いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

『銀河英雄伝説』と「ポリティカル・コレクトネス」


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僕は30年来の『銀英伝』ファンなので、正直、「1987年完結の作品を、いまさら、2020年のポリティカルコレクトネスに合わせて変える必要はないのでは……」とは思うんですよ。料理が苦手なフレデリカさん、というのも、記憶力抜群、士官学校次席卒業の才能があり、お父さんは軍の最高幹部のひとり。まあ、お父さんに関しては、後に大きな問題になるのですが。あれに関しては、「物語的には『親がクーデターの首謀者』でも子どもに責任はない。君が必要だ」は正しいのだけれども、現実にああいうことが起こったら、果たして僕は、世論は、彼女が現任に留まることを許容できるか、とは思うのです。「外側」からみていたら、「親の罪に連座」はありえないとしても、軍の中枢にとどまってもらうのはちょっと……と考えるのが一般的ではなかろうか。

 あの「料理が苦手」設定は「女性なのに云々」というより、「きわめて優秀な人にも、弱みがある、という『人間味』的な要素」として、『銀英伝』をはじめて読んだ高校生くらいの頃の僕は消化していたような気がします。当時の僕は、とにかくヤン・ウェンリーという人に憧れていて、「首から下は不要な人間」(これはこれで酷い言い草ではあるけれど)「それではみなさん、楽しくやってください」「全艦隊、逃げろ!」とかにキュンキュンしていたわけです。
 思えば、『銀英伝』というのは、主人公が中国系の名字でもあり、設定的にもけっこうリベラルな作品だったと思うんですよ当時は。
 田中芳樹さんの『創竜伝』とかは、どんどん、資本主義や当時の日本批判みたいになっていって、「ん?」って思いながら読んでいった記憶があります。

 「人気王」なんて呼ばれていた田中さんですが、銀河英雄伝説の完結が1987年で、その後もヒット作は多数あるのですが、現在もいちばん読み継がれているのが『銀英伝』であるというのは、『銀英伝』に「最善の独裁と最悪の民主制では、どちらを選ぶべきなのか?」という問いが根底に流れていて、それは30年やそこらでは、まったく決着がついていないというか、むしろ、この新型コロナ流行期では「即断即決が可能である専制政治」と「決められない民主政治」の姿が鮮明になっていて、ずっと僕が信じていた民主政治の優位、みたいなものが揺らいでいるようにすら感じるのです。


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 冒頭の話については、「時代の変化、読む側の状況の変化を理由に、作品を改変することの妥当性」に僕は疑問を持っているのです。
 というか、僕は、僕が高校生のときに読んでハマった『銀河英雄伝説』には、そのままの姿であってほしい、と思っています。

 しかしながら、フレデリカが、料理が苦手なことを「女性としてコンプレックスに感じている」という描写に、後世に読んだ人、2020年の読者が「引っかかる」という感覚を否定することもできないとは思うんですよ。
 
 フィクションでも、それがつくられた時代背景というのは、作品に影響を与えずにはいられないのです。


『アンクル・トムの小屋』という小説をご存知でしょうか。


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 この本に、『アンクル・トムの小屋』の「その後」の話が紹介されています。

 黒人奴隷トムを描いて、奴隷制反対運動に火をつけたとされる『アンクル・トムの小屋』。
 著者のストウ夫人は、リンカーン大統領に「南北戦争を引き起こした女性」と言われたそうです。
(ストウ夫人が好戦的だったというわけではなく、著者が奴隷制反対運動の大きなきっかけになった、という意味ですので念のため)
 ところが、この本への評価は、奴隷制廃止後、大きく変化していったのです。

 アメリカでは南北戦争後に奴隷制が廃止された。その時点で『アンクル・トムの小屋』の目的はほぼ達成されたと言っていい。
 こうして黒人たちを救う一助となった本。しかしそれが、人種差別の解消が焦点となった戦後のアメリカにおいて、思ってもみない問題を引き起こすことになった。小説には、黒人の手はパイ皮を焼くように神様が与えたもの、というセリフが有ったり、黒人は奴隷として満足し自由を与えてもそれを拒否するもの、と読み取れる箇所がある。その内容が差別的だと批判されたのだ。
 また1950年代には、主人に絶対服従で、自分や家族の生命や自由のために闘おうとしないトムは、「服従」を示す蔑視的な言葉にもなっている。真の自由を勝ち取るために闘う公民権運動の最中においては、トムの生き様はなじまなかったのだろう。
 19世紀の隆盛と20世紀の失墜。これがアンクル・トムが辿った道だった。


 また、ジョージ・オーウェルの『1984』について、世界はこんな評価をしていたそうです。

 同書(『1984』は1949年6月にロンドンとニューヨークの書店にならぶと、驚異的な売れ行きをみせた。
 批評はおおむね好意的だったが、予想通り、共産党陣営からは、この本の意図は「ソ連を罵倒するもの」だと非難された。また、同書にある悪夢のような事態が西欧社会に40年以内に生じることを告げた「予言の書」とする解釈もあった。
 一方アメリカでは、共産主義国を肯定していると解釈され、共産主義プロパガンダの書と恐れられることがあった。とくに、核をちらつかせるソ連の驚異が叫ばれた1960年代〜70年代には同書が敬遠されている。
 世界的には名著の仲間入りを果たしているが、アメリカの各地の学校図書館では強く拒まれている。学校図書リストからはずされた理由は、政治的な見解のほか、猥褻性、あるいは著者オーウェルが下院非米活動委員会があげる組織にかつて属していたことが理由となったものもあった。


 南北戦争1861年開始)の前には、人々の差別意識を浮き彫りにし、価値観に大きな影響を与えた『アンクル・トムの小屋』は、時代の変化とともに、「ただ、『服従』するだけの『奴隷根性』を描いた差別的な作品」だと批判されるようになっていったのです。

 資本主義陣営も共産主義人生も「自分たちを批判しているのではないか?」と疑っていた『1984』。
 まあ、たしかにどちらともとれるし、もっと普遍的なものを描いているようにも思われますし……
 村上春樹さんの『1Q84』が大ベストセラーとなったときに、日本でも『1984』が話題になったのですが、そのときにあるラジオ番組で聞いた話によると、イギリスの高校生に最も読まれている本は、この『1984』なのだそうです。

 時代による価値観の変化で、同じ内容なのに、称賛されたり批判されたりするのは、創作物の宿命なのかもしれません。

 極端な例では、日本の太平洋戦争中の「戦意高揚小説」とか「戦争画」は、あの時代の「ポリコレ」に準じていたわけです。
 ところが、戦後の価値観の劇的な変化によって、「語られる意味すらない、間違った作品」と見なされるようになってしまった(最近になって、「だからこそ」読み直してみる、見直してみるべきではないか、という動きもあるようですが)。

 『銀河英雄伝説』はエンターテインメントなんだし、30年以上も前の作品なんだから、今さら「現代にあわせて設定を変える」なんてことをしなくても……とは思うのです。

 ただ、それは僕が「自分が生まれ育った記憶の中の『故郷』は、ずっと自分の記憶のままの姿でいてほしい」と願うのと同じ、身勝手な願いなのかもしれません。

 そもそも、30年以上も読み継がれているエンターテインメント作品というのが少ないわけだし、田中芳樹先生も「いま書くのであれば、(自由惑星同盟での女性の役割などは)違った書き方になると思う」と仰っていたそうです。
 ただ、それは別に当時の自分を批判しているわけではなくて、「時代の変化という大きな枠組には予測不能なところがあるし、それを踏まえて表現していくしかないのだ」ということなんだと思うんですよ。
 中には、その「時代の意識」そのものを書き換えようという野心を持った創作もあるわけですが、いち読者としては、「ワクワクするスペースオペラ」のほうに人生を救われることが多いような気もします。

 僕などは、年齢を重ねるたびに、「ああ、ヤン提督よりも年をとってしまった……今度はオーベルシュタインより……」と思い続けてきました。もう、今の僕の年齢まで生きていた主要キャラは、メルカッツ提督とビュコック提督くらいしか残っていないのですが……

 おそらく、『銀河英雄伝説』のジェンダー描写が、作品全体の価値を棄損するほどひどい、と多くの人が評価するのであれば、『銀英伝』という作品自体が「読まれなくなる」というのが自然な流れだと思います。
 田中芳樹先生自身が改稿する、というのも、僕のように昔からの思い入れがある読者は抵抗がありますが、映像化される際に、これから触れる人への「マイナスの引っかかり」みたいなものを減らすために、フレデリカの料理の話などはあえて描かない、くらいの配慮はあっても良いと思います。

 ただ、もっと女性兵士が多いほうが、とか、女性提督がたくさん出てきたほうが、というようなレベルになると、全面改稿に近くなるでしょうし、それは、『銀英伝』自身を変えるよりも、『銀英伝』の影響を受けたフォロワーたちが、自分の作品で、時代の変化を踏まえて新しい世界でやるべきことでしょう。

 『銀英伝』だって、突然生まれてきたわけじゃなくて、さまざまなSFや歴史小説の肩の上に乗っている作品なのだから。

 そうこうしているうちに『銀英伝』も忘れられたり、「過去の誤った歴史観、男女観で書かれた作品」だと断罪されるかもしれないけれど、たぶん、小説とか創作って、そういうものなんですよ。むしろ、今の価値観の変化がどんどんスピードアップしている世の中で、1987年から2020年まで受け入れられていることが奇跡なわけで。


『銀英伝』より僕のほうがたぶん先に死んでいるので、その先に、どうなってもわからないしさ。


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