いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

KaoRiさんとアラーキーと「聖人ではない巨匠たち」の話


町山智浩さんの『激震! セクハラ帝国アメリカ 言霊USA2018 USA語録』という本のまえがきで、セクハラを告発する#MeToo運動についての話が書かれていました。


 ハリウッドから始まり、全米を揺るがせているセクハラ告発の#MeToo旋風。男女平等の先進国というイメージは崩壊し、僕らの大好きな人たちまで糾弾が及んでいる。
 ピクサーのCCOとして、『トイ・ストーリー』や『モンスターズ・インク』などのアニメーションで世界中を感動させたジョン・ラセター(61歳)が長期休暇を取った。「私に無理矢理ハグされたり、一線を越えられたと感じた人々にお詫びします」との謝罪文を残して。
 ラセターは「ハグ魔」として有名だった。男でも女でも片っ端から抱きしめる。相手が女性の場合、頬にキスしたり、脚に触ったりすることも多かったという。
 ラセターは2006年以降、スランプに陥ったディズニー・アニメのトップも兼任し、見事に同社を立ち直らせた。ラセターのヒット作には『アナと雪の女王』や『ズートピア』、『モアナと伝説の海』など女性の主人公が多いが、監督などの主要スタッフに女性が極端に少ない点も批判されている。日本のアニメもそうだけど。

 タランティーノは『プラネット・テラー』という映画で、ワインスタインにレイプされた事実を告白した女優ローズ・マッゴーワンをレイプしようとして惨殺される男を嬉々として演じている(役名はレイピスト!)。サディズムマゾヒズムは彼の映画では表裏一体だ。
 エッセイストのクレア・ファロンは「今こそ、変態野郎たちの作品を大っぴらに叩くチャンスよ!」と呼びかけている。ファロンは、少女への暴行疑惑が続いているロマン・ポランスキーウディ・アレンも標的にしている。彼らの作品にも彼らの性的欲望が滲み出ている。
 巨匠たちも聖人ではない。チャップリンロリコンで、自分の娘のような年齢の女性と結婚を繰り返し、ヒッチコックは女優ティッピ・ヘドレンに性的関係を求めて断られると、『鳥』の撮影で本物の鳥の群れに彼女を襲わせ、その後もヘドレンがハリウッドで仕事ができない様にした.日本の溝口健二監督は、私生活では踏みにじった女性に切りつけられたり、妻を精神病に追い込んだりしながら、映画では、日本の歴史の中で虐待された女性たちを描き続け、赤線で娼婦たちに「日本の男たちを代表して」泣きながら謝罪したという。
 芸術は偽善ではない。人間のダメな部分がさらけ出されるから心を揺さぶる。作者と作品は分けられない。でも、作者がヘンタイでも作品の価値は下がらない。実際に被害者がいる場合は、救済と再発防止と加害者の責任追及が必要だが。
 #MeTooは延焼し続け、バルテュスやラファエル前派の絵画まで性的だからと美術館から撤去されそうな勢いだ。性的な芸術を「退廃芸術」と呼んで迫害したナチのようになる前に、本当の敵を思い出してほしい。


 この後、「本当の敵」として、数々のセクハラ疑惑(もう、疑惑レベルじゃない気もしますが)にまみれた、ドナルド・トランプ大統領の話につながってくるのですが、これを読みながら、僕は最近大きな話題になった、「アラーキー」こと、荒木経惟さんを告発した、KaoRiさんのことを思い出しました。


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これは、本当に酷い話です。
僕は世界的な写真家のアラーキーとKaoRiさんは、少なくともふたりの作品が盛んに公開されていた時期は、良いパートナーだったのだろうな、と思っていました。
でも、そうじゃなかった。
ただ、このKaoRiさんの告発に対する、ネットでの「やっぱりなあ、なんかアラーキーの写真はずっと好きになれなかった」という匿名やハンドルネームでの発言をみると、なんというか、「作品と作家の関係」について、あらためて考えこんでしまったのです。
この人たちは、この話を聞くまで、本当にそう思っていたのだろうか?
彼らが「好きになれなかった」のは、作家とモデルの関係性を見抜いていたからなのだろうか?


モデルに十分な報酬も「学び」もなく、ただ搾取するだけ、というような状況で撮られることは、もちろん、あってはならないことです。
しかしながら、そんな裏の事情を知ったとたんに、アラーキーの写真の価値や評価は、暴落するのが当然なのだろうか?


こういうのにも、やっぱり程度というか、罪の軽重みたいなものはありますよね。
町山さんが書いておられる、ジョン・ラセターの場合は、「嫌がる人は当然いるだろうし、自重してほしいけれど、親愛の情の表現が、このくらい暴走する人はいるだろうなあ」とも思ったんですよ。権力を利用して、大勢の女優たちを手篭めにしようとしたハリウッドのプロデューサー、ハーベイ・ワインスタイン氏の場合とは違う。
とはいえ、「無罪」とも言えないので、「長期休職」ということで、ひと区切りにしたのでしょう。ラセターさんがつくっていた作品は、子供たちに愛される名作が多いのも、裁く側としては考えたのだと思います。

アニメーションの作品、ということで、ピクサーのアニメの登場人物と被害者とは、直接には結びつけにくいけれど、「そういう人がつくったのだ」という予備知識があるだけで、ちょっとした「くもり」みたいなものが作品にかかってしまうのを僕は否定できません。
それこそ、「ジョン・ラセターひとりでつくっているのではない」のだけれども。


チャップリンヒッチコック溝口健二さんは、ジョン・ラセターよりもさらに「私生活では悪質」です。
溝口健二監督など、「何様だよ!そんな人に代表されたくないよ!」とか、ひとりの男として言いたくなるのと同時に、「人間の表の顔とプライベートって、そういうものでもあるよなあ」なんて、思うんですよね。


立派なことを言ったり、素晴らしい作品をつくっている人が、私生活でも聖人かというと、そういうわけではないのです。
受け手としては、作家と作品をリンクさせて考えてしまうけれど、実際は、「ものすごく酷いヤツが、とてつもなく純粋で美しい作品をつくる」ことも少なくありません。
昔のアニメの制作現場なんて、ブラック労働の極み、みたいな状況だったと言われていますが、「そんな背景でつくられた作品は観る価値がない」というわけでもない。
もっと大きな話にしてしまうと、古代の王が自分の権力を誇示したり、後世での幸せを願って奴隷を酷使してつくった歴史的建造物は「悪」なのか。
まあ、難しいところではありますよね。
ピラミッドの建設だって、農閑期の公共事業だった、という説もありますし。

そういう「裏側」を知ってしまったとき、「作品は作品、作者は作者」と思えるのかどうか。
どこまでが「許容範囲」というのは、たぶん、人それぞれ、なんですよね。
ピラミッドもタージ・マハルも許せない!という人はそんなに多くはないだろうし、労働現場の過酷さに思いを馳せることはあっても、だから昔のアニメは観るべきじゃない、という考えには結びつきにくい。



fujipon.hatenablog.com


『社会契約論』で有名なルソーは、『エミール』という教育論でも知られているのですが、ルソーは自分の5人の子どもを孤児院に入れています。
「父親としてやっていく自信がない」という理由で。
こういう人が唱える「教育論」が信じられますか?
でも、世の中には「接近戦は苦手だけど、俯瞰するのは得意」って人もいるんですよね。


KaoRiさんとアラーキーの件に関しては、僕のなかに、ざらさらとした感情みたいなものがずっとあるのです。
アラーキーはひどいことをした。
でも、僕はアラーキーが品行方正で、モデルとちゃんと契約書を交わし、丁寧に出演意図を説明し、つねに紳士としてふるまうような人物であると思っていたのだろうか?


そんなことはないんですよね。
僕はそれほど写真に詳しいわけじゃないんだけれど、アラーキーが妻の陽子さんを撮った写真を見ていて、「よくこんなところまで撮って、作品として公開したなあ」と怖くなりました。
陽子さんの場合は、モデルも了解していた、と考えて良いのだろうと思いますが、だとしても、これは純粋な愛情なのか、露出趣味みたいなものか、あるいは、それは両立するものなのか。


アラーキーは「狂気の人」だと僕は思っています。
この「狂気」は、違和感と畏敬を込めた言葉です。
まともな人じゃないからこそ、こういう、世の中の常識とか枠組みみたいなものを打ち破るような作品を撮ることができる。
そういう人間に社会常識をあてはめて、プライベートや作品の裏側に問題があるから、作品を観る価値はない、と言い切ることができるのか?


アートとか芸能の世界って、そういう「狂気」が作品の価値を高める面もあると思うのです。
ゴッホの絵はすばらしいけれど、その価値は、生前認められず、狂気に陥っていった彼の人生(と、それを書き残した数々の手紙)によって、割増しされているように感じます。
芥川龍之介の『地獄変』という小説があるのですが、あの絵が現実の凄惨な事件と狂気の画家によって描かれたという背景を知っているからこそ、多くの人が魅了されるのではないだろうか。
まあでも、こういうのって、鑑賞する側の思い込みでしかなくて、フェルメールのようにほとんど本人に関する情報がなくても「謎の作家」としてもてはやされるし、マラソンを続け、健康的な生活をしている村上春樹さんにも、それはそれで「いままでの作家像に対する挑戦」というような物語がつくられる。
そう考えると、クリエイターだから、ひどいこと、異常なことをしなきゃいけない、というわけじゃないんだろうけどさ。
ただ、アラーキーは、そういうふうにしか生きられない人で、そういう人の自我の暴走みたいなものに、僕のような自分のリミッターの外し方がわからないし、それをあえてやろうとは思わない人間は、惹きつけられずにはいられない。
 そういうものがあるおかげで、僕は息苦しさから解放されているのか、それとも、「悪しきアートの力」に引きずられて自分を見失っているのか。
 「残虐なゲームが、残虐な事件を引き起こすのか、抑制するのか?」という議論と同じで、結論を出すのは難しい。「もしもボックス」でもないと、比較対照実験はできないから。


「モデルを物のように扱う」のは、あってはならないことなのだけれど、その「人を物のように扱っているようにみせる」ことが、ひとつの「表現」なのだ、と言えなくもない。


 僕にとって、アラーキーの仕事のなかで、いちばんインパクトがあったのは、総合週刊誌で、人妻を撮影していたものだったんですよ。
 ああいう写真って、モデルには、それなりに見目麗しい人を選ぶと思うじゃないですか。
 ところが、アラーキーが撮っていたのは、どこにでもいる、というよりは、「えっ、この人が脱ぐの?」というようなルックスの人で、内心「誰得?」って。
 世の中には、いろんな表現をしたい人がいて、さまざまな需要もある。


 書いていて、支離滅裂な内容になってしまっているのは百も承知なのですが、そもそも、僕の感情がまとまっていないんですよね。
 

KaoRiさんは、アラーキーの自分に対する扱いは不誠実だけれど、二人でつくった作品は傷つけたくない、と考えておられるようです。でも、こういう「裏側」を知ってしまうと、観る側としては、それまでと同じ気持ちではいられない。
そして、今の世の中で、「周辺情報が存在しない作品」はありえない。それがポジティブなものか、ネガティブなものかは別として。
本当に、難しいですよね、こういうのって。
僕は自分が作品を読んでいるつもりで、実は作家の好き嫌いだけで評価しているのではないか、と自戒することがあるのです。


酷いものを描いていたり、酷い人が書いたものだけれど、作品は作品として評価しようよ、と、きれいな僕が言う。
でも、「酷いものや、酷い人に安全地帯から触れるのが好きだから、こういうのは『アート』ってことにしてしまおう。それならセーフなんだろ」というのが、僕の本心なのかもしれません。


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