですけど。
山本弘さんが書かれている、当時の『と学会』の内部での諍いや「他人の誤りには徹底的にツッコミ、笑いをとろうとするけれど、自分の噓やミスに対しては認めようとしない会員」の話を読むと、なんだか悲しくなってしまいます。
大人になってわかるのは、「組織の理念を守ろうとする人」と「仲間(あるいは自分自身の面子)を守ろうとする人」が対立したときに、大概、勝つのは後者のほうである、ということなんですよね。
人は、「正しい人」よりも「自分を守ってくれる人」に従う。
この本、内容の半分くらいは、「百田尚樹現象」の下地としての、小林よしのりさんの『戦争論』のインパクトや「新しい歴史教科書をつくる会」の話なんですよ。
小林さんが「薬害エイズ事件」を『ゴーマニズム宣言』で採りあげて、社会現象を起こした際には、「危険な血液製剤であることを知っていたはずなのに、それを使い続けていた医学界の偉い人たち」に、大きな衝撃を受けました。
小林さんは、マンガの力で世の中を動かしたのです。
そして、「薬害エイズ事件」への対応にあるていどの目処が立ったあと、活動していた若者たちが、左派系の組織に取り込まれ、「運動のための運動」をするようになってきたのをみて、小林さんが『ゴーマニズム宣言』に「日常に戻れ」と描いていたのもすごく印象に残っています。
でも、結局、彼らの多くは「薬害エイズ問題を解決すること」という目的を達成したあとも(100%の達成ではなかったとしても)、「自分たちで社会を動かすこと、社会的な影響力を持つこと」の誘惑から逃れられなかった。
「と学会」とか、まさにそうだったと思うのですが、仲間内で面白がってやっていたことや、ちょっとした社会正義の実現への義侠心、みたいなもので、人は動きはじめるのです。
ところが、それが世の中に認められ、メンバーが「偉い人たち」に認められ(利用され)たり、お金になって、それを生業にする人が出てくると、その活動は転機にさしかかります。
どんなに社会に大きなうねりをもたらすような活動でも、それで10年、20年食べていくのは難しいし、同じことばかりずっと主張していても、忘れられたり、問題そのものが解決して時代遅れになってしまったりもする。
その結果、どんどん瑣末なもの、放っておいても害がなさそうなものにまで難癖をつけてネタにしたり、極度にマンネリ化して同じことを繰り返すようになったり、炎上商法にはしったりする。自分自身が権威になると、自分がやってきたことを他人にやられて権威が揺らぐのを怖れるようになる。
僕は20年くらいネットで書いているのですが、結局、自分は同じことを繰り返しているだけではないか、と感じています。でもなかなかやめられない。
もちろん、それは自分にとって大事なことのつもりだし、少しずつ変わっているところもあるのだけれど、読んでいる側にとっては、「堂々巡り」なんだろうな、とも思います。書いているほうがそんな感じなんだから、そりゃ、読むほうは、ねえ。
実際のところ、ひとりの人間がたくさんの人に読んでもらえるネタなんて、「ハチのひと刺し」みたいなもので、そんなにたくさんはない(誰でもひとつはありそうな気はするけど、多くても2〜3個くらい)。
『note』で、コンテンツをお金にしようとする人は多いけれど、ブックマークがたくさんつき、SNSで大きく拡散されるようなエントリをたくさん持っている人はごく少数で、話題になった人でも「一発屋」が多いし、「他者への愛想のよさと惰性だけで人気者っぽくなっている人」も大勢います。
正直、これだけ「文章を書きたい人」が大勢いて、誰でもネットで拡散できる環境になれば、プロの作家が惰性で書いた話よりも、「ひとりの人間の渾身のひとつのエントリ」を消費することを多くの人が選ぶのではないか、という気がするのです。これだけ人間がいて、書きたい人もいれば、「一人あたり一つのネタ」で十分なんですよ、受け手にとっては。
「クリエイター」にとっては、「一発屋」で終わるわけにはいかないし、なんのかんの言っても、自分の権威や収入の源には、しがみつかざるをえないのです。
僕はお金のためにブログを書いているのではありませんが、ごくわずかでもお金になるというのは、更新を止めたり、突然ブログを消したりする衝動をせき止める理由にはなっているのです。
ましてや、これが収入の柱になっている人は、自分でも、なんだか質が落ちてきたなあ、つまんないなあ、と思っていたとしても、そう簡単にはやめられないはず。
人間は、1万円もらい損ねるよりも、手持ちの1万円を失うほうが、何倍もストレスが大きいそうです。
稼ごうとしても稼げない、よりも、稼げていた収入を失うことのほうが、ダメージを受けやすい。
「自分のやりたい仕事をやる」「お金じゃなくて、もっと大きな社会に貢献できる仕事をやる」ためにフリーランスになったはずの人が、収入減の不安から、結果的に、以前組織に属していたときと同じような、あるいは、「金になるつまらない仕事」をやるようになるのは、珍しいことではありません。
実際、長年多くの人のブログ、SNSライフをみていると、「人気が出てしまったがゆえに、「もっとウケそうなネタを!」「もっとみんなの期待に答える過激な発言を!」と加速していった挙句、「それは言い過ぎ」と、突然周囲から梯子を外されて墜落死する人って、多いんですよ。
その結果、「他者の批判なんて気にしない。あいつらは妬んでるんだ」という「メンタルが強いというか、ぶっ壊れている人たち」ばかりが生き残ってしまいがちなのは、ネットで何かをやろうとする人たちにとって、悲劇的ではありますが。
もちろん、全く人気が出なくて続けられない人のほうがはるかに多いんでしょうけどね。
ネットのおかげで、書くことで食べていける人が多くなったのは確かでしょう。
でも、「書き続けて、食べ続けていける人」は、けっして多くはないし、クリエイターが消費され、「老害化」するまでの寿命は、どんどん短くなっているのです。
まあ、それで誰が困るか、と言われると、クリエイター本人は困るだろうけど、今の世の中で、10年後も絶対安泰な仕事なんて、そんなに思いつかないのも事実なので、考えてもしょうがない話ではありますが。
人は、変わる。お金や生活や権威によって。
でも、変わってしまったからといって、変わる前の業績まで全否定することはないと僕は思います。
(とはいえ、岡田斗司夫さんの場合は、プライベートでの女性問題は、インパクトが強すぎて、どうしても僕の中では「無し」にはできません。人格やプライベートと業績を切り離す、というのも、けっこう難しい)
『と学会』は、僕の人生のある時期にとても影響を与えたし、そのことに感謝しているのです。
『と学会』の「その後」にあれこれ問題があったとしても、そのことは覚えていたいと思っています。
もし、オウム真理教の幹部になった人たちが、麻原彰晃に出会う前に『と学会』の本に触れていたら……
よゐこの濱口優さんが、「どうせ1999年にみんな死んじゃうんだから、好きなことやろうぜ」と、料理人になるつもりだった有野晋哉さんを説得しなかったら……
けっこう、多くの人生が、『ノストラダムスの大予言』で変わったんですよね。あの時代をリアルタイムで経験していない人にとっては、冗談にしか思えないかもしれないけれど。
- 作者:と学会
- 発売日: 2017/10/15
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 作者:原田 実
- 発売日: 2014/08/26
- メディア: 新書