いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「『2ちゃんねる』を知らない若者たち」に、いま、「ひろゆき」さんが支持されている理由

www.news-postseven.com


 僕にとっての「ひろゆき」さんは、『2ちゃんねる』の管理人であり、「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」と言った人、でもあるのです。
 
 今回あらためて調べてみたんですが、この言葉って、2000年のバスジャック事件の際に、テレビのインタビューでひろゆきさんが「2ちゃねる管理人」として語ったものなんですね。

moto-neta.com


 冒頭の記事を読んでいてあらためて思い知らされたのは、「いまの若者は掲示板(とくに『5ちゃんねる』のような巨大匿名掲示板)を使わないし、存在すら認識していない」ということだったのです。もちろん、使っている人もいるのでしょうけど、TwitterInstagramのほうが一般的だし、それらのSNSでも最近は若者の炎上騒動は激減しています。

 僕自身は、ひろゆきさんの「人間としての面白さ」に興味を持つのとともに、「裁判になってもお金なんて払えないし」みたいな開き直りに唖然としたこともありますし、「ネガティブな面も含めて、ネットの自由と利用者の自己責任を言い続けてきた人」という敬意と反感が入り混じったようなイメージも持っているのです。

 僕はこれまで読んできた、ひろゆきさんの著書から、いくつかを挙げておきます。


(1)2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?

fujipon.hatenadiary.com



(2)論破力

論破力 (朝日新書)

論破力 (朝日新書)

fujipon.hatenadiary.com



(3)1%の努力

1%の努力

1%の努力

blog.tinect.jp



(4)叩かれるから今まで黙っておいた「世の中の真実」

fujipon.hatenadiary.com


 ひろゆきさんには、「スポンサーへの配慮」とか「差別だと叩かれるのが怖い」というような理由で、テレビや大手メディアでは、誰も言いたがらない、あるいは、誰かが言ってもスルーされてしまうことを「空気を読まずに」あえて語れる強さがあるのです。
 『2ちゃんねる』時代から、集団の空気や色に染まらない人であり続けているのはすごい。
 お金だって、本もたくさん出しているからそれなりに稼いでいるのでしょうけど、『2ちゃんねる』でも、もっと稼ごうと思えば稼げたのではないかと思います。
 基本的にいろんなものへの「執着」が少ない人なのかもしれません。


(4)の本のなかに、こんな話が出てきます。

 たとえば、コロナ禍におけるエピソードが、それを象徴しています。
 大勢の人が「密」な状態でいると、新型コロナウイルス感染の危険性が上がることは、わりと早くから報道されていました。
 そして、その密になる状況として、盛んに取り上げられたのがなぜか「屋形船」でした。屋形船で初期の感染者が出たことはたしかですが、レアケース以外の何物でもありません。
 そもそも、屋形船を利用する人なんてごく一部でしょう。「屋形船での感染に気をつけましょう」と言われても、多くの人が「そもそも一度も乗ったことがないんだけど……」と思ったはずです。
 僕にはそれがすごく不思議だったので、Twitterでこう発信しました。

 「換気が悪く、密集する空間、不特定多数が接触する場所」の厚生労働省の例:スポーツジムや屋形船、ビュッフェスタイルの会食、雀荘、スキーのゲストハウス、密閉された仮設テント
 「満員電車」って絶対言わないけど、罰ゲームでもあるの?

 そうしたら大きな話題になって、テレビ番組やネットニュースなど、あちこちで取り上げられました。
 やはり、僕と同じように感じていた人が少なからずいたのでしょう。


 これって、「言われてみれば当たり前のこと」ですよね。
 ところが、どこからか圧力がかかったのか、出演者やテレビ局がスポンサーに配慮していたのか、それでも通勤しないと世の中は回っていかないと信じていたのか、これをテレビで公言する人はあまりおらず、「屋形船」とかがスケープゴートにされていたのです。

 最初はアングラで、お金にもならず、その代わりに「自由」だったインターネットは、当たり前のインフラに成長しました。
 やりようによっては稼げる場所になった代償として、「世間やスポンサーへの配慮」が必要なメディアになりました。
 それは、利便性の向上や人々の欲望を満たすためには致し方ないことではあったのでしょう。

 でも、その代償として、ネットで発信する側には、さまざまな制限が課せられるようなりました。法的なものだけではなくて、「叩かれないため」や「スポンサーの期限を損ねないため」の、誰から強制されたわけでもない「自主規制」も含めて。
 ネットでも、お金になることが、優先的に書かれやすい、目に付きやすいですしね。

 いまさら、中高年の憩いの場のようになった『5ちゃんねる』に若者たちが回帰してくるとは思えません。
 あれほど書き込みに対して叩かれる率が高い場所は、『いいね!』を求める人には耐えられないのではなかろうか。
 「釣り」をやるにも、魚も以前よりずっと少なくて、釣り師の投げる餌に見向きもしなくなりましたし。

 その一方で、ひろゆきさんの「空気に遠慮しない、ロジカルな語り口」が再評価(?)されているのは、(ネットでも)言いたいことが言えなくなってしまった世の中への閉塞感を象徴しているように感じます。


 最後にひとつ。
 ひろゆきさんといえば「ロジカル」とか「論破!」のイメージが強そうなのですが、(3)の『論破力』には、こう書かれています。

 討論番組とかでは、言っていることが正しいか間違っているかで議論するので、当然ながら間違っていることを言ったら負けになるわけです。
 でも、たとえ間違った主張であっても、議論を見ている人たちが正しいことを言っている論敵のほうを「この人、嫌な人だよね」と思うような議論の進め方というのもあるのですよ。
 何度か「人を殺すのは本当に悪いことか」というテーマを例に、論破の仕方について述べました。その議論の過程で、「悪い人を殺すのは、無条件でいいこと」という結論が導き出されたとしたら、殺される対象が悪い子どもであっても、それは正しいことになります。
 つまりこの議論の流れでは、「悪い子どもでも、とにかく子どもを殺すのは悪いこと」という主張は間違いであって、それを言ったら議論に負けるわけです。
 けれどもおいらは、そうした状況ではきっと子どもを守るポジションを取ります。「子どもが殺されたら、かわいそうじゃないですか」などと言い続けるでしょう。
 議論としてはおいらの負けです。ただ、討論番組とかを見ている一般の人は論理的な正しさよりも感情的に反応するので、「悪い子どもは殺してもいい」と正しいことを言った人には「あの人は子どもを平気で殺す人なんだ」という、ネガティブなレッテルが貼られてしまうわけです。
 要は、「試合に負けて勝負に勝つ」というのも立派な論破力ということ。
「〇〇さんが言ってることは正しいと思うんですけど、僕にはできないんです」といった言い方では、もちろん相手を論破することはできません。
 けれども、世間的には「いい人なんだな」というイメージを持たれる。それはつまり、最終的には勝ちなのですよ。


 その場で相手を黙らせるのは局所的な「論破力」でしかなくて、戦略的には「論理で負けても、自分の好感度を上げる(あるいは、相手の好感度を下げる)」ほうが有効なこともある。
 ひろゆきさんは、こういう、大局的な「論破力」についても、考えている人なのです。

 僕は、ひろゆきさんの強みは、「ロジカル」とか「相手をやりこめてしまう」面よりも、こういう「世の中の人間は、論理的に正しいほうに必ずしも共感するわけではないし、『負けるが勝ち』の場面もある」ことまで理解していることだと思うのです。

 ひろゆきさんはある意味、「もっと広範囲の空気を読んでいる」とも言えるのではなかろうか。
 個人的には、好きか嫌いか、と言われたら、ひろゆきさんが僕の身近にいたら、身構えてしまって、関わるのを避けそうではあります。


無敵の思考

無敵の思考

働き方 完全無双

働き方 完全無双

アクセスカウンター