いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

書くのが「怖い」とか「めんどくさい」という気分になることが多くなってきた


pha.hateblo.jp


 僕も最近文章が書けなくなっていて、phaさんのこのエントリを「そうだよなあ」と思いながら読みました。

 思い返してみると、10年前くらいって、読書感想ブログのほうは毎日更新していて、この『いつか電池がきれるまで』も、週平均3回くらいは書いていた記憶があるのです。

 当時はヒマだった、ということは全然なくて、仕事はずっと忙しくて、半ば義務的な飲み会が仕事終わりに週2~3日はあり、睡眠時間を削ってブログを書いていました。

 よくそんなに書くことがあったな、そして、書くモチベーションがあったな、と思うのですが、コラムニストの小田嶋隆さんがこんなことを仰っています。

 アイディアの場合は、もっと極端だ。
 ネタは、出し続けることで生まれる。
 ウソだと思うかもしれないが、これは本当だ。
 三ヵ月何も書かずにいると、さぞや書くことがたまっているはずだ、と、そう思う人もあるだろうが、そんなことはない。
 三ヵ月間、何も書かずにいたら、おそらくアタマが空っぽになって、再起動が困難になる。


 つまり、たくさんアイディアを出すと、アイディアの在庫が減ると思うのは素人で、実のところ、ひとつのアイディアを思いついてそれを原稿の形にする過程の中で、むしろ新しいアイディアの三つや四つは出てくるものなのだ。
 ネタは、何もせずに寝転がっているときに、天啓のようにひらめくものではない。歩いているときに唐突に訪れるものでもない。多くの場合、書くためのアイディアは、書いている最中に生まれてくる。というよりも、実態としては、アイディアAを書き起こしているときに、派生的にアイディアA’が枝分かれしてくる。だから、原稿を書けば書くほど、持ちネタは増えるものなのである。


fujipon.hatenadiary.com


 ダイエットや『Fit Boxing2』は、無理矢理にでも続けていくうちに習慣になって、比較的ラクに継続できるようになっていきます。
 しかしながら、一度やめたり休んだりしてしまうと、とたんに再起動するのが難しくなる。

 書き方を忘れてしまうし、何か書こうとすると「同じようなことを以前書いたよなあ」とキーボードを打つ手が止まってしまう。

 ひとりの人間が抱えている「書きたい+客観的にみて、書く価値がありそうなこと」なんて、そんなに多くはない。

 仕事が忙しいと、かえって、ネタもできるし(僕の場合は、嘆きや怒りが文章を書くトリガーになりやすい)、仕事が終わったときに反応やアクセスカウンターをみる楽しみがほしい、というモチベーションがわいてくるのも事実です。

 「同じようなことをずっと書いている」のは百も承知なのだけれど、20年くらいやっていると「全く同じ内容をアップロードしたとしても、読む人は入れ替わるし、それが公開されたときのタイミング、極端にいえば公開する時間帯や偶然目に留めた誰かがリツイートやブックマークしてくれることによって、見てもらえる数は大きく違う、ということを実感しています。

 これだけ長くやっていても、何がウケるのか、わからないところはあるのです。

 もちろん、僕なりに、こういうのがウケそう、という感覚はあるのですが、わざわざ「逆張り」をしたり、誰かを叩いたりして注目されたい、とも、思わないんですよね。

 以前は「自分が書きたいこと」を書いていたら、結果的に「逆張り」になることがあったのだけれど、今はもう、「わざわざ面倒なことに足を突っ込む必要はないな」と危険察知アラームが鳴るようになってしまったし、Twitterで、みんなが自分の「正義」をぶつけあっているのを見続けるのにも疲れてしまっているのです。

2000年代のはじめ、テキストサイトとか『READ ME!』全盛期は、個人サイト(ブログ)にとっても、インターネットにとっても「右肩上がり」の時代で、どんどんユーザー数も増えていったし、いろんな争いも含めて、みんなの熱量も高かった。

Twitterとかもそうですよね。
サービスがはじまった頃は、みんなとにかく「誰かをフォローしてみたい」「誰かにフォローされたい」から、あまり深く考えずにフォロワーを増やしていたり、多くの人の目に触れるために過激な投稿をする人も多かった。お金にはならなくても、自分の存在をアピールしたかった。

少なくとも最近5年くらいは、僕は「ヘイトをまき散らしている人」「『ビジネス』に勧誘しようとしている人」「お金配りや懸賞のリツイートばかりしている人」はフォローしないように気をつけています。

この5年くらい、フォロワー数もほとんど増えていません。
全員がそうというわけではなくて、増えている人はちゃんと増えているし、僕自身、Twitterで面白いことを言うのには向いておらず、自分のブログの更新報告メインで使っているので、致し方ないんですけどね。

ただ、僕に限らず、「どんどんいろんな人とつながりたい」よりも、「めんどうな人とつながるのは避けよう」という考えにシフトしている人は増えているように感じます。

実際、圧倒的な物量の他者の感情に触れると、疲れるし気が滅入ることもある。
他者の感情を煽って、自分の利益に繋げようとする人も大勢います。

悪意なんか毛頭なくても、いや、それだからこそ、気持ちのやり場に困ることもある。
自分の贔屓の野球チームが負けたとき、相手チームのファンが喜んでいる、あるいは、馬券が外れたときに当たった人が大喜びしている。
それぞれの人が「喜ぶ」のは当然のことなのですが、心が狭い僕は、それを目の当たりにすると、無性に苛立ってしまう。
自分がそういう人間なものだから、Twitterに「自分感情」を表明していくことに、迷いを感じる。

それはもう、文章を書くのも同じことで、なんだか自分の感情を書くのが「怖い」とか「めんどくさい」という気分になることが多くなってきたのです。

昔は、そういう怖さよりも、右肩上がりの世界で、「どこまでたくさんの人に読んでもらえるのだろう」「Amazonアソシエイトでもっと稼げるのではないか」というワクワク感、そして、「ここが自分の居場所だ」という気持ちが強かった。

僕も若かった。そして、あの時代のインターネットは、ほとんどお金にもならなかったし、叩かれることばかりだったけれど、熱かった。


いまも、「大事な居場所」であることには変わりないし、「いやーすっかり更新しなくなってしまって」と言いつつ、自分が読者登録しているブログを眺めていると、そんな「自称過疎化ブログ」よりも頻繁に更新されているブログは、あまりないんですよ。
みんなはずっと前に「見切り」をつけてしまっていた。

書けなくなった、書かなくなったのは、僕だけじゃなかった。


もう書くのはやめて、積みっぱなしのテレビゲームとか、古典文学・哲学の本とか、Netflixの「お気に入り」を消費して、のんびり暮らそう、と思った時期もあったのです(たぶん、これからもそう思うことは何度もありそう)。

でも、僕の「アウトプット癖」みたいなものは、結局まだおさまりきれなくて、こうしてまだ頻度を減らしながらも書いています。

書くことはなくなった気はするし、同じことを繰り返しているのも間違いないけれど、読む人は入れ替わっていくし、こうして書き続けることは「人が老い、書けなくなったり、書くことが変わっていったりする症例報告」になるとも思います。

あいつも老いたな、と思うとき、その人もまた、「老い」と向き合っている。

ずっと繰り返していることだけれど、インターネットのすごいところって、「お金にも商売にもならない一般人の文章や思考が、簡単に世界に公開できるようになったこと」なんですよ。言葉の壁はあるし、「多くの人に読まれる」というのは、本当に難しいことなのだけれども。

かつては、人気作家であっても、老い、人気が落ちれば、一部の大御所以外は、作品や言葉は公のものではなくなっていました。
しかしながら、今は、誰も見向きもしないであろう僕の「老いていく文章」でも、少なくともこうして書き、ネットに公開することはできるのです。

あの頃のような熱量は取り戻せないかもしれないけれど、逆に「熱は下がっても、とりあえず生きている自分」を、できる範囲のペースで綴っていくのも面白いかな、と、今は思っています。

でも、嫌なら読まないでいいですからね。わざわざお互いに不快な気分になることはないのだから。


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