僕も最近「インターネット疲れ」みたいなものを切実に感じていて、「がんばってTwitterなどのSNSに触らないようにする」時間をつくっていますし、YouTuberが配信する動画を観る頻度も減ってきています。
SNSでは、自分にはどうしようもないのに、心が揺さぶられるのがなんだかとてもつらくなってきており(これが「中年の危機」というやつなのでしょうか)、YouTuberの動画には「マンネリ化」を強く感じます。
素人が動画を投稿し、人気者になる仕組みができて、10年あまり。
「素人ならではのしがらみのなさ」や「スポンサーがついていては難しい自由度、だらだら感」みたいなものが好きだったのですが、最近Amazonプライムビデオの『ロード・オブ・ザ・リング: 力の指輪』を観ていて、ふと思ったのです。同じ1時間を使うのであれば、YouTubeの同じようなことを焼き増ししながらいろんな人がやっている動画よりも、お金と時間をかけてプロが作った密度の濃いものを観たほうが、時間を有効に使えるのではないか、と。
正直なところ、僕は「時間を有効に使う」とか「生産性」に対して、そんなに高い意識を持っているわけではなく、むしろ「ダラダラしたいときは、そうするのが正義。もう若くもないんだし、なるべく面倒なことやイヤなことは避けて過ごそう」と思っています。
それでも、最近は、ネットの「未完成な(あるいは、完成度の低い)コンテンツ」を観ることに飽きてきたのです。
ただ、これが「インターネットの終わり」かどうかはわからない。
いかにも「インターネット的」な、素人が自由に発信するコンテンツ(ブログやYouTube)やSNSが生まれたのは2000年代(00年代)半ばくらいからで、もう15~20年くらい経っているんですよね。
以前も書きましたが、もう、インターネットは「新しいメディア」ではないのです。
大人になってからインターネット社会になった僕のような世代と、物心ついたときからIPadが枕元に置いてあった世代とは、スタート地点が違いすぎる。
僕は、インターネットのコンテンツの流行り廃りって、「お笑いの世界の栄枯盛衰」に近いのではないか、と思うようになりました。
1970年代のはじめに生まれた僕にとっては「絶対王者」だった『8時だョ!全員集合』の王座が『オレたちひょうきん族』によって揺らいでいった時代は、何か「革命」が起こっていたような気がしていたのです。
僕は当時、『ひょうきん族』にものすごく肩入れして、『全員集合』なんて子供向け、もう古い!と断じていたんですよね。今から考えたら、お前だって子供だろ、って話なんですが。
でも、『全員集合』が終わってみると、『ひょうきん族』も一緒に輝きを失ってしまったみたいに、急につまらなくなっていったのが不思議でした。
「人気」の世界って、頂点に辿り着いてしまうと、あとはもう、落ちるだけだものなあ。
1989年10月7日、18時30分。
『オレたちひょうきん族』最終回を翌週に控え、2時間半にわたる「さよなら ひょうきん族」と題したグランドフィナーレの生放送が始まった。
その日、東京では、『ひょうきん族』終了を惜しむかのように、雨が降っていた。
進行を任されたのは明石家さんまだった。当時34歳。
番組開始当初こそ、いち若手芸人にすぎなかったさんまだったが、『ひょうきん族』の人気の上昇とともに、さんまの地位も上がっていった。そして番組終盤には名実ともに押しも押されもせぬ主役の一人になっていた。『オレたちひょうきん族』の功績は数え切れないほどあるが、今思えば明石家さんまの立身出世・成長物語としての側面もあった。
『ひょうきん族』終了のニュースが伝えられたのは、その年の8月だった。「オバケ番組」と呼ばれた裏番組『8時だョ!全員集合』(TBS)を打ち破り、終了に追い込んだ『ひょうきん族』は、代わって始まった『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」(TBS)の人気に苦戦していた。視聴率も下がり、出演者たちは『ひょうきん族』で得た人気ゆえ、多忙を極め、モチベーションも低下していた。
たけしに至っては「オバケが出た」などという理由で番組収録を休むことが増えていた。「出て、出て、休んで、休んで」「ねぇ来週どうするの?」「わかんない」「出て、出て!」というたけしとさんま2人が扮する「カスタネットマン」なるキャラクターが生まれたほどだ。
だから『ひょうきん族』を終わらせるという最終的な判断を託されたのはさんまだった。
「笑い」には、「事前にきっちり作りこんで、その完成形を観客・視聴者に見せるもの」と「アドリブをどんどん入れて、演者のキャラクターと、即興性で観客・視聴者を巻き込んでいくもの」の二つの潮流があって、それが交互に流行り廃りを繰り返しているようにみえます。
『全員集合』は前者で、『ひょうきん族』は後者だった。
そして、人々は前者にマンネリを感じると後者に意外性を求め、後者に飽きると、前者に「作り込んだ高いレベルの芸」を期待するようになる。
『ひょうきん族』を追い落としたのは、ドリフターズの加藤茶と志村けんが組んだ『ごきげんテレビ』でした。
その後も、「作り込み派」と「アドリブ重視派」は覇権争いを続けているのです。
マスメディアが作成した情報を一方的に受信するだけのことがほとんどだったインターネット黎明期には、どんなハプニングが起こるかわからない、スポンサーや放送コードに忖度しない「新たな発信者」たちが新鮮な存在としてもてはやされたのです。
しかしながら、そうした発信者たちも、お金が稼げるようになり、「生業」となっていくと、「案件」のためにスポンサーに気を遣わなければならなくなったり、コンプライアンスに従わざるをえなくなったりしていきました。これまでさんざん反発してきた「マスメディア」と同じふるまいをするようになったのです。
「ウケるコンテンツ」にも「公式」ができて、有名人の「はじめての○○」とか、「水着回」とか、「有名YouTubereどうしのコラボ」とかばかり。中途半端な知識を語って「わかったような気分にさせるだけ」の動画や商売目的のものも多いし。
それでも、探せば有益で面白い動画はたくさんあるんだろうけど……
有名YouTuberの動画再生数も、減ってきている人が多いようにみえます。
可処分時間は限られているし、『スプラトゥーン3』は楽しい。同じ30分を使うなら、動画配信の名作アニメを1話観たほうがいい。
「PVを稼ぐこと」に特化しすぎたあまり、みんながそのノウハウに従って同じような動画ばかりつくるようになり、ユーザーは、もう飽きている。
ただ、『ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪』みたいな気合いが入ったコンテンツがあらためて評価されるようになり、「完成されたコンテンツ」の時代がしばらく続くと、また「アドリブやハプニングが新鮮に感じられる」ようになってくるのだと思います。
いまはちょうどその「アドリブ派から完成度重視派への過渡期」にあるので、ネット発のコンテンツがみんな同じに見えやすい面はあるのでしょう。
インターネットのコンテンツに流行の循環はあっても、配信というインフラは時代に逆行することはありません。
今後、みんながDVDを借りるためにTSUTAYAにあらためて通うようになるとも思えませんし。
もちろん、こういうコンテンツの傾向は、どちらかが100%になって相手を絶滅させる、ということはなく、勢力図を変えながら並存していくものではあります。
しかし、インターネットが、ブログが終わる終わると言い続けていたら、いつのまにかYouTubeもSNSも斜陽になってきているのだから、時間の流れは早いものですね。
コンテンツ云々以前に、僕の身体がオワコンになる日も、そう遠くはない。
いつかまた「テキストサイトブーム」みたいなことが起こるのだろうか。