インターネットの文章は、この世にインターネットが存在するかぎり、消滅することなく、クラウドの海を漂い続ける……みたいなことを、僕も20年前には考えていたのです。
ブログは僕にとって「長すぎる遺書」みたいなものだと、ずっと思ってきたつもりだったのだけれど、そういうのも、20代独身男性が、居場所がなくて、世の中に対する僻み妬み嫉みみたいなものを書き連ねていた時代と、40代後半になり、諦めと受容のあいだ、みたいなところで日常に向き合っている今とでは違う、というか、「遺書」という言葉もかなり現実的なものになってきているのです。
そもそも、これが「遺書」だったとして、自分の身内に読まれても大丈夫なものなのか?
内容に問題が云々、以前に、「自分が知らないところで、家族や知人が自分のことに言及している」ということだけでも不快に感じられる可能性はありますしね。
若い頃の夢や希望、恋愛などを悪意なく素直に記したものであっても、その後の経時的な変化によって「黒歴史」になってしまうこともある。
材料が多ければ多いほど、切り取られ方で、いろんな「解釈」をされてしまうリスクもあります。
亡くなってしまった人には、言い返せない、ということもあるでしょう。
冒頭の記事を書いておられる古田雄介さんには『故人サイト』という著書があるのです。
この本、読んだときにすごく感慨深いものがあったのです。
僕は20年くらい書いてきたわけですが、そのなかで、書いている人自身が、ちゃんと「区切り」をつけて更新を終えたサイトもあれば、突然更新が止まったり、ネット上のトラブルに巻き込まれてやめてしまったサイトもありました。
突然更新されなくなったり、消えたりしたサイトの場合、飽きた、あるいは嫌になってやめたのか、本人の健康状態に問題があって更新できなくなってしまったのか、こちら側からはわからないことも多いのです。
この『故人サイト』という本には、人間なんて、儚いものだな、という、澄んだ「無常観」だけではなく、ものすごくドロドロしたものを目の当たりにしてしまう記述も少なからずあるのです。
『日本一長い遺書』というブログの項より。
「自分がガンになったことを告げても、保険金のことしか話さない母のいる気持ちを、知っていますか。
自分がガンになったことを知って、私名義のマンションから立ち退き要求の調停を起こす元夫がいる気持ちを、知っていますか。
術後2週間で退院し、食事づくりから掃除洗濯まで、身の回りのことをすべて自分でしなければならない気持ちを、知っていますか。
術後1ヶ月で、仕事に復帰して自分の生計をたてなければならない気持ちを、知っていますか。入院、検査、投薬で、毎月かかる医療費がいったいいくらなのか、知っていますか。」
ドラマだったら、こんな母親や元夫には天罰がくだったり、主人公に奇跡が起こったりすることもあるでしょう。
でも、現実は、そうではなかった。
「読まなきゃよかった」「知らなきゃよかった」と思うブログも、ひとつやふたつではありません。
では、こういう「ひどい連中」が炎上し、社会的制裁を加えられたら、書いている人は満足するのか、というと、それは正直、よくわからない。
最近のTwitterをみていると、「自分の周囲の人たちに直接ぶつけられない感情のもつれを、SNSで『自分の味方』を集めることで解決しようとしている」人が大勢いることが悲しくなってしまうのです。
ネットでみている人たちは、係争の一方の当事者からの話を聞いて、肩入れしたり、「いやそれは訴えているお前のほうが悪い」とか言っているわけですが、基本的に何の責任も権限もないんですよ。だから公正だ、と思う人もいるのかもしれないけれど、基本的には「パンとサーカス」を求める傾向が強いと僕は感じています。
1対1であれば、「妥協や調停」が可能な場合でも、そうやって、「外部の味方」を集めるようになったら、相手も引くに引けなくなりますし。
『故人サイト』では、管理人が亡くなったあとのサイトを、著者は「お墓」にたとえています。
著者の目に留まるくらいの人気・有名サイトでさえ、管理人がいなくなってしばらくすると、書かれていたブログのサービスが終了したり、使用料が払われなくなったりして、消えていくことが多いのです。
その知名度を利用しようとする「出会い系業者」などの宣伝書き込みが掲示板にあふれてしまうことも多々あります。
お墓がお参りをする人によって維持・管理されないとどんどん荒れていくように、デジタルの世界でも、誰かがメンテナンスしていないと、故人のサイトはどんどん荒廃していくのです。
「お墓」なんて、「物質へのこだわり」の最たるもののはずなのに。
人類が生み出した「バーチャルの世界」の故人サイトやホームページでも、同じように「遺された人のたゆまぬ努力」がないと、「墓地」はすぐに荒れ果ててしまう。
「故人サイト」が見られる状態で公開され続けるためには、遺族やファン、友人など「目に見えない、生きている人の力」が必要なのです。
そもそも、これまで運営会社の方針で消えていった多数のサイトやブログ、パソコンやデジカメ、メモリーカードの故障や紛失、記憶媒体の変化によって消えていった(あるいは、どこに行ったかわからなくなってしまった)もののことを思うと、デジタルデータは紙の本のような「物質」よりも永続性があるとは言えないような気もします。
本人にとっては消したい「黒歴史」的なものほど、アーカイブされがちでもある。
僕がネットに書き始めたときには「ネットにアップロードしたものは、ずっと残るはずだし、それはどこかで誰かの役に立つかもしれない」という希望を持っていたのです。
でも、最近は「プロバイダーやブログサービスの都合で、簡単に失われてしまうもの」だと思いますし、見る側の感情をコントロールすることなんてできないのだから、未練がましく、書いたものをこの世界に残していくのは、良くないことなのかもしれないな、とも思うのです
それでも書かずにはいられない、のが僕にとっての現状なわけで。
人には「忘れられたくない気持ち」があるのと同時に「忘れられる権利」もある。
「忘れたくない」という気持ちが、長い時間が経てば、「もう、記憶が消えていくのに任せたほうがいいのではないか」と移ろっていくのは、むしろ自然なのかもしれません。
もちろん、大概の人が書いた文章は、書いた本人にも顧みられることなく、電子の海を漂い、いつのまにか消えていくだけなのですが。
『はてなダイアリー』がなくなったとき、それまでのブログサービスのほとんどが、「移行手続きをした人だけ、これまでのアーカイブが残される」ことになっていたのに対して、『はてな』は、「基本的に、データを消さずに『はてなブログ』にそのまま移す」という選択をしました。
そのときは、『はてな』の配慮に感謝したのですが、あらためて考えてみると、「申請がないものは消す」のと「原則的に残す」のと、どちらが正しいのか、というのはとても難しい問題です。
突然命を終えてしまって、周りもブログの存在を知らない人の場合には、「いずれ消すつもりだったものが、結果的にずっと残ってしまう」こともあるでしょう。
ブログの内容って、ポジティブなものばかりではありませんし。
僕はインターネットとともに、だいぶ年を重ねてきたし、今の若者たちは、ネットを「即時的なツール」だとみなしているようです。ブログなどは「むしろ、積み重ねられていくのが負担だ」と考えているようにもみえます。
新型コロナ禍のなかで、人というのは、感染予防、みんなの命のため、であれば、お盆に帰省しなくても、入院している人に直接面会できなくても、お葬式に参列しなくても、「しかたがない」と受け入れられるものなのだな、と感じています。
長年「そういうことをちゃんとするのが『人間的』なのだ」と思われていたことも、現実的な危険の前では、強制力が失われているのです。
蛇足ではありますが、そういう「ものわかりのよさ」みたいなものは「戦争なんだから、言いたいことが言えなくなっても、徴兵されてもしょうがないよね」というふうに、過去には作用してきたのかもしれません。
人は、けっこう「適応」してしまう。
いつかは僕のブログも「故人ブログ」の仲間入りすることになるのでしょう。
こういう、わかったようなことを書いていても、いざその時になったら、「ちょっと待て、まだ準備ができてない」と、あたふたするのだろうな。
ブログには、物語にはない、人生の中途半端さが溢れているのが、僕は好きです。
自分自身がそれを受け入れられるかには、あまり自信が持てないのですが。
- 作者:奥歯, 二階堂
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- メディア: 文庫
- 作者:マグレガー,ジョン・M.
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