いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

東須磨小学校で起こったことと、「大人のイジメ」について

hochi.news
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 なんでこんなことをする人がいるのだろう、と思うのです。
 子供たちに「イジメはいけない」と言っているはずの大人、それも学校の先生が。
 まあでも、率直なところ、学校でも医療の現場でも企業のなかでも奥様サークルでも、いじめがなくなることはない。
 この東須磨小学校の事件に関しては、本当にひどいというか、こんなことまでやるのは、よほどのバカじゃないか、という気がします。
 大人の社会のイジメというのは、もっと表面を取り繕ったものが多いから。


fujipon.hatenadiary.com
anond.hatelabo.jp


 これらの「事例」から考えると、「大人のイジメ」というのは、イジメている側からすれば、「厳しく鍛えてやっている」とか、「あいつが仕事をまともにできないのが悪い。そんな甘い職場じゃないんだ」みたいな意識で行われているように感じます。
 真面目な人や、それまで「プチエリート」として生きてきた人は、「自分がちゃんとできないのが悪いんだ」「今のこの理不尽な扱いは、一人前になるための『通過儀礼』なんだ」と自分に言い聞かせて、耐えよう、やりすごそうとしてしまう。
 イジメ愛好家って、そういうターゲットを見つけ出すのが上手いんですよ。
 
 その一方で、先日、こんなエントリを読んで、考え込んでしまったのです。
note.mu


 自分の好き嫌いや仕事のできるできないで、他人に邪険にするのは許されない。
 それは、「正しい」はずです。
 でも、こういう「明らかに自分に負担をかけるような人」に、僕は優しく接し続けることができるのか?
 
 正直、僕自身は、自分の手に余ったり、あまりにもミスが多かったりする若手に対して、十全のサポートや忍耐強い指導をしてきた、という自信はありません。
 僕自身も能力不足で切り捨てられたこともあれば、他者を切り捨てたり、きつく当たったこともありました。
 人は、自分が強い立場になると、今までされてつらかったことを、案外簡単に他人にやってしまう。
 虐待の連鎖のように、そうやって「指導」されると、それしか体験していない、というのもあるのかもしれません。
 もちろん、自分の苦い経験から、負の連鎖を断ち切った人もいるのだけれども。

 
 この「職場のアスペルガー」の人は、極端な例だ、という人もいるでしょう。
 では、「疎外しても仕方がない」と「そのくらいは寛容になるべき」の境界は、どこにあるのか?
 結局のところ、「仕事ができないで周りに迷惑をかけるヤツは、排除されるべき」という考え方を許容すれば、現場で力を持っている人間によって、「イジメ」は正当化されてしまうのです。
 それでも、もしその場にいるのが自分だったら……と想像すると、やっぱり、イライラするし、消耗もしたはず。その職場から去る決断をしたかもしれません。
 社会全体として、あるいは、ネットで語られるエピソードとしては、「もっと寛容な社会を!」「多様性を尊重しよう!」と言えても、その状況に自分が居たら、きついものはきついし、なぜ自分がそんな目に……って思うよね。そのギャップが、ネット社会を生きづらくしている。
 

【読書感想】学校ハラスメント 暴力・セクハラ・部活動ーなぜ教育は「行き過ぎる」か ☆☆☆☆ - 琥珀色の戯言

 この本のなかで、著者は、生徒から教師への暴力だけではなく、教師間でのいじめも採りあげています。

 学校の先生方との意見交換の場に参加するなかで、私が出会った、もっとも忌まわしい記憶の一つを紹介しよう。
 とある教員研修の場において、10名程度からなるグループで、「部活動のあり方」について議論が交わされた。一人の若手教員が、か細い声でこう嘆いた――「私は、〇〇科の教員です。教員採用試験を勉強して、〇〇を教えるために教員になりました。でも毎日、そして土日も部活で時間がつぶれます。自分はやったこともない競技を指導しなきゃいけないし、本当にしんどいです」。
 それを受けて、別の教員が手をあげてこう言い返した――「それは一部ですよ! 全部の部活がそんなふうに思われては困ります。僕自身は、たしかに部活がしんどいときもありますが、楽しんでやっています」。さらには、それにつづいて何人かの教員が部活動のすばらしさを語り、援護射撃をつづけた。
 私にとっては、本当に衝撃的な場面であった。


 学校の先生というのは、外部に対してはきれいごとを発信しているけれど、内部ではお互いに「これきついよね」「やってられないよね」と愚痴をこぼし合っているのだろうな、と僕は想像していたのですが、若手がようやく絞り出した「悲鳴」が、こんなふうに押しつぶされていくのか……
 僕自身が運動音痴というのもあって、部活の顧問とかは、スポーツが得意じゃない教師にとってはきついだろうし、そもそも、ただでさえ仕事が多いなかで、時間外や休日のサービス残業化しているのは酷いと思うのです。でも、やりたくない人はやらなくていい、というシステムにできるほど、人が余っていたり、希望者が多いわけでもない。
 そもそも、教師がこんな状況下で働いていて、生徒に「いじめをなくそう」「人の話をきちんと聴こう」などという資格があるのだろうか。

 学校外の大人が学校内で子どもを傷つけることについては、全校で防犯訓練が実施される。けれども、学校内の大人が子どもを傷つけるということについては、まるで知らないふり。
 学校教育において、教師というのは、とても崇高で立派な存在である。そうした位置づけが、教師から子どもへのハラスメントを、なきものにしている。
 そして本章の最後に強調したいのは、だからこそ教師においては、学校管理下で出逢う自身のハラスメント被害についても、それがなかったことにされてしまうということである。
 教育界では、崇高で立派な存在として、偉大なる教師像が描かれる。その対極に、被害を受けて傷つく教師像がある。まさか、偉大なる教師が、小さなことに傷つき涙しているなどと、誰が想像できようか。
 崇高で立派であるからこそ、悪いおこないをするはずがない。だから教師は、加害者カテゴリに最初から含まれない。
 教育界において教師は、ハラスメントの加害者としても被害者としても位置づけられない。加害者としての罪を免れうる特権は、同時に被害者としての認定をも妨げうるものとなる。 
 これは、コインの裏と表の関係にあり、結局のところこのコインは、教育界が教師を特別扱いしすぎてきたことによってできあがっている。
 加害者と被害者を想定することなく、ハラスメントそのものを直視していく。崇高で立派な教師像を解体し、学校の風通しをよくする。教師の特権が奪われることで、教師の安全と安心が確立されていく。


 東須磨小学校の事件は、被害者の側にも、「自分は『学校の先生』なんだから、いじめられるなんてことはあってはならない」という意識があったのだと僕は感じています。
 そして、いじめる側は、「自分たちは『先生』なんだから、いまこうやって激辛カレーを目にすりこんでいるのは、『イジメ』じゃない」と思い込んでいた。いや、被害者に思い込ませようとしていただけなのかもしれないけれど。

 
 東須磨小の事件はあまりにも極端であっても(そうであってほしいけれど)、「部活動万歳教師スクラム」みたいなのは、あちこちで見られているのではなかろうか。
 学校の先生も「マッチョ職業」だけに、「できないなら辞めちまえ」「それじゃ、子供たちのためにならないだろ!」という圧が強いはずです。


fujipon.hatenablog.com


 基本的には「なぜそんなこともできないんだ!」という上位者からの「指導」を徹底的に排除するしかない、と思うのですが、正直、負の感情を全く表に出さずに気に入らない人と接することができるというのはものすごく高度な技術ですし、世の中をそういう超人ばかりにする、というのも無理筋だな、と考え込まずにはいられなくなるのです。
 それこそ、「教育はAIにやってもらう」のが、最大公約数的な「正解」に、近い将来はなるのかもしれませんね。
 いやもういっそ、面倒な仕事は、全部AIやロボットにやってもらって、仕事に向かない人は、働かないほうが良いのでは……

 
 個人的な経験からいうと、大概の人は「ここで踏ん張らなければ、後はもっと悪くなるばかりだ」と思いがちなのですが、実際は「自分を変えるよりも、環境を変えたほうが早いし効果的」なことが多いのです。大人は、子供よりも自分の意思で環境を変えやすいですし。
 「ここでダメなら、どこへ行ってもダメ」なんて言う人はけっこういますけど、僕は「その言葉を口にする人がいる場所からは、なるべく早く脱出すべきだ」と思います。
 そういう人は、大概「ここしか知らない」ので。


サバイバル組織術 (文春新書)

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