新型コロナウイルスでの自粛生活が続くなかで、他人の行動にイライラしたり、有名人の訃報が続いたりして、僕もなんだか鬱々としています。
もともと「ネガティブ気質」というか、「落ち込むのには、慣れている」つもりなのですが、それでも、ちょっときついこともある。
考えてみれば、贔屓のチームの絶不調とか株価とかネットでの諍いとか、気にしなければ、もともと関わらなければ済むはずのことも多いんですけどね。というか、本当は、そういうことがほとんどなのです。
ただ、そんな「感情を揺さぶられるもの」をすべて捨てて生きていくには、ちょっと人生は長すぎるのかもしれません。
僕が、こういうときに思い出す文章があります。
『毎月新聞』(佐藤雅彦著/中公文庫)という本のなかで、佐藤雅彦さんが、こんな話を書いておられたのです。
故郷で独り住まいをしている高齢の母親は、テレビの野球中継をとても楽しみにしています。「この松井って子はいいよねえ」と、目を細めながら応援しています。そして、好きな番組が終わると迷いもなくテレビを消すのです。たまたま帰郷していた僕は、そんな母親のあたり前の態度にハッとしてしまいました。『面白い番組を見る』――こんなあたり前のことが僕にはできなかったのです。
テレビを消した後、静けさが戻ったお茶の間で母親は家庭菜園の里芋の出来について楽しそうに僕に話し、それがひと通り終わると今度は愛用のCDラジカセを持ってきて、大好きな美空ひばりを、これまた楽しそうに歌うのでした。
僕はそれを聴きながら、母親はメディアなんて言葉は毛頭知らないだろうけど、僕なんかより、ずっといろんなメディアを正しく楽しんでいるなあと感心しました。そして目の前にある消えているテレビの画面を見つめ、先日のやつあたりを少し恥ずかしく思うのでした。
つまらない番組を見て、時間を無駄使いしたと思っても、それは自分の責任なのです。決してテレビの責任ではありません。リモコンにはチャンネルを選ぶボタンの他に「消す」ボタンもついています。
僕達は、当然テレビを楽しむ自由を持っていますが、それと同時にテレビを消す自由も持っているのです。
先日放送された『半沢直樹』の最終回で、半沢直樹の奥さんが「ボロボロになるまで戦って必死に尽くしてきた銀行に、それでも『お前なんかもういらない』って言われるならこっちから辞表を叩きつけてやんなさいよ」って言うシーンがあったのです。
仕事なんてそう簡単にやめられるわけがない、と僕は思ったのだけれど、その一方で、「辞める」という選択肢も自分には(半沢直樹にも)ある、ということに気づかされたところもあるんですよ。辞めたって、即死するわけじゃない。
実際に「辞める」かどうかはさておき、「絶対に辞められない」という前提で考えるよりは、視野が広くなるし、気持ちもラクにはなるはずです。
芸能人の自殺報道に対して、メディアがセンセーショナルに報じたり、あれこれ理由を詮索することに対して、不快に感じていたり、自分も引き込まれていくような不安にさいなまれている人というのは、けっこういるんじゃないかと思うのです。
僕自身も、なんだか最近とてもイライラしていて、ちょっとしたことで感情が暴発してしまいそうになります。いやまあ、これは新型コロナのせいというより、中年の危機、みたいなものなのかもしれませんが。
僕のような「新型コロナ下のほうが、むしろ、コミュニケーションの負担が軽減されて、生きやすいのではないか」と考えてしまうような人間さえこんな状況なのだから、外に出たい、人と触れ合いたい、という人たちにとっては、もっとつらい日々なのだろうなあ。
佐藤雅彦さんの話は「テレビ」なのですが、今は「インターネット」とくにスマートフォンを通じて、どんどん情報が飛び込んでくるし、空き時間にはスマホをいじっていないと落ち着かない、という人も多いのではないでしょうか。
でも、自分から情報を受け取りに行って、わざわざ不快になるのって、あらためて考えてみると、バカバカしいですよね。
われわれには、テレビを消す自由があるし、スマートフォンの電源を切る自由もある。SNSもニュースサイトも、見ない自由がある。
正直、今の生活で、ずっとスマホへの着信に出ない、というのも難しいとは思うのです。
それでも、情報疲れを感じたときには、「見ない自由」がある、「電源を切る」という選択肢がある、ということを、思い出してほしい。
数時間だけでも、「消してみる」と、案外、何も問題がないことに拍子抜けするはずです。
……というようなことを、ネットに書いている僕もなんだかなあ、という感じではありますが、自戒をこめて。
- 作者:佐藤 雅彦
- 発売日: 2009/09/01
- メディア: 文庫